REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Review 25『泳ぎすぎた夜』

ありえないほどの奇跡がおこる雪の日の冒険

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(C)2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD

実際に暮らしてみることで、その土地や街からインスピレーションを得て、物語を紡ぎ出す、そんなアプローチで撮られた『泳ぎすぎた夜』は、五十嵐耕平ダミアン・マニヴェルというふたりの気鋭の監督による、国境を超えた共同監督作品だ。ふたりは見知らぬ土地、青森でのロケハンの頃から書簡をウェブ公開していて、結果がまったく見えないその時期の試行錯誤や発見の数々を知らせてくれていた。お互いを「まったく違う性格のふたりだ」と語るダミアンは、「発見と困難の両方があった」と振り返り、しかし「ピンポン・ゲームのようにアイディア交換をしながら、喧嘩や揉めるようなことは一度もなく、ふたりの違いはむしろ豊かなものに育っていった」と、東京フィルメックスプレミア上映後のQ&Aで語っていた。

映画は、6歳の元気な少年(古川鳳羅:タカラくん)の小さな冒険を、「家」、「魚市場」、「長い眠り」の3つのパートで描く。夜明け前の古川家、出勤する父の物音にタカラくんが目覚める。実はこの冒頭の、通学前のわずかな時間に大事なヒントがたくさん隠されている。勝手な感想だが、これは謎解きRPGゲームに似ていると思う。なぜならセリフはほぼゼロに等しく、最初のうち画面は暗い(これは素敵なのだが)、全編ナレーションも説明する人もでない、難解ではないが、すごく親切とは言えない進行に、鑑賞者はじっと目を凝らして、散りばめられたアイテムを見つけ、かつ覚えておかなければならない。静まり返る家の階段、窓の外の雪、犬の歩く音、父の烟草、ジッポのライター、それからおもちゃの恐竜、そして魚の絵(これは特に重要!)。まだまだある、帽子、手袋。どれが重要アイテムでどれがそうではないか、冒頭ではわからない。しかしすべてはここにあり、この先のパートで丁寧に回収されていく。つまり綿密に隅々まで練られ、かつそこから起こる「偶然」をたっぷり遊ぶやり方。もしかしてふたりの監督はゲーマーだろうか? いやそうでなくても遊び大好き少年の心を忘れない大人であることは確かだ。犬が少年にする「おはよう」の挨拶、お姉ちゃんがほとんど眠っている弟に服を着せるシーンもチャーミング。家族の優しさ、家庭のぬくもり。外の寒い寒い雪道の厳しさとの温度差を見せつける。起点のホームをスタートしてタカラくんはひとり旅、手袋が片方なくなろうが、道端の犬に吠えられようが、あはや迷子になりそうになろうが、勇気と機転で挑むのだ。圧巻はゴール間近の吹雪の駐車場、鍵のかかっていない車を探すなんて、ありえないほどのヒーローぶりを発揮した後、やがて電池が切れてしまう.....。家→中央弘前駅→魚市場(の駐車場)→家。彼が無事でいられるのか否か、観客はドキドキの冒険ゲームにお供する。

そんな視線を独り占めする少年をキャスティングした経緯について、「青森の音楽フェスティバルで遭遇した、異常にテンションの高い、でもシャイな少年がタカラくんだった」という。次いでお姉ちゃん、お母さん、お父さん、叔父さん(タカラくんがこっそり乗った車のやさしい運転手)という順序で家族まるごとキャスティングした。カメラマンは五十嵐の前作『息を殺して』の高橋航。スクリーンサイズを4:3スタンダートにしたのは「子供のサイズ感を生かし、絵本のように作りたかった」と。

さらに「この映画は、言ってみればドキュメンタリー的なフィクションなのです。タカラくんがだんだんと疲れていく様を描けたことは、映画にとって非常に重要なことでした」と五十嵐。予測をはるかに超えていく映画のミラクル。「タカラくんから、笑ったり、孤独な気持ちを感じてくれたらうれしい」とダミアン。もしかしたらすべてタカラくんの夢の続きだったのかも、なんて。冒頭の古川家の雪の窓、あそこに映っていたのかもしれない......。(敬称略)

福嶋真砂代★★★★

Information:

泳ぎすぎた夜

監督:ダミアン・マニヴェル五十嵐耕平/日本、フランス/2017年/79分

配給:コピアポア・フィルム、NOBO

映画『泳ぎすぎた夜』オフィシャルサイト

2018年4月14日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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第18回東京フィルメックスで学生審査員賞受賞(学生審査員とダミアン・マニヴェル五十嵐耕平監督)

★『泳ぎすぎた夜』 | 第18回「東京フィルメックス」

 

 

Interview 007 想田和弘さん(『港町』監督・製作・撮影・編集)

もう“忍者”じゃない、観察映画の新境地

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最新作『港町』(観察映画 第7弾)が公開となる想田和弘監督に、『選挙』(2007)から数えて6回目となるインタビューをした。『港町』は、前作『牡蠣工場』(2015)の制作と並行して撮られたドキュメンタリーで、妻の柏木規与子(製作)の実家のある岡山県牛窓を舞台に、漁師のワイちゃん、謎の女性クミさんというふたりの老人と、うしまど猫たちの日常を映す。想田ルールの「観察映画の十戒*1は守られ、興味深いシーンが鮮やかな印象を残しつつも、全編(ラストの一瞬を抜かして)がモノクロームの本作は、これまでの現実主義な感じと趣きが違う。ワイちゃんの船に乗り込む時も、魚やの高祖夫人の車に同乗する時も、墓場で村君さんの話を聞く時も、偶然の流れに乗りながら、確かに想田カメラは主導権を握っている。しかしある時、どうにも舵が取れなくなる。「おいで」と言われて一瞬惑い、老婆のあとを追い、不思議な話を聞く......、この出会いを「夢幻能」に喩えた、その真意とは? またワイちゃんやクミさんが暮らす牛窓の営みを観察することで見えてくる日本の現在と未来、そして失われた過去に想いを馳せる。「ささやかながら『港町』はひとつの供養になっているのではないか」と語ってくれた本作に、『牡蠣工場』とはまた別の牛窓の顔がみえてくる。

聞き手・文:福嶋真砂代 

◾️きっかけはワイちゃんです

 ーー『選挙』でお会いしてから10年が経ちました。想田さんは37歳の時に映画監督として長編デビューされてますが、いまの監督たちに比べたら遅めのデビューと言えるでしょうか。

そうかもしれないですね。今回行ったベルリン国際映画祭で日本人の20歳と25歳の女性監督(山中瑶子監督『あみこ』&清原惟監督『わたしたちの家』)がエントリーされていて、山中監督は映画祭で最年少でした。いつまでも僕の自己像は若手という感覚なんですけど、そうでもなくなりましたね。

ーー10年前から「観察映画の十戒のスタンスを守られていますが、それにしても、この『港町』は、これまでの観察映画の流れとは少し異なる趣きでした。『牡蠣工場』にワイちゃんとクミさんがチラリと登場してますね。そのおふたりが『港町』の主役でしたから驚きました。

逆に言うと『牡蠣工場』のとき、すでに『港町』を作ることは決まっていたので、カメオ出演的に『牡蠣工場』に登場してもらったとも言えます。

ーーなるほど。仕掛けていたんですね。

そうです。『牡蠣工場』と『港町』は2013年11月に、同時に撮っていました。実は最初は『牡蠣工場』と『港町』を1本の映画にしようと思っていました。でも『牡蠣工場』の編集を始めてすぐに、「あれ、これは牡蠣工場だけで2時間越えの映画になっちゃうな」と思い、そこにクミさんやワイちゃんを入れようとすると焦点がぼやけてしまうので、ふたつは分けて作ろうと方針転換しました。

ーーそれでいま『港町』が公開になるというのは何か理由が? 『ザ・ビッグハウス』と公開が接近してます。

たまたま同時に出来たということなんです。『ザ・ビッグハウス』もそうなんですが、僕はいつも成り行きで映画を作ることになる。『港町』も、『牡蠣工場』用の風景ショットを撮るために牛窓をうろうろしていて、偶然ワイちゃんに出会ったことがきっかけでした。「今日とれた魚だ」と、たぶん僕がカメラを持っていたからだと思いますが、「撮って」という感じで見せてくれたので、カメラを回し始めた。それから「明日漁に出るよ」と言われたので、「乗せて行って下さい」と一緒に海に出ました。さらに魚をどこへ持って行くのかと追うと市場に出た、その一連の自然な流れでシーンが撮れていった。市場でセリをしていた高祖さんは、僕たちがいつも魚を買っていた鮮魚店のおかみさんで、「あ、高祖さんがいる」とついて行ったんです。

ーーもう高祖さんが「嫌だ」と言うのに、想田さんは車に乗り込みましたね。あの強引なところが想田さんらしくて(笑)。とは言え、高祖さんにしても「仕方ないな」という感じで、そこによい関係性を感じました。『牡蠣工場』のときに、「漁師さんを撮りたいと思っていたら、牡蠣工場だった」とおっしゃっていましたが、ワイちゃんを撮ることでそれが叶ったということですね。

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(C)Laboratory X, Inc.

◼️アウトサイダーな僕らに興味を持ったのかも

ーーワイちゃんの流れもおもしろいのですが、クミさんのパートは強烈なインパクトを残します。でもあえて言うと、普通ならクミさんにはなかなか近づかないのではと思ってしまいます。ただ規与子さんは、誰に対しても隔てなく話しかけられるので……。

鋭いですね。僕は、実は逃げるタイプなんです。カメラを持っていなかったら、たぶんクミさんからは逃げていたと思います。僕はどちらかというと出不精な人間で、だから牛窓にいても、家の中にいたり、海で泳いだり、あまり人と関わらない。対して規与子はマメに外に出て行くタイプで、クミさんともマブダチみたいに仲良しになってしまう。今回はふたりで映画を撮っているので、規与子の影響が大きい。それプラス、カメラを持っていたからこそ、僕はクミさんについて行ったんだと思います。

ーー坂の上の病院へと想田さんを誘うクミさんですが、せっかく一緒に行ったのに、病院のことはそれほど話していないような……。

まず「病院の建物が新しくて綺麗だから撮れ」と言われても、普通は撮りに行かないですよね(笑)。クミさんはその「場所」というより、「一緒に行く」ということにワクワクするんだと思います。遠足に行く子どものように。クミさんの歩くスピードを見ているとすごくわかります。どこかへ向かうときには弾んでいて、速くて、前のめりに歩いていきます。でもそこから帰るとき、映画では”犬のおじさん”が居なかったと言って戻る足どりは、急にトボトボとなる。「どこかへ行く」というときに気持ちが華やぐというのは、僕自身も子どもの頃、遠足に行くとか、家族で外食に行くといったときに感じた懐かしい感覚です。「病院を見に行く」というのも、クミさんにとってはひとつの一大イベントですよね、「まだ見てないの!?」って(笑)。

ーーイヤとは言わせない押しの強さがありましたね。人懐っこさがある一方で人の中には入らないようにも見えました。例えばバーベキューに誘っても、クミさんは食べなかった。ワイちゃんは一緒に参加して食べてましたが、クミさんは輪の中に入って来ない。そこにクミさんというひとがよく現れていると思いました。

おっしゃる通り、とても象徴的なシーンだと僕も思いました。クミさんはおそらくアウトサイダーなのだと思います。ワイちゃんはある意味インサイダーなんです。つまり「サイクル」の中に入っている人。魚をとる、市場へ持っていく、セリが行われ、魚やで魚が売られる、残りを猫が食べる。そんな牛窓の社会の基幹となる小さな経済サイクルがあって、クミさんはどこかそのサイクルから外れたところにいたと思うんです。だからこそ、外からやってきた「ヨソ者」である僕らに興味を示されたんだと思います。僕らもアウトサイダーですからね。

ーーそういえば、(「どこから来たのか」と問われて答えた想田さんに向かって)「アメリカ?」ってワイちゃんに驚いた顔をされました。ワイちゃんという「中の人」から、想田さんという「外の人」に向ける顔、忘れられません。

たぶん「外」と言ってもせいぜい岡山市あたりから来たんだろうと思ったんでしょうね。それが「アメリカ」と聞いて、急にものすごく思考が跳躍したんだと思います。

ーークミさんはおそらく「どこから来たか」ということには頓着しない方なのではないでしょうか。

そうでしたね。クミさんは僕らの存在をたぶん普通に受けとめていたのではないかと思います。

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(C)Laboratory X, Inc.

◾️「何を聞いているんだろう、俺?」

ーー想田さんが(資料の中で)この映画を能の世界に喩えられていて、最初は何だろうと思ったのですが、次第にモノクロの世界が異次元的で、人が生きているようで生きてなくて、という不可思議な感覚を味わいました。

やっぱりクミさんという存在がそうなのかなと思います。彼女の場合は、半分くらいあちらの世界に行っているのではないかと。実際に行こうとしたこともあるし、きっと息子さんは自分とこの世を結びつけるような存在だったのではないかと。その存在を失くされてから、何かふわふわとした存在になられて、あちらの世界に連れて行かれた。そういう感覚が僕の中にあります。能には「夢幻能」というのがあって、まさに「幽霊が出てきて旅人にそこで起きた悲劇を語る」という能の構造と、この映画には共通点がある。生きてる人を幽霊にしちゃったら申し訳ないんですけど(笑)。

ーー「まさかドキュメンタリーでこんなことができるとは」とも書いていらっしゃいましたけど、不思議なドキュメンタリーだと思いました。

そうですね。不思議で、ちょっと怖かったです。あのシーンを撮っていて。「何を聞いているんだろう、俺?」っていう感じでした。

ーークミさんが病院でされた話はなんとも驚きの内容で、それを他の誰かではなく、想田さんに話しているという状況も、妙につじつまが合うような合わないような不思議な感じです。ところでクミさんとワイちゃんは映画を観られたのでしょうか。

残念ながらクミさんは完成を観ずに亡くなりました……。ワイちゃんは岡山での上映にご招待する予定です。

ーークミさんが夕日を背に映る美しいご自身の姿を観られなかったのは残念です。

本当に残念ですね。

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(C)Laboratory X, Inc.

◾️昔から続く「サイクル」が壊れていく

ーー実は私はなぜか急に感極まったところがあって、それが市場の「セリ」のシーンなんです。

そうなんですか!?

ーー魚がつれていかれて、セリで運命が分かれる迫力のシーンで映画の中へスッと引き込まれたようでした。想田監督は『牡蠣工場』でも、牡蠣剥きの一部始終や、料理を作る女性にカメラを向けるシーンなど、一連の手作業にじっとカメラを向けます。今回も鮮魚店で魚をさばくプロの手順をじっくり観ることができますが、日本人にとって(日本人に限らずとも)原風景なのではないかと思います。今はすでにラッピングされた切り身魚が店頭に並ぶので、魚が口に入るまでの過程を観る機会は少なくなりました。

はい、あの一連の作業をじっくり描きたいと思いました。やっていることは、とてもシンプルです。さっきもお話しした一連の流れ(海で魚をとり、売りたい人と買いたい人がいて、それを買いたい人に届ける)が経済の原型として続いてきたサイクルなんだと思います。同時にそれがいま成り立たなくなっていることが、僕にとっては衝撃なんです。つまり、綿々と続いてきた人類の歴史が、いま変質しようとしている。ワイちゃんが魚をとって始まる流れが、いまや生業として成立しにくくなっている。だから後継者もいないし、廃業する人も多い。何百年もずっと成立してきたものが、なぜダメになってしまうのか。この循環みたいなものが、いま動かなくなっているんです。

ーー『牡蠣工場』のとき、「これは『変化』についての映画だ」とおっしゃっていました。『港町』は「変化」というより「停止」のような、時間が止まっているような感じがします。だけどその停止の中に、人間にとって大切な「サイクル」があり、よく見ると「変化」が起きていることに気づきます、静かに着々と。

そう思います。お墓のシーンでもわかると思いますが、村君(ムラギミ)さんの家は13代続いてきている漁師の家系。おそらくあの丘のお墓の中の人は、ほとんどが漁師だったのではないかと思います。そういう歴史が、いま途絶えようとしている。そして死者も……。僕は死者というのはなんとなく永遠だと思っていたんですが、過疎化でお墓も移動しなくちゃいけなくなったりしますから。

◾️『港町』は断絶した亡霊のような過去とつながる感覚

ーー最近読んだ本の受け売りですが、情報技術の指数関数的な成長で、2045年頃には社会や人間に大きな変化が起こるという説を唱えるレイ・カーツワイル*2というアメリカ人科学者がいます。未来はどうなるのかわかりませんが、ITが発達して便利になり、すべての人に機会が増えて、もっと世の中は平等になっていくのではないかと期待していたら、現実は、格差が広がるばかりです。だからこそ『港町』に描かれているような人間的なサイクルが消滅することの危機感をますます感じます。

牛窓にいるとき、高度経済成長の負の側面を毎日感じていました。牛窓は万葉からあるような古い町です。ところが戦後になって護岸工事が進み、海岸線はほとんどがコンクリートになり、埋め立て地も多いんです。これから人口が増え、スペースが足りなくなるだろうという予測のもとに、そうしたのだろうと思うんです。しかし実際は、人口が増えるどころか、流出して過疎化が進み、埋立地は更地のまま、自然の海岸は海水浴場くらいしか残されていない。だから魚の生息地も減ってしまう。おそらくそれは牛窓だけじゃなくて、日本全国で起きています。もちろん、高度経済成長には肯定的な面もあると思います。僕の母は貧しい家庭に育ったので、経済成長は貧困から抜け出すということでした。母はいまでも古いものより、新しくてピカピカしたものが好きです。病院は新しいから見に行こうと言うクミさんと同じですね。貧困から抜け出すために、近代化や経済成長がものすごいスピードで起きましたが、同時に多くのものを破壊してきました。それは自然だったり、共同体だったり、倫理観だったり。最近、高度経済成長は「あの頃はよかった」なんて懐かしがられたりしますが、それだけではないのではないか。もっと言うと、明治以降の近代化や、さらには産業革命以降の人類全体の歴史の、正の側面だけではなく、負の側面も見ないとまずいのではないかと思うんです。何か歴史と断絶している感じがあって、『港町』には断絶した亡霊のような過去とつながる感覚があります。

ーー指数関数的な技術の加速に人間が追いつけない怖さはありますね。

本当に危険だと思います。このスピードの加速がなかったら、トランプ大統領だって生まれていなかったでしょう。だから今こそ「よく見る、よく聞く」ということが大切なのだと思います。それは「立ち止まる」ということです。観察映画の方法論や哲学は、僕にとっては日々の態度というか、この加速していく世界に対するアンチテーゼというか、解毒剤というか、そういうものだという感覚はあります。僕らはもっと立ち止まって、過去と繋がらなければならないと思います。過去に置いてきたものが多すぎる気がしますし、それを省みていない、供養していないと思うんです。いっぱい破壊し、殺してきたのに、その自覚がない。ささやかながら『港町』はひとつの供養になっているのではないかと思います。供養の方法はいろいろありますし、それを狙ったわけではないのですが、結果的にはそういう映画になっているのではないかという気がします。死者を弔うという行為は、人間にそもそも備わっている性質だと思うんです。それを綿々と続けてきたのが人類ではないかと。

ーーそれがいつのまにか疎かになってしまった。

政治学者の中島岳志さんがおっしゃるように、死者に対する軽視というのは、歴史に対する軽視ということだと思います。様々な死者があったから「いま」があるのに、あたかも死者がなかったかのように振舞っているのがいまの私たちの傾向だと思うんです。だから過去との断絶が起こる。あるいは過去と断絶するからそうなっているのかもしれないし、過去の遺産というか、過去から積み上げられてきた時間というものに思いを馳せられなくなってきています。いままで長い間続いてきたものを、簡単に破壊しようとする。たとえば辺野古もそうです。そこにずっと暮らしてきた魚たちがいるし、サンゴ礁だって、人間が生活するよりも前からずっと生息してきた。そういうものをなんだかわからない理由で埋め立てようとする。僕は政治的なことを置いておいても、あの海を埋め立てるということ自体にすごく倫理的・心理的な抵抗があります。

ーーところで『港町』に関する海外評が素晴らしく、とりわけバーバラ・ワーム(TAZ)さんは「親密で感情に訴える新しい次元に到達した」と書かれています。観察映画の新しい次元、私も実にそういう感じがしました。観察映画も変化、進化していて、しかも想田さんは『選挙』のときのように身を潜めて撮影していた”忍者”ではもうない。

そうですね。もう完全に忍者じゃないですね。

ーーそれはもう、うしまど猫たちと同じくらい存在感がありました(笑)。

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(C)Laboratory X, Inc.

Information:

『港町』

監督・製作・撮影・編集:想田和弘

配給:東風+gnome

映画『港町』公式サイト|想田和弘監督観察映画第7弾

47()よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー、ほか全国順次公開

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Report 9「めぐりあい JAXA 2018 -かぐやとだいちとわたしたち-」の観望会@せんがわ劇場(調布映画祭)

衛星『だいち』が捉えた地表(東北地方)、何を語る?

文:福嶋真砂代

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2018年2月17日、せんがわ劇場にて「めぐりあいJAXA 2018 -かぐやとだいちとわたしたち」の観望会(調布映画祭)」が行われ、会場は宇宙ファンと地元のみなさんで満員になりました。昨年に続いて2回目となります。今回は、第1部「『かぐや』が捉えた月面(テクノロジーお月見:山あり谷あり穴あり!)」第2部「衛星『だいち』が捉えた地表(東北地方(だいち最後の仕事 311を観測する)」の2部構成でした。
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この「『めぐりあいJAXAの観望会」は、JAXA宇宙航空研究開発機構人工衛星から送られた膨大なデータから、テーマに沿ったセレクション画像を動画に変換、新たな「映像」という形にして、地球のみんなで”ただひたすら”眺めようというシンプル極まる趣旨のイベント。キュレーターの澤隆志さんを中心に集まった宇宙愛好有志でサポートしています。映像作家の五島一浩さんが映像を制作、ゲスト解説者には、JAXAの度會英教さん、RESTEC一般財団法人リモート・センシング技術センター)の向井田明さん&山本彩さんを迎えました。また今回初の試みの幕間サウンド、ゲストDJのJUN80KIDZ)さんが創るクールなせんがわ的宇宙空間演出も堪能しました。衛星映像には音も音楽もなく、まるで真空状態の宇宙空間を疑似体験するかのように、サイレントな空間に遊び、目の前の大スクリーンには地球や月の映像が流れていく。どこが映されているかという解説もなく、テロップもない。ただただ眺めることに集中する、そんな観望会です。

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第1部「『かぐや』が捉えた月面 [テクノロジーお月見:山あり谷あり穴あり!] では、まず度會さんナビゲートによる月周回衛星「かぐや」のあらましと仕事についてのわかりやすい解説に耳を傾けた後、鉱物研究のバックグラウンドを持つ山本さんから「かぐや」のミッションやトリビア、穴の話、また月の誕生について鉱物的なアプローチに心ときめかせるひととき。なんと月と地球は「恋人関係」に近いかもしれない説、「アポロ11号は本当に行ったの?」と挑発的な突っ込みを入れる澤さんにドキドキしながら(着陸エビデンスがあるのだそう)、月への思いが深まった頃、かぐやが捉えた月面の表裏まるごと、あの有名になった「地球の出」も、そしてかぐやの最期の瞬間まで、約30分間の完全なる静寂の中での「お月見」は荘厳でした。

-intermission-

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第2部「衛星『だいち』が捉えた地表(東北地方)[だいち最後の仕事 311を観測する]」では、2011311東日本大震災前後のデータにフォーカス。関係機関各方面からの要請に応じてデータの提供に東奔西走していた向井田さんが、リモートセンシングの緊迫の現場でどんな仕事をしていたのか、また震災の前と後の「だいち」から送られた画像の差異について、リモートセンシングプロ視点による画像の見方を明かしてくれました。地球にどんなことが起ころうとも、ひたすら地球観測を続け、データを送り続ける「だいち」とリモートセンシングの仕事の重要性をあらためて感じつつ、震災当時撮影された画像を含む約30分間の地球(東北)を見つめました。

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“めぐりあいJAXA”とめぐりあう

ところで唐突ですが、私とこのプロジェクトとの関わりを紹介するため、ちょっと時間をさかのぼります。JAXA(当時NASDA)のALOS(「だいち」陸域観測技術衛星 2006124日打ち上げ-2011422日ミッション終了)プロジェクトチームのウェブ担当者としてRESTECに在籍したのは打ち上げ前の短い期間でしたが、そこで、H-IIAロケットに乗って打ち上げられ、地球を周回してデータを送り続ける、3つの目(パンクロマチック立体視センサ(PRISM)、高性能可視近赤外放射計2型(AVNIR-2)、フェーズドアレイ方式Lバンド合成開口レーダ(PALSAR))を持つ人工衛星「だいち」にめぐりあいました。人間の役割は、地球上でデータを受けとり、解析データを様々な研究(地震津波、台風などの災害状況の観測や防災分野のほか、森林監視や自然環境の保全、農業分野での活用、25千分1地形図の作成に利用されるなど、幅広い分野で「だいち」の観測データが活用されてきました。5年間で全世界を約650万シーンも撮影しました。2011年に発生した東日本大震災では、被災地を400シーンを撮影、各関係機関に情報を提供し続けました。ーだいちHPより)に活用することと知りました。率直な感想を言えば、観測活動そのものにはひとかけらの派手さもない、地味な仕事の繰り返しであること。しかしデータが一旦「画像」という形に変換されたとき、その美しさに圧倒されずにはいられない。それら膨大な素材が、もし一般の人の目に触れる機会が少なく、どこかに眠っているとしたら惜しい、そんな思いをふと持ちました。

その膨大なデータとともに、科学者たちの職人技とも言える解析と、たゆまぬ研究努力、とりわけ地球観測という現場において働く人々のことを書いてみたいと、以前コラム(『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』)を連載していた『ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)』の糸井重里編集長に相談したところ、「それ、やりましょう。ぼくも宇宙は好きだし、ロケット打ち上げも見たいね」ということで『お隣が宇宙、同僚がロケット』というコラムをスタートさせてくれました。しかし仕事とコラムの両立は難航し、ささやかな情熱は宇宙の彼方のデブリになってしまったかのようでした。その後も向井田さんと共に企みと挫折を繰り返し、いろいろ諦めかけていた2016年の秋、突然、澤さんから「調布映画祭のイベントで「だいち」のコンテンツを観せることができないかな」と相談を受けました。(あれは東京フィルメックスの合間のカフェでしたね。)すぐに浮かんだのは、やっぱりRESTEC元同僚の向井田さんの顔。過密スケジュールの合間をぬって、澤さんと向井田さんの運命の「めぐりあい」が実現(偶然にもふたりとも自転車乗りで、何かがハマるカ”チャリ”という音が聴こえたような、聴こえないような......)、現在に至ります。

大盛況だった筑波宇宙センター特別公開日(2017年9月30日)の観望会を入れると3回目の上映会となった今回、向井田さんのリモセン魂と、度會さんの日本の宇宙事業を網羅するやわらかな解説、山本さんのエッジの効いた鉱物トークがぐっと彩りを添え、さらに澤さんの「突っ込みMC」はますますドライブがかかってきました。今後も、興味深いテーマを追いかけ、「だいち」と一緒にまわるめぐりあいの旅、 観望ツアーはまだまだ続きます。

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参考サイト

めぐりあいJAXA2018 - YouTube

www.jaxa.jp

www.jaxa.jp

www.restec.or.jp

KazuhiroGoshima_index

http://80kidz.net/home/ 

www.facebook.com

realtokyocinema.hatenadiary.com

 

衛星「かぐや」と「だいち」 ©JAXA - 調布経済新聞

Review 25『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ』

お笑いでオブラートし重病の核心に迫る

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(C)2017 WHILE YOU WERE COMATOSE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

はたしてアメリカは目覚めることができるのか? はたまた重病のまま眠りについてしまうのか? そんなことを考えさせるタイトル「ビッグ・シック」とはなんとも意味深。何よりトランプ政権のいまのアメリカ、直球ど真ん中コースだ。映画の中では突如病に倒れ、治療のために昏睡状態となっているエミリーの病状のことでもあるが、描かれる周囲のドタバタ劇は実に現代アメリカの「シック=病気」状態。深刻さをお笑いで包み込みながら核心に迫るあたり、かなりインテリジェントだ。アメリカ5館から始まり、またたく間に上映館が増え、アカデミー賞候補に。共感のさざ波はすごい勢いで広まりビッグウェーブになっている。

シカゴに住むパキスタン系移民の芸人の卵、クメイルが主人公。演じるのは芸人で作家のクメイル・ナンジアニ。脚本は彼と妻のエミリーが共同脚本で名を連ねる。つまり、自分たちのラブ・ロマンスを自ら脚本を書き、クメイル本人が演じた実話ベースの話である。コメディライブを観にきた客のエミリー(ゾーイ・カザン)から野次を飛ばされ、言い返したことがきっかけでつきあい始めるふたり。しかしクメイルの家族は敬虔なイスラム教徒で、パキスタンの習慣をとても大切に守っている。逆に言えば、文化的に頑固なタイプの移民家族だ。若者クメイルのコメディはそんなパキスタン家族の”あるある”をいじるネタで構成されている(悪いけど全然ウケない)。芸人としても芽が出ず、弁護士になれという家族の期待には反発し、家を離れ、大学に在籍しながらウーバータクシーの運転手のアルバイトをしている。よくいるモラトリアム大学生の典型だし、見合いをおしつける厳格な母も少し前の日本の姿に似ている。そういえば『火花』では日本の芸人舞台裏が湿り気たっぷりに描かれていたが、アメリカの売れない芸人事情はドライな感じ。でもそこには異文化、人種、政治、宗教問題と複雑な要素が入り混ざる。

クメイルの家族にはベテランのインド人俳優アヌパム・カー、舞台女優で有名なゼノビア・シュロフなどボリウッドファンにもうれしい芸達者揃いで、白人のエミリーの両親との違いがよく映る。現代でもこれほど保守的で古風なのだろうか。きっとそうなのだろう。日本でもいまだにこの傾向はある。そしてクメイルの宗教への複雑な悩みに切り込むあたり、一方的な偏見への一石になるのかも。

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◇蘇るホリー・ハンターのマシンガントーク

実は私がいちばん興奮したのは、ホリー・ハンターのマシンガントークだ。『ピアノ・レッスン』の静的な凄みで知られる彼女は実は「動」の人で、彼女の個性的なしゃべり力(りょく)は強烈だ。本作のレイ・ロマノとのコンビネーションはまさに漫才コンビで、芸人としてこのままデビューしてくれてもいいよと思うくらい小気味好い。この夫婦とクメイルのガチなやりとりは、異文化間、世代間ギャップと向き合い、境界を超えようとする人々へのヒントになる。簡単に言えば、対話と行動なのだ。だがそこがうまくいかない。そんな中、ほっこりするのはクメイルの温和な性格。コメディアンを目指しながらガツガツしない育ちのよさ(は芸人として弱点だが)。しかし自分に正直に、自分の道は自分で拓く、やりたくないお祈りはやらないけど、家族には内緒にしておくとか、家族思いだからこその嘘もつく。そんな繊細に葛藤する様にも共感がわく。多民族、異文化を受け入れてきたアメリカの複雑な現代事情の一面を、重苦しくなくポップに描く。「ラブストーリーかと思って観たらなんだかいろいろ深かったね」なんて声が聞こえそう。いちばん大事なのは「自分たちはどうなのか」ということに思考が及ぶことかも。他者へ寛容について考える機会になればクメイル作戦成功だ。なんてことを踏まえた上で、アカデミー賞の行方も楽しみにしよう。

福嶋真砂代★★★★

 インフォメーション:

監督:マイケル・ショウォルター 
キャスト:クメイル・ナンジアニ ゾーイ・カザン レイ・ロマノ ホリー・ハンター アヌパム・カー
配給:ギャガ
上映時間:120分

gaga.ne.jp

2018年2月23日(金)よりTOHOシネマズ日本橋ほか全国順次ロードショー

Review 26『ぼくの名前はズッキーニ』

辛く苦しい思いをしている子どもたちに贈る優しいエール(もちろんおとなへも)

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(C)RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

大きな目、赤い鼻、青い髪、主人公の男の子「ズッキーニ」のなんとも斬新で愛嬌のあるビジュアルはひときわ目を引く。個性的な登場人物すべての表情豊かでなめらかな動きは、パペットを操るストップモーションアニメーションで表現され、50人のスタッフで2年の歳月をかけて作られた。制作チームには白石翔子さんという日本人のスタッフも参加している(海外作品のエンドロールクレジットに日本人の名前を見つけるとなんだかうれしくなるものだ)。 

9歳の少年、ズッキーニ(本名はイカール)の物語は象徴的な凧の場面からはじまる。パパは若い女と家を出て行き、ママはアルコール依存、少年はひとりぼっちの部屋で遊ぶ毎日。そんなママでも彼を「ズッキーニ」と呼び愛していた。しかしママは不慮の事故で亡くなり、それによって心に深い傷を抱えたズッキーニ。心優しい(でもわけありそうな)警察官のレイモンに連れられて孤児院「フォンテーヌ園」に預けられる。施設の古株の子どもたちからはさっそく新入りの洗礼を浴びるが、痛みを抱える子どもたちどうし、心を通わせ、力を合わせて日々を生きるようになる。ある日、ハスキーボイスの女の子カミーユが新しく入園し、ズッキーニはさびしそうな彼女にほのかな恋心を抱く。カミーユの養護手当欲しさに叔母は養子縁組を強行しようとするが、子どもたちはそれを阻止しようとある計画を立てるのだった……。

登場人物の声には、アマチュアの子役たちがキャスティングされ、のびのび活き活きと演じ、とりわけズッキーニ役のガスパール・シュラターの演技はなんとも愛らしい。「沈黙と間」、「視線の余白」、「言葉によらないコミュニケーション」という要素を大切にして、長回しショットによって表情と感情をしっかり表現しようとしたという、パラス監督の演出の工夫が活かされている。

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(C)RITA PRODUCTIONS / BLUE SPIRIT PRODUCTIONS / GEBEKA FILMS / KNM / RTS SSR / FRANCE 3 CINEMA / RHONES-ALPES CINEMA / HELIUM FILMS / 2016

本作はスイス出身のクロード・パラス監督の長編デビュー作になる。イラストレーション、コンピュータ・グラフィックスを学び、人類学、デジタル画像の学位を修めたパラスは、ジル・パリス原作の「Autobiographie d’une courgette」の映画化を発案、「育児放棄をされ、虐待されて傷を抱えながらも必死に生きる子どもたちへのオマージュ」という気持ちでこの作品を作った。小さい作品だが、ビジュアルに優れ、しっかりしたテーマと冷静で温かい視線に支えられ、繊細な問題への慎重な配慮もすばらしい。第89回アカデミー賞長編アニメーション賞ノミネート、第74回ゴールデンブローブ賞長編アニメーション賞ノミネートほか、数々の賞を受賞している。

子どもの虐待や育児放棄のニュースが出るたびに心が痛むが、事態は一向によくならないどころか悪化している。悲惨さを暗く描くより、現実を冷静に見つめながら、人間の温もりに光を見出し、こんな温かいソリューションもあるよという原作者パリスとパラス監督からの美しく力強い”プレゼント”がうれしい。

もうひとつ、タイトルにある”ズッキーニ”はフランス語で「クルジェット」だが、その発音の音感がとてもとてもかわいい。

福嶋真砂代★★★★

boku-zucchini.jp

監督: クロード・バラ

脚本: セリーヌ・シアマ

上映時間:66分

原題: Ma vie de Courgette/My Life as a Zucchini

配給: ビターズ・エンド、ミラクルヴォイス

2018210日より新宿ピカデリーYEBISU GARDEN CINEMAほか全国にて公開