REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Review 48『羊飼いと風船』

チベットの大草原に読み解く、過去、現在、未来

文:福嶋真砂代

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(C)2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

『気球』というタイトルで第20東京フィルメックス(最優秀作品賞受賞)にて発表された本作は新しく『羊飼いと風船』とタイトルを変えて、本日(1月22日)からペマツェテン監督初の日本劇場公開となる。『オールド・ドッグ』(11)『タルロ』(15)『轢き殺された羊』(18)など同映画祭で次々発表され3度の受賞、作家としても活躍する同監督の"作家性"を印象づけてきた。ペマツェテン作品に欠かせないリュ・ソンイエ撮影の繊細かつ躍動的なカメラワークが作品の眼差しを支えている。

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(C)2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

チベットの大草原で牧畜を営む、若い夫婦タルギェ(ジンバ)とドルカル(ソナム・ワンモ)と3人の息子、祖父と、三世代が一緒に暮らす家族が描かれる。生活の生命線である羊の繁殖。少数民族に許されない4人目のこどもの妊娠。仏教精神を重んじる生活、そしてドルカルの妹シャンチュ・ドルマ(ヤンシクツォ)の悲恋。さらには近代化していく生活の変化や教育問題などが物語のタペストリーに織り込まれる。「三世代」が示す3つの時代、すなわち祖父の文化大革命時代(過去)、若夫婦の伝統を引き継ぎながらも近代化の波に対峙する時代(現在)、そして地縁や血縁からフリーな生き方を選ぶであろう次世代(未来)が、同時に映し出されるところにこの映画の“現代性”がある。とりわけ妻ドルカルが、予期せぬ妊娠から異なる価値観の板挟みとなり、葛藤の末に未来へと立ち向かうエネルギーには女性の自立が示され、新しい時代の息吹きと風を感じる。

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(C)2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

チベットというあまりにも過酷な歴史背景を背負うくにの物語を観る時、そのつらい闘いを思うと、正直、複雑な思いもする。しかし、雄大な草原や放牧の勇壮な営み、この大自然の中の暮らしは、ITやコンクリートにガッチリと包囲される殺伐とした私たちの生活とくらべると、なんという大気のすがすがしさだろうと羨ましくもなる。こどもたちの表情はあどけなく、コンドームを“風船”と思い込む純粋さに苦笑してしまう。先祖を敬い、輪廻転生を信じ、家族の結束はかたく、仏教が精神性を支える。そんな人間として大事なものを守っている生活へのノスタルジーや尊敬ももちろん湧き出る。

しかしそんな彼らの生活にも、やはり中国の政治問題の影がベールのように視界を阻む。そういえばこの映画のオープニングも白い靄がかかり視界がぼやけ、ある種のもどかしさの中ではじまる。ペマツェテン監督はあからさまな言及や表現をよしとせず、自然のなかで懸命に実直に生きる人々を、ユーモアとおとな向けの高度な比喩をまさに“羊飼い”のように使いこなし、見えるようで見えない、いや見える、そんな危うい境界線上の現象を描くことで、チベットの現状を世界に向けて照らしてくれているように思う。深く読み解くために、わたしたちの知性や想像力を最大に研ぎ澄ます必要があることは確かだ。

ちなみに原題の「気球」は、妹の元恋人の小説家・教師(実はペマツェテンの敬愛する作家タクブンジャと同名をつけている:プレス資料、星泉教授のコラムより)が書いた小説のタイトルである。

最後に、ペマツェテン監督の第20回東京フィルメックス上映に寄せたメッセージを掲載します。

「『気球』はリアリティと魂の関係を探求した作品だ。チベットの人々は肉体が消滅したとしても魂は生き続けると信じている。仏教の信仰が近代社会のリアリティとぶつかった時、人々はどちらを選ぶかを決めなければならない。」

Information:

監督・脚本:ペマ・ツェテン
出演:ソナム・ワンモ、ジンバ、ヤンシクツォ
配給:ビターズ・エンド
英題:BALLOON 原題:気球
2019 年/中国/102 分/チベット語/ビスタ
©2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.
 2021年1月22日よりシネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー 

realtokyocinema.hatenadiary.com

Review 47『あのこは貴族』

さても聡明な女性は潔く、かっこいい

文・福嶋真砂代

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©山内マリコ集英社・『あのこは貴族』製作委員会

2021年2月劇場公開予定の『あのこは貴族』(第33回東京国際映画祭にて特別招待作品ワールドプレミア上映)。山内マリコの同名小説が岨手由貴子監督・脚本により映画化された。原作は、“別世界”に生きるふたりの女性の生き方を描くことで、日本の「階級社会」の実態にいわば社会人類学的な視点をあてる痛快で思索に富む作品。岨手監督はその本質を逃さず、世界観をリアルに伝えながら、原作にない差し込み演出で楽しい“ひねり”も数カ所に加えている。

おそらく東京に住む地方出身者には、ここに描写されていることに様々な場面で思い当たることがあるかもしれない。疎外感、羨望、そして「努力してもかなわない」という諦め。北陸出身の筆者自身も味わった数々のモヤモヤ感がみごとにミエル化されている。しかし、この物語が実り深いのは、そんなネガティブな感情を問題にせず、もっと先へ、フェアでポジティブな思考を導き出そうとしているところだ。

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©山内マリコ集英社・『あのこは貴族』製作委員会

物語の中心となるのは榛原華子(門脇麦)と時岡美紀(水原希子)の同年代のふたり(ハイバラハナコ、トキオカミキという名前の音感がいい)。華子は上流家庭のお嬢様で、世間知らずな“箱入り娘”である。「結婚」が家族にとっての最高のミッションであり、それが自分の幸せなのだと信じている、いや信じようとしている。恵まれた環境になんら疑問を抱くことなく、もちろん生活の苦労もなく、名門カトリック私立大学を卒業した。いっぽう美紀は、地方出身、猛勉強の末に競争を勝ち抜いて東京の一流私立大学に合格した「上京組」だ。実家からの仕送り頼みだったが、父の失業により、始めた夜のアルバイトにも限界がきて中退を余儀なくされる。

門脇と水原の豊かで繊細な表現力に加えて、サブキャストの女性たち:華子が唯一心を許せる、ドイツ留学から帰国したバイオリニストの相良逸子(石橋静河)と、美紀と共に地方から同じ大学に入学し、卒業後Uターン就職をした平田里英(山下リオ)の存在感も印象深い。「東京って棲み分けされているから、違う階層の人とは出会わないようになってる」と聡明な逸子が解くと説得力があり、「田舎から出てきて搾取されまくって、もう私たちって東京の養分だよね」と笑い飛ばす里英のセリフにパワーがある。

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©山内マリコ集英社・『あのこは貴族』製作委員会

“別世界”のふたりを繋ぐのは、華子のフィアンセとなる青木幸一郎(高良健吾)だ。偶然にも彼は、美紀の“恋人”だった。美紀の通った大学にいた「内部生」(小学校からエスカレーター式に進学する)グループの中の王子様的な存在だったが、一度だけノートを貸したことで知り合った。美紀が大学を中退した後、夜の仕事先で再会した幸一郎とは、“都合よく呼び出される女”としての関係がだらだらと続いていた。

さて、華子のフィアンセに恋人がいることを嗅ぎとった逸子は、ふたりを直接合わせるという大胆な“療法”を敢行する。ふつうなら修羅場となるところが(原作では近松門左衛門人形浄瑠璃心中天網島』を引用している)、ここで当事者たちにある種の“共犯関係”を結ばせる。さても聡明な女性は潔くかっこいい。階級云々より、人としてどう振舞うのかという根源的な人生訓が鮮やかに描かれる、ひとつのクライマックスシーンだ。ホテルの高層階、静かなティーラウンジの(男抜きで行われた)密約が、のちの彼女たちの人生を大きく変えていく。その痛快さ、とりわけあるシーンで幸一郎に美紀が手渡すキラーアイテム、「ホタルイカの素干し」の旨味は最高だ。

山内マリコは、究極のところ、“上流”と呼ばれる狭い世界の不自由さと、閉鎖的な地方都市の息苦しさは、同種のものではないかと導き出す。ちょっと視点をずらして見るだけで、つまり自分の気持ちしだいで「状況」は変わるのだ。しがらみのない世界を「なんて自由なことなんだろう!」と美紀が悟り、あるいは習慣を捨て、タクシーを降りて自分の足で華子が颯爽と歩きはじめると、冷たかった東京の空気、グレーな空の色が、鮮やかにやさしく変わっていくのだ……。

「ぼくの大事な日はいつも雨だ」という雨男の幸一郎に合わせて、グレイッシュブルーに彩られた上質な東京シーンが美しく、さらに渡邊琢磨のアンビエントかつエモーショナルな劇伴ががんばる彼女たちの人生にそっと寄り添う。すべてが静かに、饒舌に、豊かな時間を作り上げている。

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©山内マリコ集英社・『あのこは貴族』製作委員会


2021年2月26日(金)全国公開

Information:

監督・脚本:岨手由貴子
出演:門脇麦水原希子高良健吾石橋静河山下リオ銀粉蝶

音楽:渡邊琢磨
原作:山内マリコ「あのこは貴族」(集英社文庫刊)
配給:東京テアトル/バンダイナムコアーツ

上映時間:124

Review 『カナルタ 螺旋状の夢』(太田光海 監督・撮影・編集・録音)

セバスティアンがうたえば、森羅万象と交信がはじまる

『カナルタ 螺旋状の夢』の東京ドキュメンタリー映画祭2020<特集 映像の民族誌>におけるジャパンプレミア上映(2020/12/9)は満席となり、注目度の高さを伺わせた。監督の太田光海(おおたあきみ)は、マンチェスター大学グラナダ映像人類学センターの博士論文テーマとしてアマゾン熱帯雨林先住民族の生活を撮ることを決め、1年以上現地に住み込み、エクアドルでかつて“首刈り族”と恐れられたシュアール族の日常を追った。多くのテーマを投げかけながら、自由な世界観を示す新感覚のドキュメンタリー映画に、なにやら背筋がゾクゾクする衝撃を覚えた。先日行ったインタビュー内容を交えて紹介する。(編集後記:ちなみに国内ではこのインタビューが「初」なのだそうだ。)

文・福嶋真砂代

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@Akimi Ota

「若者よ、行くぞ!」と声をかけ、縦横無尽に野生の森を駆け抜けていくセバスティアン・ツァマライン。リズムのよい息遣いを感じながらその背中を追うカメラ。やがて村を見下ろす高台に出ると、空を眺め、おもむろに雨予想をする。ワクワクする「物語」のはじまり、その清々しい開放感に惹きつけられた。セバスティアンがうたえば、森羅万象と交信がはじまる。どこへ連れていってくれるのだろう?

「若者よ」と呼びかけられた太田光海が、エクアドル内陸部、ペルー国境近くの小さな村、ケンクイムにたどり着いたのは、「友人のツテのツテの、そのまたツテのツテのをたよって」というから、その道のりは簡単ではなかった。旅の途中で命の危険を覚える局面も多々あったという。ケンクイムは先住民族シュアールの人々が住む村で、旅行者もほぼ足を踏み入れないような秘境だ。そこに長期間にわたって寝泊りしながらカメラを構えた。

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@Akimi Ota

セバスティアンと妻のパストーラ・タンチーマは、村の中心的な存在であり、太田をアマゾンの森に迎え入れた大切な登場人物だ。パストーラが「チチャ」を作る。チチャとは、独特の製法で作る口噛み酒と呼ばれる発酵酒だ。これがないと仕事にならない。彼らの生活がチチャで成り立っていることがだんだんと見えてくる。たとえばある日、セバスティアンが「妻が体調がわるくてチチャを作れなかったんだ」と、近所の女性に「チチャをわけてほしい」と交渉をするシーン。買いたいが、かといって美味しいチチャでないとダメだと言う。真剣かつユーモラスなふたりの問答に見入る。ともあれ、何はなくともチチャなのだ。

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@Akimi Ota

それにしてもなぜこんなに親密でナチュラルな映像が撮れたのか。彼らとアキミの関係性を端的にあらわすのは、「この映画に映るものは全部真実だ。なぜならアキミはわたしたちが与えた食べものをなんでも食べてくれたから」と、キトでの上映会にゲストに招かれたセバスティアンとパストーラが語った言葉。食をともにしない人には、彼らは決して心を開くことはないのだと。(それにしても人類学者が乗り越えるハードルの高さにひたすら驚くしかない。)ときに彼らは「シュアール族のことを伝えてほしい」とカメラにも語りかける..

この映画にはアマゾン川を上から眺めるおなじみの空撮映像や、観光客のために民族衣装で踊る人々は登場しない。その代わり、森の木々、植物、水、土、空、鳥、昆虫、豊潤なアマゾンにめいっぱい遊び、始終、森の住人が奏でる音色を聴いている。ここで深呼吸をしたら、たちまち元気になるのだろう。彼らは、マチェーテ(ナタ)ひとつ持って森に出かける。そこでは、食べるものも、飲み水も不自由しない。もちろんWi-Fiなどない。だけど堅固な親戚ネットワークがある。ファミリーが助け合って家を建てたり、お母さんたちが料理しながらおしゃべりをする風景はどこか懐かしい。きっとほんの少し前の日本の家族の風景に似ているのだ。急にアマゾンが近くに感じられる。

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©Akimi Ota

そうこうするうち、我々はアヤワスカやマイキュアという覚醒作用をもたらす薬草の世界へいざなわれる。シャーマン系譜のツァマライン家に伝わる深い薬草の知識を説き、自ら飲んでみせるセバスティアン。眠りのなかで身体が時空を越えていく。夢を見ること。そこに「ヴィジョン」を見るのだという。太田が「螺旋状の夢」というサブタイトルをつけたのは、「彼らは円環的世界観の中にいるけれど、それは同じことの繰り返しではなく、夢やヴィジョンを得ながらそれぞれの個人が異なる生き方を選び、進んでいく、その運動が螺旋状に感じられたから」だと明かす。その神秘体験へ、アキミ自身も飛び込んでいく。

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©Akimi Ota

ちょっと脱線するが、実話を基にしたショーン・ペン監督の『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007)がふと頭をよぎる。エミール・ハーシュが演じたクリスは北へ向かってワイルドな旅をする。そしてアラスカの荒野で、孤独のうちに息絶えた。いっぽう『カナルタ』では、赤道上にワイルドな旅をし、孤独に耐えたのち、アマゾンの森とひとの温もりに包まれて“生還”を遂げた。背筋がゾクゾクしたのは、いま目にしているのは“奇跡的な映画”なのかもと直感したからだろうか。さらに、この映画はもしかすると“太田光海”が撮ったものではないという不思議な話も聞いた。謎は、クレジットにある「NANKI」という名前に隠されている。「いまのぼくだったら、この映画は撮れないかもしれない。“ナンキ(シュアール語で槍、またはウォリアーの意味:こんなに遠くまで独りでやってきた勇気を讚えて)”と家族に命名されたことで「ペルソナ」を得て、なんらかの力で、この映画を撮らせてもらった気がする」と……。

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©Akimi Ota

セバスティアンの背中を追いかけて冒険し、また同じ地点に戻ってきたと思ったが、じつは違う次元に立っていたというシュールなワープ感覚。そんな錯覚さえ起こすカメラワークや編集術、サウンドデザインもクールだ。また太田の人類学的な着眼点は、医療、教育、国家との関係と、みえる世界をさりげなく押し広げてくれる。映画がフォーカスした自然の叡智を享受する彼らの生き方からは、これから人類が生き残るため、学ぶべきことはあまりにも多い。アマゾンとアキミの間に結ばれた強い絆が「カナルタ」を世界中の人に届けることを信じよう。

 ※カナルタとは、「よく眠り、夢を見て、真の意味で自分が何ものかを知るべき時、シュアール族の人々は、『カナルタ』と言う」(『カナルタ 螺旋状の夢』より)

Information: 

監督・撮影・編集・録音:太田光
サウンドデザイン: マーティン・サロモンセン (Martin Salomonsen)
カラーグレーディング(Colour Grading): アリーヌ・ビズ(Aline Biz)
プロデューサー:太田光海(マンチェスター大学グラナダ映像人類学センター)
撮影場所:アマゾン熱帯雨林エクアドル共和国
2020年/120分/日英合作

英語タイトル:Kanarta: Alive in Dreams

予告編:

vimeo.com

★2020年12月9日(水)、K's cinema 東京ドキュメンタリー映画祭 <特集 映像の民族誌> にて上映

Profile: Ota Akimi /おおたあきみ 1989年東京都生まれ。神戸大学国際文化学部(現国際人間科学部)卒業後、パリ 社会科学高等研究院(EHESS)人類学修士課程修了。モロッコやパリ郊外で人類学的調査に従事する傍ら、共同通信パリ支局で カメラマン兼記者として活動。同時期、シネマテーク・フランセーズに足繁く通う。その後、マンチェスター大学グラナダ映像人類学センター博士課程に進学。エクアド ル・ペルー両国にまたがるアマゾン熱帯雨林での1年以上に渡るフィールドワークを経て、2020年、初監督作品『カナルタ 螺旋状の夢』を発表。博士(社会人類学)。

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@Jun Yokoyama

Review 46(TIFF): 『ムクシン』[4Kデジタル修復版](第33回東京国際映画祭 ワールドフォーカス部門)

どうしたら傷を癒し、許し合い、また共生できるのか

文・福嶋真砂代

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33東京国際映画祭TIFF2020)はコロナ禍で規模を縮小して、タイトな感染防止管理のもとなんとか無事に開催された。そんななか、心温まる伝説の作品、ワールドフォーカス部門にて上映された『ムクシン』を鑑賞した。本作はマレーシアの故ヤスミン・アフマド監督の『細い目』や『タレンタイム~優しい歌』と共に世界中で愛されている代表作のひとつだ。TIFF2006のワールドプレミアから14年後の今年、国際交流基金アジアセンターによる修復の【4Kデジタル修復版】がお披露目された。本編に先だって修復の様子の映像が上映され、撮影監督のロウ・スン・キョンが色調を監修したことが紹介された。(オンラインTIFFトークサロンではキャストのシャリファ・アルヤナ、シャリファ・アレヤがヤスミン監督との思い出や作品への思いを楽しく語ってくれた:下記アーカイブ参照)

マレー系の女の子、オーキッド(シャリファ・アルヤナ)がヒロインとなる「三部作(ほかに『細い目』、『グプラ』)」のひとつの『ムクシン』は、シリーズ中で最年少の10歳のオーキッドが登場。キュンとする小さな恋の物語の背景に、多民族、多言語、多宗教の人々が共生するマレーシア社会の一面を見ることができる。

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 「慈愛あまねき慈悲深きアラーの御名において」とコーランのテロップが出ると、すぐに小学校の作文の授業風景になり、中華系の教師がオーキッドに「君の作文が好きなんだ。もっと書いて」と話しかける。オーキッドの作文の才能が際立っていたのか、先生の単なる贔屓目だったのか不明だが、この伏線がのちのちに効いてくる。続く学校の外廊下シーン。ひとりの男子生徒の鞄をとりあげて少年たちが投げ合う、小さなイジメ事件をオーキッドが目撃する。(校舎の幾何学的でシンメトリーな美しさに目を奪われる。)その後、いじめっ子たちは正義感の強いオーキッドの反撃に合うのだが、示唆的で、スムーズなスタートだ。この映画では、「罪と罰」がさまざまな形で描かれる。(人だけじゃなく、猫とヒヨコのエピソードも)「やられたら、やり返す」、ドラマの半沢直樹じゃないけれど、「人を傷つけたり、反対に傷つけられたら、どうするか」がテーマでもある。やられっぱなしではいけない、かといって、報復がまた報復を呼ぶとしたら、どこかで止めなければならない。どうしたら、円満に、傷を癒し、許し合い、また共生できるのか….。これは世界の縮図のような多民族国家マレーシアの課題であり、また多様化する世界にとっての永遠のテーマである。

さらに冒頭シーンについて言及すると、オーキッドが学校から帰宅すると、父が率いるバンドメンバーたちがセッションをはじめる素敵なシーンがある。メイドのヤム(アディバ・ヌール)さんが本業の(ヌールさんは歌手で俳優である)美声を披露し、やがて亜熱帯特有の激しい雨になる。なんとオーキッドと若い母(シャリファ・アレヤ:アルヤムの実姉)は、その雨のなか、妙なふりの(おそらくアドリブの)ダンスを踊る。洗練された美しいシークエンスの間に愉快なコメディ要素を挟みながら、シリアスなテーマを伝えるヤスミン。そうしてオーキッドの少し荒んだ心がやわらいでいく。

さて、踊る母娘のうしろの道路を一台のタクシーが通り過ぎる。その窓から出した手だけでダンスをする少年の横顔があいまいに映し出される。「ん?」と思わせる。「ダンス?」「手だけで?」「誰なんだろう?」と観客をひきつける。オーキッドの初恋の相手、ムクシンの初登場シーンであり、彼が叔母の家に滞在する夏休みの初日でもあるが、キュッと心を掴むニクい演出である。

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オーキッドとムクシンは急速に仲良くなり、キービジュアルともなっている、自転車の目の覚めるような美しいショット、また木登り好きなオーキッドと樹上デート(ふたりは実にいろんな木に登っている)は楽しく見応えがある。しかし、ムクシンの家庭事情はなかなか深刻なものがあり、オーキッドと一緒にいる時間だけが安らぎだった。そんな折、サッカーの練習試合でつい真剣になり、エキサイトしてしまったムクシンはひどい言葉でオーキッドを傷つけ、突き放してしまう。

後半、沈むオーキッドを慰め元気づけようと、楽しいこと好きな家族があの手この手を使うも効果がない。ある夜、ナット・キング・コール「ヌキテパ」のレコード盤に針が落とされる。(TIFFトークでアレヤがパーフェクトなシーンだと語る)ダンスを踊る父と母、オーキッドも加わり静かに踊る3人の姿をドア越しにそっと見るムクシン。冒頭の明るいダンスシーンとのコントラストがたまらない。「電話を切らないで」と唄うシャンソン。オーキッドとムクシンに繋がれた「運命の糸」が切れそうなのだ…。その象徴アイテムのように凧揚げの凧を登場させるヤスミン。「ああ、凧の糸が切れてしまったらどうしよう」と切なさがつのる。まったく連絡がとれなくなったオーキッドの元にムクシンが届けた凧には、ある(未だ明かされないトップシークレット)メッセージが残される。オーキッドがそれに気づくのはいつなのか。間に合うのか、それとも…?

無邪気だった少女時代が、失恋のほろ苦い味と共に終わろうとしている。同時に、人を信じることがいかに難しいかを経験したオーキッド。夏休みが終わり、先生に褒めてもらった作文にやっと手をつける。一筋縄ではいかない人生、人間関係、恋。そして不条理。壊れやすい気持ちと痛みと癒しを丁寧に描いた『ムクシン』は、これからも色あせず、シューマンの「ドリーミング」にのせてみんなの心に残り続けるだろう。

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ヤスミン・アフマド監督:ムヴィオラ提供

Information:

監督:ヤスミン・アフマド
キャスト:モハマド・シャフィー・ナスウィプ、シャリファ・アルヤナ、シャリファ・アレヤ
101分/カラー/マレー語、英語/日本語・英語字幕/2006年/マレーシア

オンラインTIFFトークサロンアーカイブ:

関連サイト:

 

Interview 014 小森はるかさん(『空に聞く』監督・撮影・編集)

陸前高田の、とおい未来のこどもたちにも見てほしい

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@realtokyocinema2020

森はるか監督へのインタビューは、長編デビュー作『息の跡』から3年半ぶりとなる。最新作『空に聞く』は、COVID-19で世界がひっくり返る寸前の、第12回恵比寿映像祭(「時間を想像する」)の東京プレミア上映を幸いにも観ることができた。満席の映像祭のホールで、タイトルにこめた思いを語るQ&Aの小森さんの声に観客はじっと耳を傾けていた。東日本大震災後に、アーティストの瀬尾夏美さんとともにボランティア活動のために岩手に移住し、現地でアルバイトをしながら映画を作りはじめた。最初から“まち”に受け入れられたわけではない。少しずつ、少しずつ、居場所を見つけ、人と繋がる努力をしていたころ、陸前高田災害FMのパーソナリティ、阿部裕美さんと出会う。津波の後のかさ上げ工事が進み、まちの姿が変わりゆくなかで、懸命に「声」をつなげようとしていた阿部さんにカメラを向ける、その親密な距離感。ナレーションも音楽もなく、散りばめられた映像の粒子がひとつのエネルギーに静かに集約されていくシークエンスは小森はるか作品の醍醐味だ。「津波の後の風景だったはずが、“復興の前の風景”を撮っていた」と語る言葉が印象深い。ほかにも作品への思いをいろいろと伺った。

聞き手・文:福嶋真砂代

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(C)KOMORI HARUKA
阿部さんはやわらかで凛として、「メディア」になる人

ーー映画の主人公となる陸前高田災害FMパーソナリティの阿部裕美さんのやさしい光に包まれる感覚がしました。まず、阿部さんと小森さんの出会いから教えて下さい。 

小森:陸前高田に私が引っ越したのは2012年の4月でした。最初は大船渡でアルバイトをしていたのですが、その頃に知り合った大船渡の災害FMで働いている方に、陸前高田の災害FMに連れて行ってもらいました。2012年の夏だったかと思います。それ以前から陸前高田の災害FMTwitterをフォローしていて、きめの細かい情報発信を見るたびに、これはよっぽど思いのある人たちがこの災害FMにいるんだろうな、行ってみたいなと思っていました。ラジオ自体は電波の関係で私はあまり聴けてなかったのですが、災害FMの存在感は感じていて、でもその時はまだ阿部さんの存在は知りませんでした。FM局を訪ねると、阿部さんがちょうど出迎えてくれて、「あ、この方がやってるんだ」ってすごく腑に落ちた感じがしました。阿部さんも私たち(小森はるか+瀬尾夏美)のことをTwitter上で知っていてくれて、短い立ち話のなかで「会いたいと思ってました」と言ってくれました。

ーーなんだか運命的ですね。印象はいかがでしたか。

小森:阿部さんの印象は、物腰がやわらかで穏やかで、凛としている方だと初対面の時に感じました。阿部さんに会うと、みなさん同じような印象を持つようです。その時に阿部さんは「メディア(媒介)」になる人なのだろうなと感じました。まちの人たちの間に立って、声をつなげようとされている方だと。

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(C)KOMORI HARUKA

 ーー阿部さんを撮影したいと、会ってすぐに思ったのですか?

小森:出会ってから半年くらい経った時です。最初から撮りたいという思いはあったのですが、すぐにはとりかかれず、「映画を作るんだ」と自分の中で決心するまで半年かかっていました。「人を撮りたい」と決心した時に、阿部裕美さんと、そして佐藤貞一さん(『息の跡』)のお二人を撮影したいと思いました。なので「佐藤たね屋」さんの撮影とほぼ同時期でした。

ーーその決心するまでの半年間はどんな時間だったのですか?

 小森:引っ越して来たばかりで、誰も知り合いもいなくて、地域や、その日常の中に、どうやって入っていったらいいかということだけで精一杯だった時期です。陸前高田は私が住んでいた住田町(気仙郡)から通っていたので、まだどっぷりという感じではなかったんです。

ーーなるほど、そういう微妙な距離感があるんですね。決心してからは、小森さんひとりで撮影を始めたのですか?

小森:はい、ひとりです。「失われてしまったものを忘れないためにどうやって受け渡していくか」ということをされているまちの人たちの記録を映画にまとめたいという思いはあったのですが、このように関係を結んで撮影をすることが可能だったのはお二人でした。

撮りたくても撮れなかった光景がそこにあった

ーー阿部さんを撮ることで、番組のリスナーや、他のFM番組「舘の沖.com」のみなさんとか、いろんな方と繋がっていきましたね。

小森:なかなか人にカメラを向けることができなくて。というのは、はじめからカメラを持って出会ったのではなくて、大学院生(自身)が移住してきて、お蕎麦屋さんで働きはじめて、それで受け入れてもらい、親戚みたいにつきあってくれた人たちに対して、私がカメラを向けるとなると、被災した人とそれを撮りに来た人、という関係に結び直されてしまうと感じて。そうではなかったかもしれないけれど、自分としてはそれが怖かったんです。そんな気持ちがありましたが、阿部さんが関わっているラジオの収録の場面では、カメラを向けることが出来たんです。それまで撮りたくても撮れなかった光景がそこにありました。

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(C)KOMORI HARUKA

ーー「被写体」としてだけではなくて、扉を開けてくれた出会いでもあるのですね。

小森:扉が開いたんだと思います、ほんとに。ラジオの収録ではあるけれど、映像で記録することを阿部さんも理解してくれたので、撮影に入っても大丈夫な現場に招いてくれました。

ーー「黙祷放送」のシークエンスは圧巻でした。

小森:「黙祷放送」はどうしても撮りたくてお願いしました。地域のみなさんがともに「月命日(毎月11日)に祈る時間」が必要だったのではと思うんです。災害FMで「黙祷放送」をするというのは、ひとりではなく「みんなその時間にいるんだな」と、誰かと一緒に祈る時間を共有するもののように感じられました。弔いの時間のひとつになっていたと思います。

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(C)KOMORI HARUKA
手を撮ることは、顔よりもその人を感じられる

ーー阿部さんが放送局でCDをセッティングしたり、カフを上げ下げしたり、その手仕事を、本業は何をしている方なのだろうと思って見ていました。他にもお弁当を作る手や、お墓参りの手順も整然としていて無駄がない。そしてついに「和食 味彩」ではたらく阿部さんが映され、「阿部さんの手の秘密はこれだったのか」とわかる、そのシークエンスにゾクっときました。

小森:そうなんですね、ぜんぶが繋がってるなと思いました。阿部さんの手の動かし方は生活している人の、プロとはまた違うリズムがあると思いました。人が作業しているところを見ているのが好きです。手を撮るのは、顔よりもその人を感じられると思うからなんです。阿部さんは「ひとつひとつ確認する」というところが手に現れていて、それが阿部さんの性格を表しているように思います。丁寧に、間違えないように、緊張感を持って点検していく感じ。震災前に飲食店で仕事されていたときも、そうやって仕事をされてきたのだろうということが伝わってきて、すごくいいんですね。

ーー阿部さんはこの映画をいつごろ観られたのですか?

小森:愛知芸術文化センターでの上映の前です。観ていただいて、確認作業に長くお付き合いいただきました。阿部さんが気になるところ、誤解がないようにというところを指摘して下さって、そのすべてに私が応えられたわけではないのですが、阿部さんのほうから、「小森さんの表現だから、やりたいようにやったらいいよ」と言って下さって、結局はそのようにやらせていだだきました。

どこまで情報があったほうがいいのか、私自身も迷いがあったし、阿部さんも心配されたところです。本当に伝わるかどうか。例えば黙祷放送のシーンは、最初に原稿を読んでから黙祷をして終了となるのですが、じつは原稿を読んでいるところを私はカットしています。黙祷放送にとってとても大事な部分なので私も迷いましたし、阿部さんもなぜカットするのかと思われたと思うのですが、編集意図を理解して受け入れて下さいました。本当に難しいところですが、迷いはありつつも、やはり自分が観たいものを選びました。手探り状態で撮影をはじめた中で「これだ」というものを自分で見つけていくときに、阿部さんにご意見いただいて、いい意味で自分のやりたい方向を見つけさせてもらったという気がします。 

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(C)KOMORI HARUKA
津波の後の風景だったはずが、復興の前の風景を撮っていた

ーー2013年冬からのFM局と2018年夏のインタビュー部分と、二つの時間にまたがって撮影をされています。過去に撮影した素材で、時間を隔てて映画にしようと決心した時、気持ちも変化していくのだと思いますが、撮った素材に対しての思いも変化をしていますか。

小森:それはあるような気がします。その時は何も映らないなと思って撮っていた風景が、もはやいまは失われた風景になっていたりします。また時間が経てば変わるかもしれないですが、「津波の後の風景だったはずが、復興の前の風景を撮っていた」ということになっていくんです。自分が作品にしようと思うタイミングによって素材の見え方、捉え方が違ってくるし、阿部さんの語りによって、そういうふうに見直せたということはあります。そんなことがこれからもずっと起きるような気がしてます。

ーーコロナ禍でお祭りの在り方も変わってくると、それを映像化して残すことも貴重です。毎回「お祭り」は小森さんらしくて魅了されます。

小森:ほんとですか、お祭りばかり撮るのは卒業しなきゃ(笑)。もし記録係として撮るならいろんなことを定点的に撮っていないとダメですけど、記録をすると言いながらも、私は自分の撮りたいものしか撮っていなくて。せめてそれを何かしらの形で渡したいという時に「映画」という表現方法が今はいちばんしっくりきます。お祭りの意味合いとしても鎮魂の意味がありますし、そこに居なかった人たちが、人が集まることで見えてくる。お祭りによって人の気持ちが可視化されることがあると感じて、その瞬間を見たいと思って撮ってしまうし、編集で入れてしまうんです。

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(C)KOMORI HARUKA

 ーー「ワッショイ、ワッショイ」の声の被せ方に痺れますし、阿部さんが「おかえりの文字が上から見えるような位置に書いてあるんですよ」と話してくれたのも、鳥肌がたちました。現世とあの世をつなぐ、それこそ「メディア」として撮る、小森さんのお祭りは、賑やかさだけではなく、どこか寂しさを感じさせます。

小森:確かにすごく寂しさを感じます。お祭りだけど賑やかだけじゃない。それが伝わるのはうれしいです。

撮られる側の意識が変わってきている

ーーちょっと話が変わるのですが、いまは高性能スマートフォンカメラがあって、どこでも人は撮影することに抵抗がなくなってきました。映画を撮る状況も、小森さんが映画を撮り始めてから変わってきたのではないでしょうか。

小森:変わっています。撮る側だけではなく、撮られる側の意識もすごく変化しているなと感じます。日常的に撮られる機会が増えて、「映像に映っている自分」を観る機会も増えていますね。昔の人が感じた「写真に魂を抜かれる」恐怖感とは違うんだと思います。特に若い人たちはどういうふうに撮られているかわかって撮らせてくれている感じがして、そういう意味で変わってきたと思います。

『二重のまち/交代地のうたを編む』(制作:小森はるか+瀬尾夏美)の撮影をした時に、初めて陸前高田の高校生を撮らせてもらったのですが、例えばご高齢の方は、カメラに自分がどう映っているかわからないからこそ自然でいてくれることがあります。でも高校生はその逆で、カメラに撮られていることをわかりながら「自然に」居ようとしているなというのが伝わってきて、カメラの前で「振る舞える」ということですね。だからこそ自分も気をつけようと思いました。被写体側がそうやって受け入れてくれることに甘んじないようにしようと。撮らせてくれることに慣れてしまうのは、自分でもちょっと怖いなと思ってます。

 

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(C)KOMORI HARUKA

陸前高田の、とおい未来のこどもたちへ

ーー最後に、この映画をどのように見てもらいたいでしょうか。

小森:映画を見てくださる方それぞれに、阿部さんの声を聞いて、変化していく陸前高田の風景を見て、何か感じるものが一つでもあれば嬉しいです。あと最近想像するのは、このまちでこれから生まれる人たちは「いまの状況」は見れないだろうなということです。震災の記録は多く残っているし、津波や被害の様子などは資料館にもあります。でも復興していくまでの時間の人々の複雑な思い、例えば阿部さんがラジオのパーソナリティをしていた時間や、佐藤(たね屋)さんが井戸を掘っていた時間、という記録はなかなか出会えないと思うんです。だから、それを次に渡したいという気持ちがあります。自分がもしそこに生まれたとしたら、そういう人たちがいたことを知りたいと思うだろうな、と。いまに至るまでに間をつないでいた人たちを誰かに伝えたいという思いがあって、記録しているのだと思います。陸前高田でそれを必要とする世代はもっともっと先のことかもしれない。おじいちゃんやおばあちゃんからその話を聞けるという世代はまだ大丈夫ですけど、そのもっととおい未来のこどもたちがいつか見るものであったら、という思いもあります。

(※このインタビューは、2020年10月16日に行われました。)

1121()より東京 ポレポレ東中野にて公開、ほか全国順次公開

Information:

監督・撮影・編集:小森はるか
撮影・編集・録音・整音:福原悠介
特別協力:瀬尾夏美
企画:愛知芸術文化センター 制作:愛知県美術館
エグゼクティブ・プロデューサー:越後谷卓司
配給:東風  2018年/日本/73分

www.soranikiku.com

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