REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

TIFF Report:ツァイ・ミンリャン×深田晃司 対談レポート(国際交流基金×東京国際映画祭 co-present 交流ラウンジ)

私は楽しく生きている、なぜなら私は撮りたい映画を撮っているから

@realtokyocinema(Tsai Ming-liang and Fukada Koji)

去る1029日に行われた「「交流ラウンジ」深田晃司×ツァイ・ミンリャン (第35東京国際映画祭国際交流基金による共同トークイベント)のレポートをお届けします。

深田晃司監督との対談にあたり『ほとりの朔子』(13)、『淵に立つ』(16)、『海を駆ける』(18)の3作品を鑑賞したというツァイ・ミンリャン監督。自らの作品と対比し、作風の共通点をあげながら、ツァイ監督が映画にとって最も大切にしていることは何かを語った。これを受けて恐縮しながら、感激と感謝を伝える深田監督は、ツァイ監督作品がどのように自身の作品に影響を与えているかを明かしてくれた。ともするとサービス精神旺盛で語りすぎる監督たちだが、ツァイ監督は「セリフとリアリズム」「映画とマーケット」「賞味期限」「映画強国」などのキーワードを投げかけ、限られた時間内、巧みに貴重な内容のトークの舵取りをしていたことも現場にて筆者は感銘を覚えた。

とりわけ対談の後半、アート系の映画作りの難しさ、商業映画からの引退宣言をして以来、美術館とコラボを始めて10年を迎えようとしているツァイ監督の映画制作のパートは大変興味深い。トークの最後、「私は楽しく生きている、なぜなら私は撮りたい映画を撮っているから」という言葉で締めくくった。ツァイ監督の本音であり、すべてのクリエイターに響く普遍性のある言葉だと受け取った。またこれは昨今の混迷する映画制作者や関係者にとっても指針になる言葉なのではないかと感じた。この充実した対談を、主旨を残しながら語尾や順序などを修正し、フロアトークを除くほぼ全採録でお送りします。

取材・文:福嶋真砂代

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ツァイ・ミンリャン監督(以下、ツァイ):今回、東京国際映画祭で深田監督と対談をすると聞いて、3作品を拝見しました。深田監督の映画手法、言葉の使い方は、私の作品によく似ていて、同じ根を持っているのだなと感じました。ここ数年私は劇映画をあまり撮ってなかったのですが、深田作品を観るうちに、また劇映画を撮りたいという思いが湧いてきました。

セリフとリアリズム

深田晃司監督(以下、深田):ツァイ監督からまさかのお褒めをいただき、まず自分自身の作品を監督に観てもらえるだけでもとても嬉しく思っています。私は若い頃にファンとして映画を観ていたツァイ監督から、作風が似ていると言っていただけてすごく嬉しい。監督の作品は、デビュー作『青春神話』(92)からどんどん研ぎ澄まされていると感じるのですが、とりわけ素晴らしいと思うのは、「物語を語るために映像もセリフも使われてない、つまり物語を語るために消費されていない」という感覚です。私が好きなエリック・ロメールは著作の中で「セリフというのは、必要なセリフ本当のセリフに分かれる」という言い方をしていて、「必要なセリフ」とは物語を進めるためにどうしても必要な、いわばキャストに言わせなくてははいけないセリフであると。ただどういうセリフであれ、物語を進めるための「作り手の意図」にまみれた不自然なセリフだと。だから「本当のセリフ」というのが重要なのだと言っています。どうしたら「必要なセリフ」を減らしていけるだろうかということは毎回毎回(制作のなかで)意識するところです。ツァイ監督の作品は、特に近年になればなるほど徹底して、物語を進める上で消費されるセリフがなくなっていくことが素晴らしく、その監督から、自分の作品についてそのような言葉をいただけたことをとても嬉しく思います。

「生活のなかのシュールな瞬間」を切り取る

ツァイ: 私の映画はとても沈黙が多いです。というのは登場人物その人が孤独で寡黙だからです。私が映画に求める、大事にしているものは「感受性」だということ。その感覚が観客に伝わり、本当にこういう人が存在することが観客にわかってもらえるような「人物造形」をしています 。

また私の作品は音楽が極めて少ない。なぜなら音楽によって人物たちが持っている心情的なものを過度に表現してしまうことを恐れているのです 。

基本的に私は「リアリズム作家」だと思います 。しかし私の映画の中にはちょっとシュールな雰囲気が登場します。私たちの生活のなかには「シュールな瞬間」というのがあると思うからです。その部分を切り取って表現しているのです 。

深田監督の『淵に立つ』の登場人物たちは本当にリアルな人たちだと思いました。例えば夫婦関係のような家庭状況を描く時、朝ごはんの食卓から始まり、食卓での人物たちの動作、喋り方、すべてがリアルを感じさせました 。食事シーンは重要です。誰がどういう風に食べるか、その食べ方が人物を表現し、そこから全体的な雰囲気が出来上がります。特に浅野(忠信)さんが演じる男が現れてから空気が一変する、その雰囲気をうまく作り上げていると思いました。

まず雰囲気を作り上げ、一挙に物語の中に引き込み、それから驚きの情景に入っていく。物語が劇的に進みながら、すべてがリアルで、心に響く。 『淵に立つ』は、観る者=私に、このような物語、人物は存在するのだと深く信じ込ませてくれて、それぞれの人物の内在的なものに深く共感しました。そしてまた『 ほとりの朔子』も、リアルで、素晴らしい作品だと思いました。

俳優とのコミュニケーション

深田:演技について、人物の存在感について語ってくださったのは、言葉にできないほど嬉しいです。それは私一人の力ではなくて、俳優と一緒に作り上げたものだからです。ツァイ監督も俳優と作品についてコミュニケーションをとりながら作っていくのだということをインタビューで語られました。私自身も演技というのは監督のイメージを押し付けるのではなく、俳優自身が作っていくもので、俳優には目の前の共演者ときちんとコミュニケーションをとるということをお願いしています。そこ(劇中)にはいない観客に向かって演じるのではなく、ふだん私たちが他者と接するのと同じような感覚で、共演者も他者(目の前の共演者)と向き合ってほしいと思っています。(メインキャストの)浅野忠信さん、筒井真理子さん、古舘寛治さん、仲野太賀さんは意図を汲んで、とても創造的に関わってくれたので、だからこそのツァイ監督の感じて下さった「リアリティ」なのだと思います。

ツァイ:実は私は役者さん達との交流はあまりなく、それほど深く議論したりしないです(茶目っ気たっぷりに)。

深田:(慌てて)私もそんなにしないです、その、映画を通じて(の交流)です。

ツァイ:映画監督が俳優とどのように向き合っていくかは、それぞれのやり方があると思います。私が一番大事にしたいのは、人物が演じているその「空間」です。雰囲気をまず役者たちに提供してあげることが重要だと思います。私の映画は、セリフに頼って物語を進行していくタイプの作品ではないので、俳優が「空間」とどういう風に向き合って演じていくかが一番重要だと思います。

その件で思い出したのは、『愛情萬歳』(94)の中でヤン・グイメイと相手役のチェン・チャオロンが密かに愛を交わすシーンです。ヤンはベテラン女優なのでチェンが演技にうまく入っていけるように仕向けるのが上手く、ふたりは打ち解けておしゃべりしていました。

私はその様子を見て、ヤンに「あんまりチェンに構わないで欲しい」と伝えました。なぜなら映画の中ではふたりは知り合って間もない、まあほとんど知らない同士なので、あまり知ってるような雰囲気を作り上げてほしくなかった。監督はそれぞれ作品によって、どういう風に俳優と一緒にやっていくかが大事なのではないかと思います。

『淵に立つ』について、深田監督は母親役の筒井さんとよく話をされたと思うんです。複雑な役柄で、まず夫との関係があり、さらに浅野さんが現れてから彼女の心理は変化して行く。この役は監督が補助しなければ演じるのは難しいのではと思いました。

3作品を拝見して、深田監督は馴染みの俳優と一緒に映画を作ることが多いですが、そこは私と共通していると思います。お互い「阿吽の呼吸」で進んで行ける、つまり、よく知った仲なので、監督は俳優がどういう状態かを把握できて、一方俳優の側からすれば、監督が求めていることもわかっている。言葉がなくても演出できることがあるのではないかと思います。

映画制作で一番難しく、また大事なのは俳優の演出です。深田監督はうまいバランスを心得ていると、「ほとりの朔子」を観ても感じました。

深田:俳優との向き合い方というのは、監督によっても違うし、国によってもおそらく状況が違うのかなと思います。日本の場合は、まずそのオーディション文化というのがあまり根付いてなく、オファーをしてから「役柄」について話し合う時間もそれほど取れないことが多い。だから不幸なケースとして、初めて会った俳優同士が初めての現場で、長年連れ添ってきた夫婦を演じるというようなことも起きてしまう。なるべくそうならない方がいいと私は思っているので、作品について俳優と話す時間を作るようにしますし、筒井さんとも役についてはいろいろ話し、その上で信頼してお任せしました。ツァイ監督の場合は、たとえばフランソワ・トリュフォーとジャン=ピエールレオの(関係性)ような、(俳優は)監督の分身だろうかというぐらいに密な関係を築いていたりしますけど、それは自分の考える世界観や意図を理解してくれる俳優としてオファーするのでしょうか。毎回、大好きですし、彼が出ると安心感がありますね。

映画とマーケットの関係と「賞味期限」

ツァイ:ところで次は「映画とマーケットの関係」について話をしたいと思います。深田監督の作品は日本では興行的にはいかがですか?

深田:「はい、絶好調です!」と言うと嘘になるので、観てほしい人には届けたいと思ってやってるんですけど、200300館とか大きな規模で公開されるタイプの映画ではなく、また自覚している作風としては、かならずしも共感性、あるいは娯楽性が高い作品ではないので、残念ながらパッと火が点いて興行的に広がるというタイプの映画ではない。一言で言うと、そんなに当たってはないです。

ツァイ:私は、たぶん一生、興行的にはダメな監督っていう感じでしょうか。爆発的にヒットしたというような経験を今までしたことがありません。しかしそういう状況であっても、振り返れば、自分では満足しています。一作一作が大好きな作品であり、また「賞味期限」が長い作品を撮っていると自分でも思っています。例えば『青春神話』は現在アメリカで配給されていたりします。深田監督もどうやら私と同じような路線を歩んでいますね。

深田:光栄です。私の作品も「賞味期限」が長い映画になってほしいと本当に願っています。映画を作るときには、できれば100年先、自分の死後も観られる作品であってほしい、自分自身が古い映画を観てきたように、そうあってほしいなと願っています。幸いにも私が2008年にインディーズで撮った作品は、フランスなどでの配給も決まりつつあり、作って良かったと思いますし、細く長く観てもらいたいと願っています。

日本は映画強国

ツァイ:また別の話題に行きたいと思います。日本と台湾では映画の状況がやはり違うところがあって、日本は「映画強国」だと私は思うんです。これはマーケットのことを言っているのではなくて、作品性のことを言っています。台湾では、以前、ほとんどの作品が商業映画だったと言えます。台湾映画の状況を変えたのか80年代のホウ・シャオシェン監督の作品でした。当時は、毎年300本の国産映画が生産されて、それらは、ほぼ同じようなテイストの作品でした。だんだん観客も飽きてきて、興行的にも下向きになり、映画資金は香港から大陸へと流れて行きました。どういう映画を作ったらお金が儲かるか誰もわからない状況で、そんなときにホウ・シャオシェン監督が現れました。ちょうどその時、台湾では長く続いていた戒厳令が解除され、様々な題材のものが許可されて撮られるようになりました。

またエドワード・ヤン監督のようにアメリカ、日本から帰ってきた人もいて、ヨーロッパの監督に影響を与えるようなホウ作品というのも出てきたのです。その頃から台湾映画は輝かしい時期に入り、それは約十数年続き、制作本数は多くはないですが、素晴らしい作品が生まれました。『青春神話』が公開された年の夏、8本もの台湾の作品が日本で公開されるという状況もありました。

現在の台湾映画の状況は、例えばホウ監督の時代、そして私が撮っていた当時の映画とはかなり違ったものになってきています。 最近の台湾映画は、商業的な成功を目論む、ジャンル映画に偏ってきていると思います。 台湾の映画界は、マーケット的にはなんとなく賑わいを見せてはいますが、以前のような輝かしい状況ではなくなり、 私は残念に思っています。そのような台湾に比べて、日本映画界に深田監督や濱口(竜介)監督のような優れた監督が出てきているのは嬉しいことです。

作品から見ると、深田監督作品のような日本映画は、独特な言語表現を模索しながら、活力のある映画を作っていると感じます。そのことが映画にとって一番大事で、興行収入とは全然関わりのないところで、映画として重要なのだと思います。そういう監督たちは個人の創作の道を突き進んでいると思います。

売れる(興行収入を期待する)映画を作るというのは、ある意味、簡単なことだと思うんです。でも本当の意味で想像力を持ちながら、創作力のある作品を撮るというのはとても難しいことだと思います。

その意味で、現在も日本は「映画強国」として成りたっていると思います。かつては黒澤明小津安二郎小林正樹溝口健二大島渚などの監督たちが、世界を驚かすような素晴らしい作品を撮った映画強国でしたが、日本は今もそうなんだろうと思います。

「自分が見えている世界を描く」勇気を与えてくれた

深田:ありがとうございます。今の日本の若手監督たちが経済的にも厳しいという状況は知っているので、「映画強国」と言っていただくとむず痒いところもあります。おそらく濱口監督もそうだと思いますが、ホウ監督、エドワード・ヤン監督、当然ツァイ監督も、日本では90年代以降、ミニシアターブームの中で鑑賞できる環境が整っていたので、彼らの強い影響を受けて今の日本の状況があります。国は違っても、互いに影響を受け合いながら在るのだと思います。とくにツァイ監督の作品は自分にとって勇気を与えてくれる作品で、「こうやって映画を撮っていいんだ」と思わせてくれる作品であったのは強くお伝えしたいです。以前のインタビューで「自分が見えている世界を描く」と話されていて、自分も同じく、(映画作りは)「私はこういう風に世界が見えてる」ということを他者に対してフィードバックする作業であると思っています。ツァイ監督の映画は、日常生活のなかで、隣にいる人を見るように、そこには簡単には理解できない他者がそこにはいるという、すごく緊張感のある鑑賞体験だと思います。そのように想像力に対して開かれているというのが素晴らしいです。

例えば『愛情萬歳』の、もし未見でしたら耳を塞いで下さい、ラストシーンが本当に素晴らしい。ずっと泣き続ける女性の顔を撮り続け、泣き止んだところで映画が終わる。そこで映画が終わると、「ポジティブに泣き止んでその前向きに生きる女性」を描いたという印象を与えるけれど、映画はまた泣き始める女性を撮り、終わる。お客さんは「この女性が涙をふいて歩き始めることできるのか、または悲しみの中でまだしばらく生きていくのか」、それを観客の想像力に委ねるという形で描かれます。「私たちの世界はそんなに物語のように進んで行かないし、何かハッピーエンドになったり、バッドエンドになって終わるという単純なものではない」というように観客の想像力に委ねる、開かれた素晴らしい表現だなと思いました。また一方で、観る人の共感を得づらい内容になるから、当然興行収入にはなかなか結びつかない終わり方だと思うんですが、「こういう表現をしていいんだ」という勇気をもらえる作品でした。いまは『愛情萬歳』を例にあげましたけど、『河』(97)や 『青春神話』、『ピクニック』(2013)なども、作り手としてはとても勇気をもらえる作品です。だから若手監督としては、そういう作品を残してくれていたことに対して本当に感謝をしたいと思っています。

「観客を育てる」ということ

ツァイ:ありがとうございます。映画を見てくれる観客も大事ですね。いろんな場所に「いい観客」が存在します。特に日本にはいい観客がたくさんいると感じています。『河』の日本配給の話をします。ある日本の配給会社のご夫婦が『河』を観てくれた時に、素晴らしい作品だと言ってくださったのですが、しかし日本では公開は難しいと言いました。理由は「美しいヒロインがいないから」と。それから『河』は、ベルリン国際映画祭コンペティションに正式出品され(銀熊賞受賞)、その上映初日にまた別の日本の配給会社の方に会うと、 私の手を握り「ツァイ監督、もうあなたの映画を買いました」と。 その後、この会社が配給してくれたのです。宣伝のために来日した私が「なぜ日本で『河』を配給しようと思ったのですか?」 と聞くと、彼は「私はこの作品を日本の観客に見せたいと思ったからです」と言いました。

日本には、こういう「眼」を持ち、様々な異なる作品を日本人の観客に見せたいと思う人がいます。台湾にも同様の配給会社がありますが、少ない。私の少し前の作品では、私が自分でチケットを売りました。 公開1ヶ月前から、私と役者と一緒に街角でチケットを1万枚売ったのです。売上げを劇場の人に見せて、「必ず観客が来ますから2週間は上映して下さい」と言いました。ここまでやらないと私の作品は1日で上映が終わってしまいます。10年間、自分でこういう配給もしてきたいま、感慨深いものがあります。しかしこの方法もとても頼りないと思いました。

原因はどこにあるかというと、ヨーロッパとアジアの観客の違いです。何か雰囲気が違うんです。ヨーロッパの観客は芸術に触れる機会が多く、アート映画を見る習慣がある。ところがアジアの観客は、商業的な映画を見る習慣が多いように思う。ヨーロッパでは美術館と深く結びついたアート鑑賞をする習慣があることが違うと思いました。そこから判断して、私は美術館と提携し、自分の映画を美術館でやろうと思うようになりました。これまでチケットを街で売ってきたやり方を、美術館で同じようにやると言うこと、つまり「観客を育てる」という意味です。深田監督にも何か参考になるかなと思います。

深田:とても参考になります。「観客を育てる」というと啓蒙的になってしまいますが、つまりそれは「多様な作品に対して映画業界が開かれていく」ということだと思います。美術館とのコラボについてですが、確か2年前、ツァイ監督の初めてのVR 作品『蘭若寺の住人』が日本のアートフェスティバルで公開され、私も六本木へ観に行きました。「VR」に上映場所を変えただけで、ツァイ・ミンリャン監督作品でしかない。監督の住んでいる世界に自分が入り込むような不思議な体験ができる素晴らしい作品でした。

実はとても悩ましい問題で、例えばフランスにしても、興行収入1位から10位に入る映画はジャンル映画だとか、アクションやコメディという比較的娯楽性の高い、共感性の高い映画であるという状況はどこの国も同じだと思うんです。それでも「外国のよくわからない作品だけど観てやろうか」と思ってくれる客層はフランスには多いのは確か。悲しい現実ではあるんですけど、私の作品は明らかに日本よりもフランス、またヨーロッパのほうがお客さんが入るという状況です。日本での興行が、映画制作にかけた金額に対して、期待値よりもなかなか広がらないと悩むときに、一方で海外のいろんな国で配給が決まってるみたいな話を聞くと、やはり悩んでしまうところがあります。共感ができるかできないか、面白いかつまらないかも見てみないとわからないのだけど、「とりあえず観てみよう」と思ってくれるお客さんが少なくともフランスの方が多いのかもしれません。

しかしそれは個々の責任というよりも、例えばフランスには、そもそも学校で映画の授業があり、小学校の頃から授業で小津安二郎作品を観ている。そうやって少しずつお客さんが育っているという状況があるとは思います。娯楽性の高い作品、商業性の高い作品というものがあるのはとてもいいことですが、それだけではない作品に触れる機会、観れる機会をどんどん増やしていかないといけないし、自分自身もコツコツと「売れないからちょっと舵を切って作品を変えてみよう」じゃなくて、コツコツと作りたいものを作ってお客さんを育てていくということが、自分の映画を観たいと思ってくれる人を増やしていく上で大事なことだと、それを本当に実践されている監督の言葉を聞いて、改めて思わされました。

最後に

深田:今日はお集まりいただきましてありがとうございました。何より若い頃から観てきたツァイ監督とこうやって話すことができたことを、20年前の自分に教えてあげたいというぐらい、とても嬉しい時間を過ごすことができました。これからもツァイ監督の作品、新作をとても楽しみにしています。

ツァイ:今回、素晴らしい若手監督の作品を対談の前に観ることができ、対談できたこと、とても嬉しかったです。私はとても楽しく生きてます、というのは私が撮りたい作品を撮ってるからです。皆さんどうもありがとうございました。

■関連上映

Info 「第23回東京フィルメックス」がはじまります

いよいよ第23回「東京フィルメックス(10/29(土)~11/5(土)18作品上映予定)が近づいてきました。今年の上映ラインナップもエッジの効いたタイトルが目白押し。なかでも「ツァイ・ミンリャン監督デビュー30周年記念特集 」に大注目しています。イベント開催を前に、2014年に旧RealTokyoで行ったインタビュー記事をご紹介。会話のなかからツァイ監督とリー・カンションさんのなんとも微笑ましい関係性がうかがえます。特集前の予習にもこの機会にご一読下さい。

--(旧RealTokyoページより)--

ツァイ・ミンリャンさん(『郊遊<ピクニック>』監督・脚本)&リー・カンションさん(主演)」インタビュー
聞き手:福嶋真砂代
Date: September 05, 2014

ツァイ・ミンリャン監督とリー・カンションさん
長編10作目となる『郊遊<ピクニック>』が公開になるツァイ・ミンリャン監督と主演のリー・カンションさんが揃って来日し、インタビューに答えてくれた。これが引退作品になるとヴェネツィア国際映画祭で衝撃発表をしたツァイさんだが、その真相とは……? また20年近く共に映画を作り続けてきたリーさんにとって、ツァイ作品とはどのような存在なのか。さらに、共演したリーさんの甥と姪との微笑ましいエピソードも明かしてくれた。監督はリーさんを、おなじみの役名で愛称「小康(シャオカン)」と呼び、ユーモアで通じ合う、そのつながりの緊密さ、心地よさがそのまま映画のようだった。つづきは以下サイトへ。

Information:

第23回フィルメックス 開催概要

名称 : 第23回 東京フィルメックス / TOKYO FILMeX 2022
会期 : 2022年10月29日(土) ~ 11月5日(土)8日間 ※10/4現在

filmex.jp

Info:『コンビニエンス・ストーリー』コラム キネマ旬報掲載のお知らせ

今回は純三木系100%濃縮です

三木聡監督・脚本の『コンビニエンス・ストーリー」についてのコラムを「キネマ旬報8月下旬号」に寄稿しました。

死後、というか死の瞬間、人の魂はどうなるのだろう。たまたま筆者の実姉が他界したばかり、そんな生々しい感覚でこの作品に出逢ったというなんとも奇遇なタイミング。映画評論家マーク・シリングの原案をもとに、三木聡が「らしさ」を全開にして「純文学系」ならぬ“純三木系”に仕上げた最新作。摩訶不思議だけれど、現実の生々しい質感もたまらない。それにしても、ほんとに人間は、ひょいとこの世の境界を飛び越えて異世界にワープしていくのだろうか......。そういう意味で人類の永遠の謎に真正面から切り込むホラー意欲作、ともいえそう。主人公の売れない脚本家、加藤(成田凌)が体験したのはいったい何⁉ ほんの一瞬の「刹那」、つまり「咄嗟」の出来事を、意識がふっと浮遊して「永遠」とも思える世界に入り込む。本当に”永遠”だとしたら、それはそれでゾクッどころでない恐怖なのだが.......どうなの?

暑い夏、コラムをご一読のうえ、ぜひ映画館でゾクゾクしてください。

 


Information:

監督・脚本:三木聡
企画:マーク・シリング
出演:成田凌前田敦子、六角精児、片山友希、岩松了、渋川清彦、ふせえり、松浦祐也、BIGZAM、藤間爽子、小田ゆりえ、影山徹、シャラ ラジマ
配給:東映ビデオ

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Info:『カモン カモン』レビュー RealTokyo掲載のお知らせ

子どもたちと、未来について考える旅をしよう

(C)2021 Be Funny When You Can LLC. All Rights Reserved.

Written by 福嶋真砂代 / 2022.4.26

マイク・ミルズ監督は、自分の子供をお風呂に入れているときにインスピレーションを得て、脚本を書いたという。どおりで泡のようにやわらかな(ちょっとはかない)感触が映画全体を包み込む。『人生はビギナーズ』では自分と父親、そして『20センチュリー・ウーマン』では母親との関係を考察したミルズは、本作で「子どもたちと未来」を見据え、イマジネーション豊かな、そして親密な世界を描いている。 

...... 続きは、RealTokyo

 

A journey with children for thinking about the future

Director Mike Mills says he was inspired to write the script for this film while giving his child a bath, and as one might expect, a bubble-like softness (and a slight sense of fragility) pervades its entire length. After examining his relationship with his father in “Beginners” and that with his mother in “20th Century Women,” Mills turns his attention to children and the future in this imaginative and intimate work.

..... to be continued at RealTokyo.

Information:

『カモン カモン』

監督・脚本:マイク・ミルズ
2022.4.22
公開
配給:ハピネットファントム・スタジオ

www.realtokyo.co.jp

Interview 016 舩橋淳さん(『ある職場』監督、撮影、録音、脚本、編集)

時代の無意識を掬いとるような映画を撮りたい

 

取材・文:福嶋真砂代

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© 2020 TIMEFLIES Inc.

(※アンダーバー+リンクはRTCの意図とは関係なく「はてなブログ」仕様によるものです。無視しつつお読みいただければと思います。)

 

「日本のセクシャルハラスメント(以下、セクハラ)問題を考える」というセンシティブなテーマに果敢に挑んだ舩橋淳監督に、『ビッグ・リバー』(2006) 以来、16年ぶりとなるインタビューをZoomにて行った。日本社会で表に出るセクハラ事件は氷山の一角であり、その事案は後を絶たない。いったい何故なのだろう? 

映画は、とある一流ホテルチェーンの社員旅行にカメラが入り込む。実際に起きた事件をもとに描かれるフィクションだが、それはまるでドキュメンタリーのように登場人物の予測のつかない言動をモノクロ映像で追っていく。ホテルのフロント係、大庭早紀は上司から密室でセクハラを受けた。その後SNSの炎上があり、いまだその渦中にあることが旅行中に明かされる。それに対する同僚たちの反応は様々だ。早紀に寄り添う先輩、痛烈な意見を言う上司、またはカミングアウトするゲイカップル(唐突!)等々、同伴者も混ざる異色な空間が有機物のように生成されていく。しかし、彼らの白熱する議論はどこへ向かっているのだろうか……。(第33東京国際映画祭 TOKYOプレミア2020出品作品)

 

ーー「ある職場』はドキュメンタリーとフィクションを行き交うような手法で、日本のセクハラ問題について撮られたチャレンジングな作品だと思いました。いくつか謎のように思える部分もあり、お話を伺えればと思います。

 

舩橋:今回このように撮った理由には、「時代の無意識を掬いとりたい」という僕の映画への基本姿勢があります。『ビッグ・リバー』や『フタバから遠く離れて』(2012)もそのような意志から作りました。2007年に10年以上住んだアメリカから帰国後、心にひっかかりながらも撮る機会がなかったテーマに「ジェンダーの不平等」があります。アメリカもひどい状況ですが、日本のほうがもっとひどく、MeToo運動なんかほぼ無いに等しい。男女の不平等がまだまだ社会にある、ということは社会として全く未成熟だということです。テーマの設定としてまずそれがありました。

 

いっぽうで、僕の中には純粋に映画的な探求があり、ドキュメンタリーと劇映画を往復するように、これまでその両方を撮ってきました。劇映画では「あなたの映画ってドキュメンタリーっぽいね」と、またドキュメンタリーでは「劇映画っぽいね」と言われたりしました。劇映画では、俳優がセリフを発語することの作りもの臭さが気になって、それを剥ぎ取ろうとするように撮っていました。例えばプロの俳優に「そのままでいいですよ」と言ってもすごくがんばって演技をしてくれます。「俺はすごい」「私はこんな演技をするの」という前向きのエネルギーが無意識として(画面というのはセンシティブなので)映るんです。だけど人間の本当の姿というのはそうじゃない。ぼーっとしたり、少し気が抜けているときもある。そういうときこそが人間の本当の姿だなと思います。そこが僕がドキュメンタリーに惹かれる理由でもあります。映画の中で本当の人間の姿にできるだけ近づけるにはどうしたらいいのかという基本的な探求を持ち続けてきました。

 

以上の二点の合流点、というべきものが今回の映画にあるのです。台本にセリフは書かれていなくて、大きな流れを決めて、役者にそれぞれ基本的な設定を与えました。ハラスメントを受けた女性、彼女をとにかく護ってあげる人、男社会というのはそんなに簡単に変わらないから我慢してドライに生きて、男たちを見返してやればいいじゃないという人、他にも日和見主義的な人、セクハラなんか大したことないと思っているけど言わずにいる人、等々が登場します。最初はドキュメンタリーを撮ろうとセクハラ事件についてペン取材をしました。しかし名前や顔出しとかが難しいということで、特定化されないようにフィクション化したというのが劇映画になった理由です。僕が描きたいと思ったのは「セクシャル・ハラスメントをこの社会がどういうふうに受け止めているか」ということです。実に多様な受け止め方があり、心の底では「大したことない」と思っている人がいるような、せちがらい世の中です。しかし「大したことない」と思うのは性差別です。もちろん被害者を悲劇的なヒロインとして描く方法もありますが、僕はそちらじゃないほうを選んだのです。

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© 2020 TIMEFLIES Inc.

■観客も議論の渦中にいるような経験を

 

ーー登場人物の発言にだんだん腹が立ってきて、とくに野田さんの発言は強烈でした。でも世の中にそういう人は「いるいる」と思えます。いろいろな職場を経験して、彼らのようなキャラクターに出会ってきました。ただMeToo運動も経て、もう少し進化しているかと期待した分、「ああ、まだこうなのか」と現状に落胆しました。ところでこの社員旅行の設定は実際にあったのでしょうか?

 

舩橋:保養所への社員旅行というのは完全なフィクションで、「本音をぶちまけあう」という設定がほしかったのです。日本の企業組織では、このように15人くらいが車座に座って「あなたはどう思う?」なんていう状況はなかなかない。「バカンス」という設定で、無礼講でお酒も入り、冗談を言ううちに口が滑って、みんなが触れづらいことを話し出し、いつのまにか激論になる、というほうが本音が聞けるのではないか。日本の社会では、本音を建前でブロックしがちです。しかしフィクションでは、そのブロックがなくなり、まるで裸でやるデスマッチのような状態を見せることで、観客も裸で向き合えるような空間に身を差し出して、議論の渦中にいるかのような経験をしてほしいなと思ったんです。

 

ーー映画のなかで、リミッターを解除するきっかけとなる「キュー」がありました。はじめのキューは、ネットで悪さをしているSNSに電話をかければ本人に繋がるだろうという緊迫シーンで、議論の衝突が起こる。そういう「キュー」については舩橋監督が設定されたのですか?

 

舩橋:そうです。あらかじめ全体の流れは決めていました。またこの映画には主人公がいないのも狙いです。それぞれが自分が本当に正しいと思って話している。あの野田さんも彼なりに「これが正しい」と本当に信じているんです。

 

ーーそれを聞くとますます...、野田を演じられた田口善夫さんはとてもリアルでした。

 

舩橋:この映画の設定をするとき、役者がそれぞれのキャラを本気で信じるまで話し合いました。例えば野田は「セクハラなんか大したことない」と信じてる。というのは、セクハラを犯した加害者・熊中は、部署異動を命じられ、結局は会社に居づらくなり辞職した。人生のタイムスパンで見ると、早紀にはつらい約半年間かもしれないけれど、熊中は一生ものの辛さである。そう見ると熊中のほうがかわいそうじゃないかと野田は思った。それぞれの役者が自分の正当性を信じ込むまで話し合い、リハーサルなしで「せーのドン」で議論をはじめました。誰が勝つかはわからない。時々ブンってカメラが急に振れたと思います。あれは「あ、この人がいましゃべるんだ」と僕が驚きながらカメラを回していたからです。自分が驚き、また発見するように撮るほうが生々しさが記録されると思いました。ライブ感満載の「ガチの議論を撮る」映画なのです。

 

■被害者を守れない社会への違和感

 

ーーなぜ半年後の二回めの旅行を描いたのでしょうか。早紀にとって苦行のように思いましたが。

 

舩橋:なぜかと言うと、「被害者・早紀が疲弊してしまう」ことを描こうとしたのです。解決の明確なルール化や透明性がない中、被害者は誹謗中傷され袋叩きにあい、どんどん疲弊してしまう。映画の最後に統計を示していますが、ハラスメント被害者の約45%は被害後何もしないで終わっている。この数字は非常に重大だと思います。当事者が諦めてしまうのです。時間が経過しても表面的な処分はあっても根本的な解決とは程遠く、噂話が流れるなかで毎日生きていくという現実がある。渦中の人間は、事件直後はカーッとなっているからなんとかもつかもしれませんが、時間の経過とともに疲れ切ってしまう。主人公の女性がセクハラに遭ったことだけをとりあげて悲劇化するのではなく、まっとうに処理できず、被害者を守れない社会がおかしいのではないかということを問いかけたかったのです。

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© 2020 TIMEFLIES Inc.

ーーたびたび海とサーファーが挿入されているのが意味深でした。

 

舩橋:映画のロケ地は湘南です。サーファーが多くいて、それを情景として入れました。社会の荒波ととる人もいるかもしれないし、いろいろな解釈ができると思います。ただ美しいと思ったので撮っていましたが、以前観た小津安二郎監督の『麦秋』(1951)にそっくりなショットがあって仰天しました。「鎌倉は松竹大船撮影所が近くにあったところだ」と。今作のキャラクターの名前も、松竹の監督や脚本家の名前、小津、大庭、木下、野田……と付けてしまいました(笑)。ちなみに次回作には大映の監督名が出てきます。同じ役者陣で撮影した作品をいま編集していて、テーマは自己責任社会です。

 

ーー東京国際映画祭上映では「些細なこだわり」というタイトルでしたが、変えた意図とは?

 

舩橋:これは性に関するそれぞれの温度差や感覚の違いというものが如実に出てしまう映画になるだろうと予想していたので、それぞれのこだわりの違い、ということで「些細なこだわり」という暫定タイトルではじめました。僕はフレデリック・ワイズマン監督が好きで、ドキュメンタリーはワイズマン監督の影響を受けたりしていますが(舩橋によるインタビュー「全貌フレデリック・ワイズマンアメリカ合衆国を記録する」は岩波書店から出版されている)、彼は現実世界にカメラが没頭して、あたかもカメラが存在せずに人がその環境にいるかのような映画を構築しますが、今回の『ある職場』もまさしくその議論の渦中に自分がいるかのように見えてしまうように、僕がひとりでカメラを回して、全員が議論し、次に誰がしゃべるのか展開がわからないライブをそのままドキュメントしていくスタイルにしました。ワンテイク2時間撮っていたりするんです。約60時間のフッテージを撮り、3ヶ月半かけて編集しながら物語を紡いでいくと、これはひとつの職場のお話なのだなとだんだん見えてきました。例えば小説を書き終わったときにタイトルが見える、そんな方法に似ています。編集を経てようやくタイトルの「ある職場」がわかったということなんです。

(このインタビューは2022年2月16日に行われました。)

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舩橋淳監督ZoomInterview

インタビュー後記:

筆者の感想を正直に話すと、本作を初めて観た後、喉には小骨がひっかかったような、何か腑に落ちない感触が残った。その内訳をおおまかに分析すると、まず映画の基本的なシチュエーションについて、この社員旅行そのものが不思議に思えた。なぜなら参加者はそれほど打ち解けたメンバー構成ではなく、その状況で女性にとって極めてセンシティブなセクハラ問題を話し合うことの危険性。最も精神的にダメージを受けている時期に旅行に参加することさえ苦しいだろう。さらには参加者の中にいる取材者のようなカメラマンの存在。折々に挿入される波とサーファーの海辺の風景。牧歌的なピアノ曲による場面展開(まるでホン・サンス映画を想起させるようだ)によってますます謎めき考えこんだ......、言い換えればそれほどまでに映画に嵌まり込んでしまっていた。さてインタビューで、舩橋監督は小骨をそっと抜くように、丁寧に謎に答え、また謎を残してくれた。しかし謎解きされなかった部分にこそ、映画の愉しみがあるように思う。舩橋監督が吉田喜重監督と対談をした著書「まだ見ぬ映画言語に向けて」(作品社)は謎解きヒントの宝庫である。映画の森に迷い込み、そこに息づく樹木、木の年輪、枝の様相、葉っぱの葉脈までも鮮明に見えてくるような、ふたりの名監督の映画話に読み耽る。『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48(2015)に触れた章のなかに、舩橋が温めていたという今回のテーマ「ジェンダーの不平等」についての記述がある。日本の未成熟な社会について鋭く的確なまなざしを向けている。

ジェンダー不平等や女性のエンパワーメントがまだまだ後進国である日本において、女性の社会的地位は男性と同じとは言えません。それはシングルマザーの貧困率が高かったり、女性の再就職が困難であったりする状況だけでなく、女性は年齢が若ければ若いほどいい、「若いわね~」というのが褒め言葉になるベース文化(~略~)があり、若くフレッシュでなければだめという美的価値観が、「若くてかわいい」アイドル文化を支え、逆に「若くてかわいい」でなくなれば、用なしとなる厳しい世界を生んでいました。」

(「まだ見ぬ映画言語に向けて」著者:吉田喜重舩橋淳 より)

 

 Information:

『ある職場』

監督、撮影、録音、脚本、編集:舩橋淳 出演:平井早紀、伊藤恵、山中隆史、田口善央、満園雄太、辻井拓、藤村修アルーノル、木村成志、野村一瑛、万徳寺あんり、中澤梓佐、吉川みこと、羽田真

2020 年/135 分/カラー&モノクロ/16:9/DCP 
配給・宣伝:株式会社タイムフライズ

2022年3月5日(土)ポレポレ東中野にてロードショー

★『ビッグ・リバー」インタビュー(ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。「ほぼ日刊イトイ新聞」)

2006-05-23 vol.117  - Big River 1-
2006-05-26 vol.118  - Big River 2-
2006-05-30 vol.119  - Big River 3-

【ある職場】| 第33回東京国際映画祭(2020)