ミニマルな語り口に宿る深い思慮、祈り
公開中の『僕はイエス様が嫌い』(英語タイトル「JESUS」)は、弱冠22歳(制作当時)の奥山大史(おくやまひろし)が監督、脚本、撮影、編集を手がけた長編デビュー作。第19回東京フィルメックスに出品されたほか、サンセバスチャン国際映画祭(最優秀新人監督賞を史上最年少にて受賞)、ストックホルム国際映画祭(最優秀撮影賞)、マカオ国際映画祭(スペシャル・メンション)と高い評価を得て、海外での劇場公開も次々と決まっているという注目の作品だ。難しいテーマを軸に、ユーモアとセンスが冴えるミニマルな語り口で描く。ホームビデオを意識したという小さめの(スタンダードサイズ)画角の中、少年ユラ(佐藤結良)やカズマ(大熊理樹)を捉える魅力的なカメラワークにこころつかまれる。
■ミッションスクールへの転校
主人公は小学生の少年ユラ。家族で東京から雪深い地方の祖母の家に引っ越してくる。細かい事情は描かれないが、両親は共働きのよう。そして近所のミッションスクールへ転校する。しばらくはおばあちゃんの部屋で寝るように言われたユラ、寝室の仏壇におばあちゃんと一緒に自然と手を合わせるとそこには祖父が笑っていた。翌朝、担任の先生に促されて「東京から来ました」とクラスであいさつをする。
その夜の食卓で「友達はできた?」と家族に聞かれたけれど、そんなに早くできるわけがない。人見知りだったりもする。生まれて初めてキリスト教の礼拝堂でお祈りをするユラの前に、小さなイエス様(チャド・マレーン)がキラキラと出現する。“神様”なのか…? ユラには正体がわからないし、他の人には見えていないみたい。でもなんだかフレンドリーで、妙な存在だ。
■小さなイエスが出現する謎タイミング
願い事をすると不思議と叶ったりする。でもそれは神社だったり、仏壇だったり、イエス・キリストだったり。お願いの相手が変わるのも日本の日常なのだ。そんななか、ユラは大事な友だち、カズマと出会う。縁結びのにわとりが雪の上で自信たっぷりに歩く。にわとりも神なのか? “神様”に話をもどすと、それからちょいちょいユラの前に現れる。何かしらの意味がありそうでなさそうなタイミングで。この「タイミング」と「出現する、しない」に意味はあるのだろうか…。思うようには物事は動かない。叶えられる願いと叶えられない願いがある。なぜだろう? 願いごとはやがて祈りへと変化する。ここにこの映画のおもしろさ、思慮深さがある。神は何を望むのか? いや神は本当にいるのだろうか? 壮大な問いに対して、ごくごく身近で親しみのある距離感を保って描く、その演出、構成力に畏れいる。
■迷いのない演出
第19回東京フィルメックス(2018)で国内プレミア上映された際には、ストックホルムの映画祭参加中の奥山監督からビデオメッセージが届き、会場では佐藤結良と大熊理樹、また佐伯日菜子とチャド・マレーンが舞台挨拶を行った。佐伯が「監督は迷いのない演出をしていた」と語ったことも印象的で納得だった。
奥山が青山学院大学在学中に制作した超低予算の作品ということだが、繊細で大胆、そして神聖な映像美は新人監督とは思えない。とりわけ心を掴まれたユラ(星野由来)役の佐藤結良にはオーディションで出会ったという。まさに神がかった出会いかもしれない。長めの前髪からのぞく瞳。仏壇で手を合わせる時にみせるオフの顔。大きめの制服。窓から外を眺める横顔。雪の上でサッカーボールを蹴ったり、別荘地で遊ぶ少年ふたりの構図。加えて、話すと意外と大人っぽいというギャップもいい。印象的なシーンをあげるとキリがない。ビクトル・エリセ監督やフランソワ・トリュフォー監督によって生きた天使たちのように、ユラたちもきっと観客の心に生き続けるに違いない。 そしてエンディングに、あるメッセージが流れる。監督の静かな思いだ。悲しい事件や事故が起こり続けるこの社会に、少しでも柔らかい光がもたらされるようにと祈るばかりだ。
文・福嶋真砂代
information:
監督・脚本・撮影・編集:奥山大史
キャスト:佐藤結良、大熊理樹、佐伯日菜子、チャド・マレーン他
日本 / 2018 / 76分
TOHOシネマズ 日比谷ほか全国順次公開中
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