REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Review 24『ライオンは今夜死ぬ』(と「こども映画教室」)

映画の“魔法”が未知の扉をあける 

ライオンは今夜死ぬメイン

© 2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

南仏の陽光の中で語られる老いと死

マネかルノアールセザンヌか、さながら印象派の絵画を思わせるような美しいポスタービジュアルに目を奪われる諏訪敦彦監督の南仏で撮られた最新作『ライオンは今夜死ぬ』。タイトルの「死ぬ」に潜む闇の力も「ライオン」という言葉の眩しさがそれを打ち消す。一体どんな映画なのだろう? 子どもたちと一緒に作った映画だという。主演はヌーヴェルヴァーグの申し子と言われた俳優、ジャン=ピエール・レオー。実は諏訪監督がジャン=ピエール・レオーにフランスの映画祭(ラ・ロシュ・シュル・ヨン国際映画祭 2012)で出会ったその頃、「ジャン=ピエール・レオーに会ったんだ」という興奮を伺っていた。夢の中にでもいるような、会えなくなった昔の恋人に巡り会えたような、少し熱を帯びた感じ(私個人の勝手な感じ方です)で、本当にうれしそうだった。まだ何も始まっていない、でもすでに何かが始まっている、そんな予感を孕む空気だった。

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© 2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

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© 2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

オープニング、劇中映画の撮影現場にいるレオーのチャーミングな仕草にやられる(全編においてチャーミングだ)。「この人を撮りたい」と思ったという諏訪の気持ちが飛び込んでくる。さらにフランスの子どもたちとの劇中「こども映画教室」の映画技師フィリップ(アルチュール・アラリ)は日本の「こども映画教室」講師の諏訪さん役という立ち位置でかなり興味深い(なんとこの映画には劇中映画が2本あり、映画が詰まった映画なのだ)。『ママと娼婦』(ジャン・ユスターシュ監督 1973)でレオーと共演したイザベル・ヴェルガルデンの出演、さらに『ユキとニナ』(2009)のユキ(ノエ・サンピ)の成長した姿がスクリーンに焼き付けられのはファンタスティックだ。映画技師フィリップ役アルチュール・アラリの兄は、本作の撮影監督トム・アラリ。冒頭に触れた”さながら印象派”の画は彼の仕事だ。「この撮影監督は今後注目していて」と他のインタビューで諏訪が絶賛するほど素晴らしい仕事ぶりだ。ロケ地はリュミエールの街、南仏ラ・シオタ。昨年日本公開の『リュミエール!』(ティエリー・フレモー監督)でいままた注目を浴びている街に諏訪組が舞い降りて作った。降り注ぐ陽光の眩しさと、語られる「老いと死」の鮮やかなコントラストと融合。溌剌としたポーリーヌ・エチエンヌの幽霊役も美しく、またジュールと母親(モード・ワイラー)の物語が現実感を固めながら、レオーは唄い、ライオンはおもむろに姿を現わす。幻想と現実のバランスも印象派絵画の光と陰を思わせる。本当に見どころ満載なのだ。そしてワークショップでオーディションをしたというフランスのアマチュアの子どもたちがレオーと共演する。

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© 2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

”すわさん”と「こども映画教室」と”ねんりき”

ところで、私は諏訪が「すわさん」として講師を務める「こども映画教室」を幾度か見学する機会をいただき、子どもたちと(ではなく、子どもたち主導で)映画を撮るとは、どういうことか。つまり「子どもが映画を撮るということは、どういう意義(意味)があるのか」ということについて、長く一緒に考えさせてもらっている。いや、そんな堅苦しい定義を軽く越えて、毎回子どもたちの想像力と創造力に圧倒されていた。「大人は手出し口出ししない」というルールの元に、短期間(通常3日間)で映画を撮り、上映するという、大人でも難しい”離れワザ”をやってのける彼ら。時に悩み、けんかし、立ち止まり、苦戦の末に何かが生まれる。そんな共同作業を経た彼らの成長の様子に驚くばかりだ。彼らの活動のほんの一部分しか目にしてはいないが、それでも「子どもが映画を撮る」ということが産み出すエネルギーや実りについて、具体的に実感することができた(これについてはまた追々書こうと思います)。「こども映画教室」には諏訪の他にも、是枝裕和砂田麻美中江裕司横浜聡子、沖田修一、市井昌秀ら、名だたる監督たちがこれまで講師として参加している。諏訪の教室の他には是枝の早稲田大学演劇博物館(エンパク)での「こども映画教室」(2014と2015)を見学させていただいた。

こども映画教室@ヨコハマ2015

こども映画教室@ヨコハマ2015 (c)realtokyocinema2017

そうやって実際に「こども映画教室」の現場を見て(体験して)印象的なこと。それは参加した子どもがそれぞれ担当した講師の監督から受ける大小さまざまの影響はもちろんあるが(影響がゼロの場合もあるだろう)、その反対向きの影響、つまり教室それぞれ(毎回毎回まったく違う現場でのまったく違う作り手たちによって生み出されるまったく違う瞬間の数々)を通して、諏訪監督にしても、是枝監督にしても、(監督たちに毎回の試行錯誤の話を伺う中でも)少なからぬ影響というものを受けているだろうことを目の当たりにして、それについてもかなり心を動かされていた。要するに、「こども映画教室」を経験した前と後で、監督たちの作品がどれほど違ってくるのか、深い興味を覚えながらいた。しかし起こっていることは言わば無形であり、いつそれがどういう形で出てくるのかわからないタイプのものだ。私の中にそんな感動や情報のストックが増え続けた。また「こども映画教室」主催のフィルムメイカー、教育従事者や研究者など、興味を抱く人たちが集まるシンポジウムでは活発な意見が交換され、そこでも”「こども映画教室」という現象”に関する考察はますます多岐にわたり、深くなっていく。私自身は一見学者として何らかのアウトプット(たとえば「こども映画教室」について見解や感想を述べること)を期待されていることを知りながら、目の前に起こることのある種の「コトの重大さ」に怯んでいたかもしれない。

こども映画教室@ヨコハマ2015

こども映画教室@ヨコハマ2015 (c)realtokyocinema2017

ライオンは今夜死ぬ』に話を戻して、振り返ると、東京藝術大学横浜校舎で行われた「こども映画教室@ヨコハマ2015」でのハレの上映発表会の直後、いつものように煙草を吸いながら休憩をとっていた諏訪監督に立ち話のクイックインタビューさせてもらった。観たばかりのこどもたちの映画について伺った後、「今度フランスでこどもと共同作業でお話作りとかをやってみたいなと思ってて」と二言、三言漏らしてくれた。おそらくこの時に諏訪の頭の中にあった構想がいま目の前に実現されて姿を表したということになる。前作品『ユキとニナ』から数えて8年目の新作になるが、その間に『黒髪』(2010)、『世界の質量』(2016)と素晴らしい2本の短編を発表している。よく”すわさん”が子どもたちに”ねんりき”の話をする。映画を撮るという初めての経験。不安を乗り越えて何かを作り出すときに必要な不思議な魔法の言葉だ。今回はフランスの子どもたちとレオーと共に育み、“その人”にしか表現できない(表方でも裏方でも)体験が現実に見える形になったことに、熱い”ねんりき”を感じる作品なのである。

(敬称略)

福嶋真砂代★★★★★

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すわさんの板書:こども映画教室@ヨコハマ (c)realtokyocinema2017

インフォメーション:

www.bitters.co.jp

ライオンは今夜死ぬ

監督・脚本:諏訪敦彦
出演 ジャン=ピエール・レオー、ポーリース・エチエンヌ、イザベル・ベンガルデン、子どもたち他
2017年/フランス=日本/103分/カラー
配給・宣伝 ビターズ・エンド

2018120日(土)より、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー! 

www.kodomoeiga.com

Report 008『ジョニーは行方不明』(東京フィルメックス2017 Q&A)

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第18回東京フィルメックス2017/11/1826)は25本の国内外の刺激的な作品が上映され、今年も豊かな実りを残してくれました。(コンペティション部門の受賞結果

そのなかで個人的に特に印象に残った3本に絞ってご紹介。まずコンペティション部門『ジョニーは行方不明』(英題「Missing Johnny」ホァン・シー監督)、次に特別招待作品『天使は白をまとう』(英題「Agels Wear White」ヴィヴィアン・チュウ監督)、3本目はコンペティション部門『泳ぎすぎた夜』(五十嵐耕平&ダミアン・マニヴェル監督)です。時間の都合で残念ながら見逃してしまったものが多いですが(受賞作品は特に)、この宝物のような3本に東京フィルメックスめぐり逢えたことは幸運でした。

さて『ジョニーは行方不明』(合わせてQ&Aの模様も記載します)。観終わった時になんとも言えない満足感と幸福感に包まれたことを覚えています。ホウ・シャオシェン監督製作総指揮による、台湾の新鋭ホァン・シー監督の長編デビュー作。以前にホァン監督はホウ・シャオシェンのアシスタントを務めていました。

映画には、不在の謎の人物(ジョニー)をさりげなく意識の中に流れこませたり、インコ失踪によって存在していたものの急な不在を感じさせたり、様々な潜在的揺さぶりの仕掛けがある。素晴らしいオープニング、赤いスズキ(この自動車がアイコンとなる)が都会のど真ん中(高速道路下だったか)でエンスト、仕事途中の運転手の男イー・フォンは車を降りて、仕方なく電車移動する(各所で台北の交通が映るのが楽しい)。男と同じ電車に乗っていた(しかしお互いまったく接点はない)若い女性ツー・チーはモバイルフォンに「ジョニーを出して」という妙な間違い電話を受けつつ帰宅する。このふたりの交差の仕方がこの上なくクールだ。この先彼らがどんな関わりをするのか、楽しみに思いながら進むのだが、コトはそう単純にはいかない。それぞれの日常を過ごしすれ違う。しかしひょんなことからふたりは(とくにツー・チーには)まったく他人のにぎやかな食卓に飛び入りする。台湾の昔からある大家族の食卓風景、偶然の楽しさ、人の温かさを伝えて、ストーリー(ほとんどストーリー性はない映画なのだが)に厚みを加える。このあたりにもホァン監督が受け継ぐホウ・シャオシェンの教えが潜むのではないだろうか。ツー・チー役のリマ・ジダンのハツラツ健康美が映画を明るい光へひっぱり続ける。しかしただ元気で美しいインコ好きな女性ではなく、人生の岐路に思考を重ね、人との繋がりを大切にする繊細さを表現し魅力的だ。ちなみにインコ失踪直前のシークエンスも美しくて印象的。「距離が近すぎると、人は衝突する、愛し方も忘れる」というさりげないセリフに味がある。監督がQ&A(下記)で明してくれたように、「台北の生活風景の感じを出したくて」あえて、ラッシュアワーの高速道路でゲリラ撮影したラストなどもスリリングな終わりを演出する。「エンストばかりするけれど、人生はこれからもいろんなことがあり、それでもなんとか進んでいけるのだから」なんていうメッセージが夕日の優しい光の中に聴こえそう。不在の存在、都会の孤独、時間と空間の不思議、そんな感覚をナチュラルな空気感の中でリアルに映し出す。デビュー作にしてクオリティの高さに慄く。早い日本公開を切に願います。(台北映画祭にて脚本賞はじめ4賞獲得)

東京フィルメックス上映後のQ&A抜粋

ーーリアルな人物像や関係性が印象的でした。どのように脚本を作りましたか。

実はこの脚本の他に2本の脚本が同時進行していたのですが、その2本はハリウッドスタイルのわりと普通の映画でした。同時にエッセーのような感じでこの『ジョニー』の脚本を書き続けていました。書いてる時には特にどの俳優を当てようとか考えていなかったのですが、最初に浮かんだのはカユ(?)の役です。彼を頭に浮かべながら書いていました。他のふたりの主要人物については、具体的な役者さんを浮かべてアテガキしたわけではありませんでした。登場する3人は私の身の回りにいたり、出会った様々な人々、つまり都市で生活している私の友人であったり、知り合いや、出会った人、あるいは知らない人でも観察して記憶に残った人たち、そのような人たちを思い浮かべてコラージュして作った人物像です。

■タイトル”Missing”には「消えてしまう」と「恋しい」の意味をかけた

ーー英題タイトルは「Missing Johny」ですね。しかし実際にはジョニーという人物は登場せず、”ジョニー”を探す間違い電話がきっかけとなって物語が進んでいきます。脚本段階からジョニーさんの正体を出ないことにしていたのでしょうか。何かジョニーさんに関する情報や、監督の意図を教えて下さい。

”ジョニー”の存在については、香港に住む友人から聞いた話が基になっています。友人は携帯番号を変えた時に、見知らぬ人から電話がかかることが頻繁にあり、最初は煩わしくて腹が立ったそうですが、何度もかかるとそのうち親しみすら感じたと語ったことが私の記憶に残っていて、脚本にこのエピソードを入れたいと思いました。誰にこの間違い電話がかかってきたことにしようかと考えて、やはりヒロインのシュウにかかってきたことに設定しました。英語の”Missing”の意味は、「消えてしまう」という意味と、「恋しい」という意味をかけてあります。ジョニーがどこに行ったかはわかりませんが、このエピソードがずっと心に残っていたのです。

この映画は人と人との関係がテーマなのですが、役者たちにはそれぞれ異なる脚本を渡しました。ですので彼らは自分の出番のシーン以外はほぼ知らないという状況でした。なぜそうしたかというと、あまり自分とは関係ないところで余計な考えを持ってほしくないと思ったからです。ごく自然な状態で、自分の演じる人物の中に入り込んでほしかったので、余計なインフォメーションを与えませんでした。その人物が関わる登場人物以外の役者との接触はほぼなかったと言えます。

ーー道路で車が故障するシーンがありますが、撮影の状況はどうでしたか? 最近の日本では運転技術による事故が大きな問題になっています。台湾での自動車マナーについても教えていただけるとうれしいです。

確かに自動車事故のシーンの撮影はとても難しくて、様々な困難がありました。台北の生活風景の感じを出したくて、どうしてもラッシュアワーの時間を撮りたかったのです。そのために申請を出して撮ったのですが、ただし1ヶ所だけ、申請せずにゲリラ的に撮ったシーンがありまして、それはラストシーンです。できるだけ一般の車の往来を邪魔しないように配慮して、高いところからカメラ2台を回して撮りました。撮影している車の前後を私たちクルーの車で挟んで撮りました。少しだけ台北の交通網を乱しましたが、なんとかできました。

ーーしかも夕暮れ時のすごい時間を狙っていたと思いますが、これはワンテイクでOKしたか?

実は「ワンテイクしか撮れない」と役者たちには言い渡しておいて、私もすぐに撮れるだろうとみていたのですが、結果的には6テイクくらいになりました(会場どよめき)きわどいシーンがありましたが、そこで警察にもちょうど出くわさなかったので、なんとかくぐり抜けて撮ることができました。

■時間軸と空間が混じり合うことに興味を感じた

ーー高速道路、MRT、U-バイクという台北の交通手段が意識的に使われています。それらと「Missing Johny」の”不在”ということの相関というか、都市と人を恋しく思うことと、”不在の存在”のような相関関係を意識して撮影したのでしょうか。

この脚本はほとんど家からカフェに出向いて書いていました。台北の移動手段として、大きな道路や橋を越えて行ったりするのですが、ある地点からある地点に移動する中で、c書いていました。考えていたことは、この映画はごく日常の人々の生活を扱っていますが、そこに何かしらの哲学的な意味とイメージを持たせたいと強く思っていました。それは登場人物に反映されています。登場人物がどのように未来に向かっていくかということなどが絶えず私の頭の中にあり、脚本を書き進めていきました。

侯孝賢監督から「人間としてどうあるべきか」を学んだ

ーーエクゼクティブ・ディレクターである侯孝賢監督はこの作品へのどんな関わりをしましたか。ホァン・シー監督は侯孝賢監督のアシスタントを務められていましたが、侯孝賢監督から学んだことがあったら教えて下さい。

侯孝賢監督は主にふたつの役割をしてくれました。ひとつは私が書いていた何本かの脚本の中からこの作品の脚本がいいと選んでくれました。そして脚本を書き上げた時にこれで行こうと言ってくれました。ふたつめは、撮影期間は現場にいらっしゃることはなく、出来上がったファーストカットーそのときは2時間強のバージョンだったのですがーを観て侯孝賢監督は「疲れるね」とおっしゃって、それを97分にまで切ってOKが出ました。だけど私たちはあまりにも「切りすぎた」と思い、今のバージョンに編集し直して、最終的にOKをいただきました。侯孝賢監督に学んだことは、映画の具体的な何かというものより、もっと人間としてどうあるべきか、人に対してどう対応するべきかということを、監督のそばにいて知らず知らずのうちに身に着けて学ぶことが出来たと思います。

 審査員寸評:雰囲気に溢れ、登場人物たちのポートレイトの創造でもあり、同時に台北という迷路のような都会的な構造を持った街の魅力的なポートレイトでもある。それは背景として、究極的には人と人がいかに再びつながりあうことができるかという物語を煌めくように魅せてくれています。視覚的にも、聴覚的にもデビュー作とは思えない渾身の作品。
filmex.net

インフォメーション(公式サイトより)

『ジョニーは行方不明』Missing Johnny / 強尼・凱克

台湾 / 2017 / 105分 / 監督:ホァン・シー(HUANG Xi)

同じ男あての間違い電話を何度も受けた若い女性は、次第にこの男のことが気になってくる。やがてインコの失踪を契機に、彼女の思いがけぬ過去が明らかに……。ホウ・シャオシェンのアシスタントを務めたホァン・シーの監督デビュー作。台北映画祭で4賞を受賞。

『天使は白をまとう』、『泳ぎすぎた夜』については順次掲載します。

Report 007『勝手にふるえてろ』レビュー&TIFF2017 記者会見レポート

コミカル&サブカルに描く、現代”絶滅危惧”女子の生態と幸福

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©2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

 

勝手にふるえてろ』(大九明子監督・脚本)が第30回東京国際映画祭コンペティション部門にてワールドプレミア上映され、記者会見が行われた。綿矢りさの同名小説を原作に、大九監督が自身の過去に重ね合わせるように脚本を練り上げた。これが初主演となる松岡茉優が”こじらせ女子”の生態をコミカルにリアルに表現し、同映画祭では堂々の観客賞を受賞。プレス向け上映後の記者会見にはたくさんのマスコミ取材陣が詰めかけ、期待と関心の高さを伺わせた。

アテ書きされたという脚本は松岡茉優の繊細な器用さ、演技的運動神経の良さが存分に引き出され、さらにイチ役の渡辺大知はその素朴で不器用な魅力がまさに全開、『色即ぜねれいしょん』で魅せた初々しさが健在でほっとする。とりわけ終盤、ヨシカのアパートクライマックスシーンの渡辺は見応えがある。さらに石橋杏奈北村匠海は人間のネガティブ要素を軽やかに引き受けて巧みに演じている。自分を曲げられず苦しむヨシカだが、絶滅危惧種の化石になりそうだった心がふとほぐれた一瞬、主題歌の黒猫チェルシー渡辺の素直な歌声が心にストレートに染み込んでくる。

 

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東京国際映画祭2017にて

記者会見レポート:
会見には大九明子監督、松岡茉優渡辺大知、石橋杏奈北村匠海が出席。東京国際映画祭で上映されることについて、また役柄を演じた印象について、それぞれ語ってくれた。大九監督は言葉を選んで少し控えめな表現でしたが、おそらく「この映画を選んでくれたTIFFは”なかなかいいセンスをしている”」と映画のセリフになぞらえておっしゃりたかったのではないかと、勝手に”ふるえながら”脳内変換をしました。(敬称略)

◆世界中にいるヨシカ的な女の子に届け

松岡茉優:この映画では普通の女の子を普通の物語の中で演じました。その普遍的なものがこのような国際映画祭で上映されることで、世界中にいるヨシカ的な女の子に届けられたらと思います。

普段お芝居をしているときは、誰かとの会話とか、見てはいけないものを見てしまったり、怪物が出てきたり、そういう設定で感情が動いていたのですが、ヨシカの場合はほとんど独り相撲というか、ひとつの部屋でヨシカとしてひとりで感情の起承転結というか、そのシーンが成立するために、上げて下げて止まって動いてと、長ゼリフの中で自分で色をつけたり緩急をつけたりするところが、初めは戸惑いましたが、けっこう仕切りたがりのところも自分にはあるので、演じているうちにひとりだからこそできるチャレンジというのもあり、そこが演じていて新鮮に感じたところです。

初主演の感想は、子役からこの仕事をしていますが、ほぼ全シーンにわたって自分が出ているというのは、憧れの時間だったので、撮影中はギュッとなってしまいましたが、(通訳を気にして)「ギュッ」というのは、つまり殻に閉じこもってしまったという意味ですが、終わってみるとなんて贅沢な時間だったんだろうと思いました。

渡辺大:この作品のなかで「二」という役と、主題歌を担当しました。僕は主人公のヨシカの大ファンになりました。主演の松岡さんの魅力が爆発している映画だと思っています。僕は男ですけど、ヨシカに共感させられるところが多いので、男性も安心してヨシカワールド惹きこまれて楽しめると思います。演出的なところでは、ヨシカの妄想というか、街の中で釣り人や駅員さんとヨシカが会話するシーンがあります。自分の心の声の表現として、日々生活する街に存在する、自分と関わったことがない人たちと会話をするという演出が、ヨシカというキャラクターを象徴しているシーンだと思っていて、ああいうシーンがあるので、何かが壊れたときにすごくドキドキさせられたというか、男でありながら僕がヨシカに感情移入できたところかなと思います。そんな少し変わったファンタジックな演出のなかで松岡さんがとても生き生きとリアリティ溢れる演技をされていて、それがこの映画の魅力のひとつかなと思います。

石橋杏奈:ヨシカの親友のくるみを演じましたが、恋をかき乱す役で、自分の周りにも意図せずにそういうタイプはいるなと思って、あらためて周りを見直してちょっと参考にさせていただきました。そういう人も、そうでない人も共感できる役どころかなと思います。でも私はヨシカ目線で、ヨシカに似てるところもたくさんあるので、女性が観て、誰しもが共感できる作品になっているのではないかと思います。ヨシカにとても感情移入できる、女子として大好きな作品です。多くの女性、もちろん男性にもに観ていただきたいなと思います。

北村匠海:僕が演じた「イチ」は残酷な役だったのですが、でもその残酷さに共感してしまった自分がいました。登場人物はそれぞれキャラクターがすごく濃いのですが、そこにリアリティを感じるというのは、きっと僕らが日常的に心で感じているけど表に出ない感情を象徴している気がして、例えば「このごはん会が早く終わんないかな」と心で思うシーンとか、そういう思ってしまうけど理性的に口に出してはいけないことを、イチは表情や声のトーン、目つきなどで前面に押し出せる役だったので、なんて自分は残酷なんだろうという気づきありました。脚本を読んだ段階では僕はヨシカという女の子をなかなか理解できなくて、残酷だと言われる「イチ」に対しての理解がすごくできたので、それを100パーセント北村匠海として出し切った作品です。僕の大好きな作品が大きく羽ばたくことをいちファンとして願っています。

大九明子監督:これがワールドプレミアということで光栄なタイミングであると同時に、東京国際映画祭コンペティション部門という素晴らしい場面で俳優と立たせていただいているのが信じられない気持ちです。この映画はシナリオの段階から、自分が20代の頃から閉じ込めてきた思いをぶちかますように書いて、いままで3年間のおつきあいのある松岡茉優さんだからこそ絶対できるとプロデューサーなどを説得しながら、「大丈夫だから」とポンと(松岡さんに)お渡ししました。その時点では狭い領域のヨシカ的な人たちに届けばいいんだということでとにかく好き放題撮らせてもらいますという気持ちだったのが、このような大きな舞台に立たせていただいて感謝しています。「二」が「君を見つけた俺はなかなかいいセンスをしている」というセリフがあるのですが、東京国際映画祭がこの作品を見つけてくださってうれしく有難いなと思っています。

―以下、ネタバレあります、ご注意を―

大九監督:気づきといえば、もう観ていただいた後なので申し上げますが、演出として「歌を歌う」というシーンがございまして、まず構成を考えたときに、どうやって前半部分がすべて彼女の脳内の会話だったのかを明かすために、単純にモノクロにしてみるとか、アスペクト比を狭くしてみるとか、いろいろ考えたのですが、もっとズドンと観ている人の心に届けるには「説明しよう」と考えて、そこにメロディーをのせました。カメラ目線で松岡さんを撮ることを過去の2作品でやってきたので、ここでそれをしようと。思い切って「もう絶対気がつく!」という構成にすることを心がけました。この映画の最大命題は、気取った体裁を作ることではなく、ヨシカという人間を観た人にしっかり届けるということなので、「ワンシーンワンカット」の撮影法も好きなのですが、そういうこともわざわざこだわることをせず、とにかく物語として必要な演出にだけこだわって作りました。

(※この記者会見は2017年10月30日に行われました。)

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東京国際映画祭2017にて

 インフォメーション:

furuetero-movie.com

配給:ファントム・フィルム

12/23(土・祝)、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷シネ・リーブル池袋ほか全国ロードショー

 

Review: (ネタバレあります)

(正直、冒頭の主人公のモノローグでほんの少しだけ先行きが不安になってしまったが、すぐに)隣の住人、カフェの店員、通りすがりのおじさんなどに躊躇なく話しかける不思議なヨシカの行動に「わ、何これ?」と前のめりになり、以降すっかりヨシカの気持ちにシンクロしていく感覚を覚えた。趣味は絶滅危惧種動物のネット検索、通販で手に入れたアンモナイトを崇め愛でるというオタク志向な24歳のヨシカ=江藤良香(松岡茉優)は、中学時代からイチというクール男子(北村匠海)に片思い。離れて目の端で見る視野見という必殺技を編み出したり、複雑な思いは純粋ゆえに出口が見えない。そんなヨシカが会社の同期男子渡辺大知)から人生初の告白をされ舞い上がる。初デートが実現するが、同窓会で再会したイチへの思いは募る一方だ。イチとニの間、はたまた理想の自分と本当の自分の間で激しく揺れるヨシカの心情を、会話劇でコミカルにサブカルに描く大九監督独特の演出(松岡とはこれが3度目のタッグ)が冴える。*1、サブカル味は、原作に加えられた個性豊かな脇役人物たちにも託される。なんとも三木聡的な小ネタも散りばめられ、「タモリ倶楽部」が話の引き合いに出されるのも必然だ。怪しい釣り人演じる古舘寛治、眉毛のつながった柳俊太郎、そこに謎めいた片桐はいりがと来れば、何かが潜む映画であることは間違いないと推しつつ、前半のコミカルな展開を楽しむ。と、そこに落雷のように挿入されるミュージカル! それまでニヤニヤと見つめていた世界がぐらりと揺らぎ、本当のヨシカ、ヨシカの本音が出現し、観ているこの身も現実に引き戻され、その後の展開に固唾を飲むのだ......

福嶋真砂代★★★★

info 「第18回東京フィルメックス」はじまります(11/18-26)

f:id:realtokyocinema:20171114131430j:plain同じ空間で映画に出会う、そして震える、熱い熱い9日間

東京、有楽町朝日ホールを中心に開催される第18回東京フィルメックス。オープニング作品『相愛相親』(シルヴィア・チャン監督・主演)に始まり、クロージング作品『24フレーム』アッバス・キアロスタミ監督の遺作)まで、選りすぐりの25作品がラインナップ。林加奈子映画祭ディレクターは「今年は中国作品が強い。新鮮で挑戦的で今を切り取っている作品ばかり」と記者会見で語ったが、正直どれを観るか迷ってしまう。そんなときは林さんの「コンペこそ、フィルメックスの核を作りあげ、期待を裏切らない」のお勧めにしたがってコンペティションの9本を。なかでもキルギスタン『馬を放つ』(監督:アクタン・アリム・クバト)はインパクトありそう。あるいはこれが長編デビュー作となる台湾の『ジョニーは行方不明』(監督:ホァン・シー)と『とんぼの唄』(監督:シュー・ビン)の2本も楽しみだ。また、撮影ユー・リクアイによる『氷の下』(監督:ツァイ・シャンジュン)も見逃せない。さらにヴェネチア映画祭ほか海外の映画祭にひっぱりだこになっている『泳ぎすぎた夜』(監督:五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェル)は待望の日本プレミア上映。他にももちろん要チェックの作品が目白押し。特別招待作品にはワン・ビン監督の新作『ファンさん』園子温監督『東京ヴァンパイアホテル 映画版』。またフィルメックス・クラシック、特集上映ジャック・ターナー特集もあり、さらに19日(日)には国際批評フォーラム「映画批評の現在、そして未来へ」という映画批評家ジャン=ミッシェル・フロドンを招いてのイベントも行われる。詳細は急いで下記公式サイトをチェック! 今年も秋の有楽町に世界のシネフィルたちが続々と集結し、同じ空間で映画に出会い、考え、感じ、語り、震え、喜ぶ、熱く忙しい9日間になるのは間違いない。

f:id:realtokyocinema:20171113222048j:plain(C)2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD『泳ぎすぎた夜』

 

インフォメーション:

第18回東京フィルメックス

2017年11月18日(土)−11月26日(日)

有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇他にて

公式サイト:

filmex.net


 

Interview 006 ティエリー・フレモーさん(『リュミエール!』監督・脚本・編集・プロデューサー・ナレーション、カンヌ国際映画祭総代表)インタビュー

映画作家」としてのリュミエールの凄さを知ってほしい

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第30回東京国際映画祭の『リュミエール!』特別上映に際して来日したリュミエール研究所所長のティエリー・フレモーさんにインタビューした。同映画では監督の他、脚本、編集、プロデューサー、ナレーションと1人5役を担う。「発明家」という観点から切り離し、リュミエールを「映画作家」として捉えたい、その思いが貫かれる本作。優れた編集と軽妙洒脱な味のあるナレーションでリュミエール映画の魅力と奥深さを存分に伝え、驚きと発見に満ちた90分間は瞬きするのも惜しくなる。カンヌ国際映画祭の総代表でもあるフレモーさんは現在多忙を極めるが、「リヨンのシネフィルの若者だった」彼がリュミエール映画と出会い、いま映画の保存と普及に尽力する真摯な思いを語ってくれた。今回の映画祭での上映への感想を聞かれ、「まるでリュミエール映画のキャメラマンが日本にやってきた時のような気持ち」と楽しそう。「謙虚な気持ちで作った映画だが、今後はスターウォーズシリーズのように続けていけたら……」の言葉に期待が膨らむ。

取材・文:福嶋真砂代

■リヨンに住むシネフィルの若者はまさにいい時、いい場所にいた

ーーフレモーさんのリュミエール映画との出会いは?

私はリヨンに住むシネフィルの若者でした。まさにいい時、いい場所にいたと言えるかもしれません。というのも、リュミエール研究所が設立されたという、ちょうどその記者会見場に居合わせたのです。会見の最後に『工場の出口』が上映され、それがリュミエールとの最初の出逢いです。もちろん強い感動を覚えました。以来、私はリュミエールの映画を常に”シネフィルの視点”で観ています。リュミエールの映画を語ることは「映画について語る」ということなのです。

ーーナレーションのおもしろさにも誘導されて、リュミエール映画の魅力の奥深さに触れることができる映画です。リュミエール研究所には膨大な映像作品とともにテキスト記録も残されていますか? それに基づいてナレーション原稿を作ったのでしょうか。

いえ。実はリュミエール研究所にも、リュミエール家にも、テキスト記録はほとんど存在しません。それでも歴史家やリュミエール研究者たちは多くのよい仕事をしてきました。彼らの研究や文献のおかげで、この映画では多くの仮説、質問が投げかけられました。記録や資料が残っていないために、「こうではないか、ああではないか」と仮説を立てて、シネフィルの立場で、映画を観る者の視点で作りました。リュミエールを現代の映画作家となんら変わらない、映画作家として考えてほしかった。発明家というリュミエールとは切り離したかったのです。私が書いたナレーションにはリュミエールへの敬愛、アーティストとしての尊敬が込められています。こういった試みは映画史上でも初めてのことだと思います。振り返ると、ジャン・リュック・ゴダールジャン・ルノワールリュミエールのを評価したのも50年も前のことですからね。

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© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

 ーーいまの映画と昔の映画の違いについてどうお考えですか。

ふたつの時代を比較することは難しいです。リュミエールの時代は1本の映画がおよそ30分で、映画と映画の間には間隔をあけて、10本の作品を上映していました。上映会場にはシネマトグラフという機械と大きな画面があり、観客はだいたい50人くらいでした。いまの時代にそういう状況を再現するのは無理でしょう。ですからリュミエール映画をいまの上映環境に持ってきたかった。だからといってリュミエールの時代のリュミエールがやっていたことを真似をしたかったわけではありません。ひとつの提案として、リュミエールの映画を使って1本の映画を作り、それをいまの時代の人たちに映画館で観ていただく。ひとつの「映画」というオブジェに変え、つまり何本かのリュミエール映画ではなく、1本の長編のリュミエール映画としました。当時はこの映画のようなナレーションはつかなかったと思いますが、観客の間から、おそらくコメントが出ていたと思います。「あ!」とか「お!」とかいう声も上がっていたでしょうね。 

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© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

■「映画というのはコメディ、コミカルなもの」という次元が大切だった

ーーリュミエール映画のコメディについてのお考えをお聞かせ下さい。

リュミエールの作る映画のコメディには2種類あると思います。ひとつは普段の生活の中からあえて演出をして物事をおもしろくするもの。もうひとつはどちらかというとコミック、それは予期せぬときに起こるおもしろさです。後者はより映画的なおもしろさだと思います。リュミエールが望んだのは常に「映画は楽しいもの」だったと思います。ですからリュミエールの頭の中の「映画というのはコメディで、コミカルなもの」という次元が大切だったと思います。

ーー兄弟の父の写真家アントワーヌ・リュミエールも、やはりシネマトグラフの発明に大きな役割を果たしたと言えるでしょうか。

大変重要な人だと思います。まず第一にルイとオーギュストの父親であること。また彼自身が軽業師的なアーティストで、そういうエスプリを持った人でした。アントワーヌが、エジソンの発明したキネトスコープをまず体験し、次いで息子たちにキネトスコープを見てみるように勧めました。シネマトグラフが完成すると、パリで第1回目の有料上映会を開催したのはアントワーヌでした。

ーー美しく修復されたデジタル映像に驚きました。この映画へのフランス政府からの出資はどれくらいだったのしょうか。

フランス政府が現在行っているのは、映画をデジタル修復するための補助金を出すことです。今後、35ミリフィルムの映画がかけられなくなってしまうので、古い映画のデジタル修復が必要です。ただ修復作業に対してのみで、映画に対しては補助を受けていません。リュミエール研究所の仕事は、他のシネマテークと同様に、保存する古い映像を新たに修復して保存していくということです。修復には3分の1が国から、3分の1がスポンサーから、あとの3分の1リュミエール研究所から出ています。映画はほとんどお金がかかっておらず、最低限のスタジオ代、編集、人件費がありますが、私はお金はもらっていません。ですから映画史上、もっとも低予算の映画を撮った監督ということになります(笑)。実はこれは私の映画とは書いていなくて、私が構成とナレーション担った映画としています。つまり今しているのは私の話ではなく、リュミエールの話をしているということです。私としては、映画とはいい距離感をとりながら、監督としての役割と共に、リュミエールへの敬意を示したいと思っています。

f:id:realtokyocinema:20171105002801j:plain© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

■”スター・ウォーズシリーズ”みたいに続けられたら

ーー黒澤明小津安二郎の映画だけではなく、現代の映画がリュミエールの影響を少なからず受けているという思いがこの映画を観ることでまた強くしました。

正確に言えば、小津監督や黒澤監督がリュミエールの映画を観ることはなかっと思います。この映画の中でジェームズ・キャメロンラオール・ウォルシュ黒澤明小津安二郎らの名前を出したのは、リュミエールもまた、映画史の中で映画監督がやってきたことと同じことをやっていたということを言いたかったのです。リュミエール兄弟自身がそれらの監督と同じように、”ひとりの映画作家”であったことの証明になると思います。今後は、この映画を観た若いアーティストや映画作家に何かしらの影響を与えるのではないかと思います。時間が経過しても残っていくために重要なことは、シンプルさ、リアリティであり、そこに詩があることなのです。

ーーこれからのリュミエール映画の予定は?

現存する1422本のうちの108本をまず1本の映画として発表しましたが、おそらく今後、第5弾くらいまで作れるのではないかと思っています。リュミエールの映画を世界中に広めていくことは神聖なる作業です。スター・ウォーズシリーズみたいに続けられたらいいですよね。

f:id:realtokyocinema:20171105002826j:plain© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

■映画祭成功の素は「グッドフィルム、グッドフード、グッドフレンズ!」

ーーカンヌ映画祭総代表とリュミエール研究所の所長と、多忙な1年を過ごされていると思いますが、仕事はだいたいどのような配分なのでしょうか。

実は去年、Selection officielle:Journalという、私のカンヌ映画祭1年間について日記形式で本を書きましたので、そちらを読んでいただけるとよいかと。ページ数は600ページありますけど(笑)。私の1年は、大きく分けてふたつの仕事があると思っていただけるといいかと思います。リュミエール研究所では、映像の保存やこのように映画を作る仕事、さらに映画祭があります。リヨンにはリュミエール映画祭の他に「スポーツ、文学、映画」というフェスティバルもあります。カンヌでは現代映画を、リヨンでは古典映画を扱っていますが、私にとっては同じ仕事です。現代映画を評価するには古典を知っていなくてはいけないし、リュミエールの映画を理解するには現代映画を知っていることが役に立ちます。それが私を歳をとらせない秘訣なんです。

ーーリュミエール映画祭」が10回目を迎えますね。

リュミエール映画祭が重要なのは、大衆に向けられた映画祭だということです。一般大衆の文化的な経験として考えています。もちろん映画史的な教育の場としても役割もあります。現代の観衆とは、教育的にもレベルの高いものを理解しうる観客だと思っています。映画祭を通して、社会的、知的、人間的な分かち合いができればと考えています。映画祭として大切にしていることは「グッドフィルム、グッドフード、グッドフレンズ」で、これは映画祭成功の素なのです。カンヌとリュミエールとは両極にある映画祭と言ってもいいかもしれません。カンヌはモダン、リュミエールはクラシック。カンヌは競争、リュミエールは分かち合い。カンヌはプロ向け、リュミエールは大衆向け。カンヌはレッドカーペットですが、リュミエールはもっとリラックスしています。何よりリュミエール映画祭にはウォン・カーワイやティルダ・スウィントンというスターたちが「友達」として来てくれることも嬉しいです。

■来日はまるでガブリエル・ヴェール やコンスタン・ジレルと同じような気持ち

ーー東京国際映画祭のご感想はいかがですか。

実は今回はホテルの部屋に閉じこもって仕事をしている時間が長いのですが、東京国際映画祭で『リュミエール!』を上映できたことをとても喜んでいます。とても重要な映画祭で、そこで選ばれる映画は素晴らしく、選者のみなさんも素晴らしい。この映画は謙虚な気持ちで作ったので、パリやリヨンで上映されたら嬉しいなと最初思っていました。思いがけずフランスでは大成功で、ワイルドバンチというフランスの配給会社が35カ国に売りました。ですのでこの映画は世界的な冒険をしています。私がこの映画を持って日本に来ているのは、まるでリュミエール映画のキャメラマンのガブリエル・ヴェールやコンスタン・ジレルが1898年に来日したのと同じような気持ちです。今回はリュミエール映画の京都ロケ地などにも訪れる予定です。

f:id:realtokyocinema:20171105002546j:plain© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

 (※このインタビューは10月27日、ラウンド形式で行われました)

プロフィール:

Thierry Frémaux / 1960年5月29日、フランス南西部イゼール県チュラン出身。リヨン郊外の都市ヴェニシュー で、エンジニアである父のもと育てられる。リヨンのラジオ局”Radio Canut”(リヨン FM102.2)の共同創設者である父の映画館で、自身が黒帯の有段者である柔道を教える。社 会歴を学び、映画史の修士号を取得。 リュミエール研究所でボランティアを務め、1989年フランスのフィルムメイカーである Bernard Chardèreの推薦を受け正式研究員となった。1997年、映画監督であり研究所の代表 を務めていたベルトラン・タヴェルニエとともに芸術監督に任命され、1995年リュミエー ル兄弟の映画をタヴェルニエ監督と共に修復し映画100周年記念行事を主導した。現在、リ ヨンにあるリュミエール研究所にてリュミエール・フェスティバルも開催している。

<カンヌ国際映画祭とフレモー氏> 1999年、フランス・シネマテークのディレクターのオファーを断ったのち、カンヌ国際映画祭のトップであるジル・ジャコブにカンヌ国際映画祭の芸術代表団メンバーのひとりに任命される。その際、リュミエール研究所の所長についても離職することなく、継続する ことを交渉しカンヌ国際映画祭での役職とともに務めることとなった。2003年、第57回カンヌ国際映画祭より、正式なプログラミング担当として2つの部門(フレンチ・ファウンデーション部門とある視点部門)を担当することとなる。2007年にカンヌ国際映画祭総代表に昇進、芸術的な作品の選定のみならず、映画祭の管理・運営を担当している。 カンヌ国際映画祭の作品選定のトップとして、彼はハリウッド・スタジオ製作の作品をカ ンヌ国際映画祭のレッドカーペットへ呼び戻し、映画祭の正式会場であるパレのオープニ ング作品にこれまでにないジャンル映画、アニメーションを上映し、ドキュメンタリー映 画、海外からの映画にもチャンスを与え続けるなど斬新な運営に挑戦、映画のために多く のリスクに立ち向かっている。 2002年、クラシック映画『望郷』(1937年製作 ジャン・ギャバン主演)をデジタル上映 し、この作品の上映がきっかけで、2004年カンヌ国際映画祭カンヌ・クラシック部門が設立されることとなった。 彼は、リヨンにあるリュミエール研究所のディレクター(所長)ならびにカンヌ国際映画祭総代表を務める傍ら、映画『リュミエール!』を製作した。

インフォメーション:

リュミエール!』
監督・脚本・編集・プロデューサー・ナレーション:ティエリー・フレモー (カンヌ国際映画祭総代表)
製作:リュミエール研究所 
共同プロデューサー:ヴェルトラン・タヴェルニエ 
音楽:カミーユ・サン=サーンス
映像:1895年~1905年リュミエール研究所(シネマトグラフ短編映画集1,422本の108本より)
LUMIERE!/2016年/フランス/フランス語/90分/モノクロ/ビスタ/5.1chデジタル/字幕翻訳:寺尾次郎/字幕監修:古賀太/後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本 協力:ユニフランス

2017年10月28日(土)東京都写真美術館ホール他全国順次公開

gaga.ne.jp

Interview 005 中村高寛さん(『禅と骨』監督・構成・プロデューサー)ロングインタビュー

「人の生を撮ること、死を撮ることはなんなのか」を考え続けて、濃密な撮影ができたと思う

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『骨と禅』を監督(構成・共同プロデュース)した中村貴寛さんにインタビューした。『ヨコハマメリー』以来、11年ぶりとなる新作は、横浜生まれの青い目の禅僧(京都、天龍寺)、ヘンリ・ミトワの型破りな生涯を、ドラマやアニメーションも取り入れ、これまた型破りなスタイルで描いたドキュメンタリー。中村トオルのハードボイルドな語り、ジャジーな音楽、野宮真貴がカバーする昭和歌謡が流れ、数々のインタビューも興味深く、まるで謎解きミステリーのように、戦前から現代まで、日米にまたがる壮大な ”ミトワ家サーガ ” が紐解かれる。林海象(『私立探偵・濱マイク』監督)プロデュースとくれば横浜ノワール感もたっぷり、ドラマパートに永瀬正敏濱マイクではない)も粋に登場し、他に緒川たまき利重剛佐野史郎ら豪華俳優陣が彩る。ヘンリ・ミトワ役にウエンツ瑛士、ヘンリの母には余貴美子。そのキャスティングへの熱い思い、ミトワさんを撮ることになった驚きのきっかけや、8年の撮影期間の間に経験した「死にたくなるような」エピソードなど、たっぷりネタバラシをしてくれました。「これは僕のセルフドキュメンタリーでもある」と語り、この映画でヘンリ・ミトワが「依り代」になったと言う。その真意とは……? ディープでマニアックな世界の終わりに、コモエスタ八重樫x横山剣CRAZY KEN BAND)「骨まで愛して」が流れる頃、味わう不思議な達成感。中村監督の気持ちにどっぷりシンクロしていたのかもしれない。

聞き手:福嶋真砂代

f:id:realtokyocinema:20170905110705j:plain©大丈夫・人人FILMS

 ドキュメンタリー映画の中でも稀な映画かもしれません

ーーなんと表現していいかわからないくらいユニークな人物を撮られましたが、とても苦労されたのではないかと思いました。まさか死にたくなったりしませんでしたか?

もう何回も死にたくなりました(笑)。例えば「毎回、これが遺作だ、死ぬ気で撮ってる」とか言うけど、今回は本当に死ぬ気でやろうと思って撮っていました。

ーーそもそもヘンリ・ミトワさんを撮ることになったきっかけは何だったのでしょうか。

ドキュメンタリー映画を撮るとき、よく問われる「内的必然性」。つまり、なぜそれを撮らなければならないかいうことが重要になります。仮に必然性があり、自分のテーマに合致していたとしても、それを繰り返し反芻するわけです。「本当にこの人物を撮らなければいけないのか?」と、自分の内的必然性と向き合って、映画を撮っていくのです。でもこの映画の場合はちょっと違っていて、被写体の方から「撮って」と言われて撮り始めることになったんです。ドキュメンタリー映画の中でも稀な映画かもしれません。この「なぜ撮ることになったのか」という理由も含めて、映画の中にすべて入れこもうと思って、レイヤーをいくつも重ねて作ってあるんです。

ーーとても気になるシーンがあって、「撮りましょう」と監督が言うと、「撮りましょうじゃなくて、撮らせて下さいでしょう」とミトワさんが返すという押し問答、そんな驚きのやりとりがオープンにされていて、そこから「あれあれ?」って展開が俄然おもしろくなって、両者の本音を聞いてしまったという、見てはいけないものを見てしまった感覚でした。

普通はああいうところは明かさないものですし、対象者とあそこまでぶつかることはなないでしょう。多くのドキュメンタリーの作り手というのは、「撮らしてもらってる」みたいな意識ってあるんですね。ある尊敬する対象者にキャメラを向けるとき、「撮らせて下さい」とお願いして撮るということが多いと思うんです。僕もテレビドキュメンタリーを多く撮ってきて、そういうスタンスで撮ったこともあります。ドキュメンタリーというのは対象者のいい部分だけを撮るのではなくて、弱い部分も撮らなければいけないときもあります。そうすると対象者は往々にして気分を害するので、なんでそんなところを撮るんだ!と揉めたりすることもあるんです。ゆえに僕の映画を撮るときのスタンスとしては、つねに対等のスタンスでまず撮りたい、「撮る側」と「撮られる側」の間に上下関係はない、ということをまず相手側に伝えて、納得してもらったうえでキャメラを回します。

ーー毎回、そういうことは話し合われるのですか、それとも今回は特に……?

今回はより自覚的にやりました。前作の『ヨコハマメリー』のときも、そこまで明確ではないながらも、対象者の人たちと共犯関係を作っていきました。撮らしてもらうというよりは、一緒に悩み考えながら作っていったのですが、それは撮る以前に長い時間のつきあいがあった上でできたことです。仮にテレビドキュメンタリーの場合、リサーチをして、企画書を作って、それがテレビ局に通って完成するまで、ある程度スケジュールが決められてしまい、完成したら「はい、さようなら」という世界なんです。その後、対象者と関係を続けていくディレクターもいるのかもしれませんが、私は年賀状のやり取りがせいぜいです。テレビは早いサイクルで次からへ次へと追われていくので、対象者に対して思いがあったとしても、放送が終わると頭が切り替わってしまうし、切り替えないと次に進めないわけです。実をいうと、最近テレビドキュメンタリーを撮っていないのは、そういうのが嫌になったのもあります。僕が撮るからには、映画が完成した後も、対象者の人生の最期までちゃんとつきあえるのかどうか? それを自分の中の基準にしてきました。逆にそこまでの覚悟を持って撮り始めるので、「僕とあなたは対等でやりましょう」と言えるのだと思います。「いまは映画を撮っているけれど、互いの人生が続く限りは関係が続くのです」ということを前提で話をしています。まあ向こうに嫌だと言われたらおしまいですが(笑)

ーーミトワさんともそういう話をした上で撮っていて、それでもあのような状態になったのですか?

映画の企画者の松永賢治さんも出演し、この映画の成り立ちについて話しています。というのも、さっき話したように、そもそも内的必然性から始まっていない映画なので、「なぜ僕がこの映画を撮ることになったのか?」ということも映画の中に入れようと思ったのです。本作がなぜ成り立ったかということさえ、中のレイヤーに入れ込んで、監督の私も登場人物の1人だという映画内映画の構造にしています。そもそも、松永さんが2011年1月に京都から深夜バスで横浜までやってきて、朝8時頃に桜木町駅前のカフェで会い、「ミトワさんが撮ってほしいと言っている。ドキュメンタリーを撮ることを了承してくれたので、つきましては、中村さんに撮ってもらいたいと言ってるからお願いできますか」と直談判されたときに、その熱意におされて始まった映画なので、結果的にこういう構造になったのは必然だったのかもしません。

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■映画を撮るにあたって出したふたつの条件

ーーミトワさんから中村監督にご指名があったんですね。

ミトワさんとは2008年に出会ってから3年間くらい、彼が撮りたかった映画に関して、私が相談相手として定期的に会って話を聞いていました。

ーー『赤い靴』に関する映画のことで、ですね。

ミトワさんがスポンサー探しに上京した際に、京都へ帰る前に東京駅に僕が呼び出されていました。喫茶店でお茶を飲みながら、「今日は誰々さんに会ってきた、お金出してくれるかな」、「いや、その人は出さないでしょう」、「俺のドキュメンタリーを撮るっていう監督がいるんだけど、この監督知ってる?」、「有名人ですよ、その人。その人の方が絶対僕よりいいですよ」という話や、同じハマっ子なので横浜の地元話で盛り上がったりという関係を続けていました。その積み重ねがあった上で、松永さんが横浜まで依頼に来られたので、僕は条件をふたつ出しました。ひとつは、林海象さんにプロデュースしてもらうこと。もともと海象さんからミトワさんを紹介されたのがきっかけでしたし、僕は京都に土地勘がないので、京都でバックアップしてくれる人が必要不可欠でした。もうひとつは、最初の関係性を明確にしておきたかったので、ミトワさんが直接、僕に「お願いします」と言うこと。このふたつがOKだったら僕は撮ってもいいですよ、と言いました。ただそこに「内的必然性」はほぼゼロで、わざわざ松永さんがミトワさんのために横浜までやって来たりするのを見て、「男同士のうるわしい友情だなあ」なんてほだされちゃって……。

ーーやさしい。

僕のところに海象さんから電話があり、「中村くん、やろう。俺がプロデュースは引き受けるから。いますぐ撮ろう。ミトワさんの年齢も年齢だから、すぐにキャメラを回そう」となったのが、2011年の2月後半くらいです。あともうひとつの条件に関しては、3月に京都に行く予定だったのですが、東北の大震災があって行けず、その2週間後くらいに京都に行ってミトワさんと会い、僕に「お願いします」と言いました。その時点ではちゃんとした映画として完成するのか? 本当に勝算はありませんでした。でも、もし仮にドキュメンタリーがうまくいったら、これでミトワさんが有名になって『赤い靴』の映画化に興味を持ってくれる人、スポンサ―もあらわれるかもしれない、という思惑もあったんです。実は私の前作『ヨコハマメリー』のときにも、実現しなかったのですが、映画公開時に劇映画化のオファーがいくつかあったんです。そういう前例もあるから、『赤い靴』の映画化に出資しようという奇特な人もいるかもしれない。ホップ、ステップ、ジャンプの、僕は踏み台の「ステップ」でいいですから、ミトワさんの最後の夢にかけましょう!というのではじまった映画なんです。

ーーちょっとびっくりです。

ほぼ同情からはじまったと言ってもいいくらい。だから映画の中で、あれくらい言えたんでしょうね。「撮ってくださいと言ったのはあなたです。あなたがそんなこと言う権利ないでしょ」くらいに(笑)。とはいえ、いまだに恥ずかしいのは、僕は本当に怒ってるので、スクリーンで改めて冷静に観ると「俺って怒るとこういう声色なんだ」なんて思って、すごい嫌です(笑)。

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ドキュメンタリー映画制作の現実、「依り代」となったミトワさん

ーーそうは言いながらも、中村監督が映画にかけるものと、ミトワさんの映画への執念と言えるくらいの情熱と、なにか絡み合うように、映画に強く写されていました。

(映画製作における)経験の違いはあるのかもしれないですが、僕がミトワさんと年間つきあう中で、とてもシンパシーを感じる瞬間がありました。というのは、『ヨコハマメリー』以降、「次の作品はぜひうちから」とか「この金額だったらすぐに出せますよ」などと、オファーをいっぱいもらいました。「企画があったらぜひうちに!」とラブコールを送ってくれた会社に企画を持っていくと、「いや~ドキュメンタリーっていうのは難しいからねえ。まだ撮影してないんでしょ? 撮影してないとどうなるかわかんないしね」と言われる。劇映画だったら、人気俳優がキャスティングされて、漫画原作などで企画が組まれたりしますよね。ところがドキュメンタリーはそうはいかない。前作の後、ドキュメンタリーでもちゃんと商業(映画の)ベースに乗せられるのではないかと考えていたのですが、練りに練った企画を出しても、動いても動いても、全然周りが乗ってくれない。途中から「なんで俺はこんなにみんなにすがっているんだろう?」と自己嫌悪に陥るようになりました。『ヨコハマメリー』では僕とキャメラマン、デジタルビデオカメラ1台から始めたのに、スポンサー営業をしてかすりもせずに、なんだか窮屈なことになっちゃったなと思ったんです。そんな時、ミトワさんが「スポンサー周りしても全然お金が出ない」と言いながらも、それでも「撮りたいんだ」と動きまわる姿をみているうちに、映画ってそういうものだなと思ったんです。いくら技術があって、経験を重ねていたとしても、本当に大切なものとはこういうところにあるのかなと。最初は僕だって見よう見まねで映画を撮り始めたわけだし、それが原点だったのに、仕事としてルーティンでやっていると、いつの間にか忘れていくんです。忘れないと仕事として割り切ってやれないんですけどね。そういうことも含めて、僕がちょうど撮れなかった時期とも重なって、ミトワさんに共感し、感情移入したところが、この映画にはとても出ていると思います。「自分にとっての映画とは何か、ドキュメンタリーとは何か、そもそも人を撮ること、人にカメラを向けることとは何なのか」ということを、常に自問自答しながら撮っていました。そういう意味では、ミトワさんは僕の想いを伝えるための「依り代」になってくれたのかもしれません。

 ■「最後まで撮ってくれ」の意味とは……?

ーー撮影期間は2011年から、長い時間をかけて撮られていたのですね。

撮影が始まってちょうど1年後くらいにミトワさんが亡くなって、そこからどういう映画にするか悩みました。病床のミトワさんに「映画を仕上げてくれ」と託されたことが大きかったです。一度、危篤になったとき、夜の10時頃、次女の静さんから電話がかかってきて、横浜から京都にキャメラマン(中澤健介)と駆けつけてあのシーンを撮ったんです。この映画を託された時点で、自分がやらないと完成しないですし、生死を彷徨っているミトワさんから頼まれたらね……。

ーー中村監督は看取ってはいないんですね。

「映画仕上げてや」、その他にも「俺の最後まで撮ってくれ」と言われたんです。それでそのままキャメラマンと2、3ヶ月病院に通いました。2、3日かと思っていたら、復活しはじめて……。僕は急にキャンセルできない仕事もあったので、新幹線で横浜と往復していて、キャメラマンがひとりで病室で撮るみたいな状況もありました。ミトワさんが唸っている姿だけを撮って帰ってきて、夜それをふたりでラッシュ(映像チェック)するとブルーな気分になるんです。翌日も翌々日もずっとそのことの繰り返しで、「俺たちは人としてこんなことしてていいんだろうか」と逡巡しながらやっていました。3ヶ月くらい同じことを続けていたら、精神的にまいってしまい、キャメラマンとも些細なことでよく喧嘩になりました……。

ーー「死にたくなった」ポイントのひとつですね。

いま冷静になればそういうことは考えもしないですが、そのときはナチュラルハイになっていたので、「救急車のシーンがあって、それから入院っていう流れのほうがシーンのつながりがいいよね」ということを考えはじめて、1日くらいずっと救急車の出待ちをしたことがあるんです。夕方になって「そもそも救急車が出てくるということは、誰かが倒れたということだよね。それを待っている僕たちって人としてどうなのか」と自己嫌悪に陥って、その場を後にしたり……。本当に馬鹿ですよね。3ヶ月間、「人の生を撮ること、死を撮ることはなんなのか」を考え続けて、どうしようもない失敗も多かったですが濃密な撮影ができたと思います。

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■「骨まで」撮るということ

ーー病気とかではなく、老衰だったのですね。

最後は呼吸不全でした。僕らは「最期まで撮ってくれ」と言われたけど、でも具体的にどこまでかは言われてないんです。だけど、「最期まで」っていうからには「最期まで撮らなければ」というふうに、僕の想いがどんどんエスカレートしていったんです。とても有り難かったのは、「(父が)最期まで撮ってくれって言ってるんだから」ってご家族が応援してくれて、それもあってキャメラを回す覚悟ができました。

ーーご家族も映画を撮ることに協力的だったわけですね。

ミトワさんが亡くなる前後ぐらいから、「父の映画を残すということは(家族の)使命」、のような感じになっていたんです。

ーー途中からは、思いっきり”家族映画”になっていました。

そうですね。これはネタバレになってしまうのですが、ミトワさんが亡くなって、どうやってこの映画を終わらせたらいいか悩みました。お通夜と告別式の後、「ミトワさんは、結局何を残した人なんだろう。器用な人でいろんなことをやってきたけれど、この人は何を残した人なんだろうか?」って、スタッフ全員で話し合ったことがあるんです。そのときに答えはでなかったのですが……。でも告別式で家族のパンショットを撮ったとき、奥さんのサチコさん、長女の京子さん、次女の静さんがいて、そして京子さん、静さんの子供たち、孫たちも並んでいました。そのときに、ミトワさんは生の営みというか、一人の人間として次世代に繋いだ人だなと思いました。それは誰もがやってる当たり前のことかもしれないけど、日系人強制収容所も経験して、自分の生存を脅かされそうになりながら激動の20世紀をサバイブしてきたけど、そこだけは確実にやってきた人なんだと。そう思ったときに、「家族を撮りたい、家族を通して、ミトワさんとは何だったのかを、もう一回見つめていきたい」と考えました。そこから映画のスタイルがガラッと変わりました。あえて変えたというか、そうしないとこの映画のゴールは見つけ出せないのではないか、まだ確信はなかったけれど、それしか道はないなと思ったんです。それともうひとつ、実を言うと、ミトワさんが亡くなったときにすごい虚脱感に襲われて、「本当に俺はこの映画を作っていいんだろうか? 最期まで撮ったけど、そういうことをやっていいのか」と悩みました。自分の肉親を失ったとき以上の空白というか、虚無感がすごかったんです。おこがましい話ですけど、ミトワさんの家族と一緒に、その空白を埋めていけないかなと思いました。いわゆるグリーフワーク(喪の仕事)と言われるもので、僕も疑似家族のようになっていて、後半パートはあの家族と一緒に「喪の仕事」ができないかなという意識で作っていました。

■「モンティ・パイソン」みたいなことがやりたい

ーー正直に言うと、ヘンリ・ミトワを追うドキュメンタリーのはずなのに、冒頭に「赤い靴」が出てきてちょっとびっくりしたのですが、ミトワさんの存在自体に驚嘆しながら謎が解明されていく過程が、ミステリーのようでした。

またネタバラシをすると、冒頭の序章パートは「モンティ・パイソン」をやろうとしたんです。「横浜で赤い靴の話があります」、その後に「ところ変わって、京都では……」みたいなことで、編集マンとは「どう語るのか?」という話法に関して、時間をかけてディスカッションして、作り込んでいきました。ドキュメンタリー映画って基本的には時系列を崩さずに、オーソドックスな話法でやるのがいちばん見やすいのだけど、「素材主義」と言われるような「素材をただ見せていく」ような方法論から脱却したかったんです。ドキュメンタリー映画も”映画”なので、映画の話法としてできるものを作りたいなと。構成に関しては、通常のドキュメンタリー映画だとクランクアップ後に構成を考えることが多いのですが、今回はミトワさんが亡くなった時くらいからすでに作り始めました。「こうなったらおもしろくなるんじゃないか、こういうシーンがあったらこのシーンは成立するだろう」ということを撮影しながら考えて練っていきました。振り返って構成表を見るとおもしろいのは、2013年の時点で「ドラマ・母を捨てた息子」というのを決めてたんです。また『ヨコハマメリー』と同じ編集マン(白石一博)だったので、今回はその進化系をやろうと、私が作った構成をもとに、編集も精密細工のように作り込んでいきました。

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■念じて叶った、余貴美子ウエンツ瑛士のキャスティング

ーーでは、ドラマパートのキャスティングはそのあたりで決めたんですか?

もしドラマパートを撮るとしたら、ウエンツ瑛士さんと余貴美子さんでやろうと、まだミトワさんが生きていた時から決めてました。

ーーすでにお二人は監督の頭の中にあったのですね。

もうミトワさんの若い頃のパスポートの写真みたら「あ、ウエンツさんだ!」と思ったのがキッカケです。その後、ウエンツさんの経歴を調べてみると、ドイツ系アメリカ人のお父さんと日本人のお母さんとの間の子供であることなど時代も世代も違いますが、その境遇が似てるなと。その時に、ウエンツさんともに「役を一緒に考えていく。当時のミトワさんの感情を探していくこと」ならば、通常のドラマ手法ではなくて、ドキュメンタリー畑の私でも勝算があると思ったのです。勿論、ウエンツさんのインタビューを読んだり、これまでの出演映画を見たり、映画『タイガーマスク』のウエンツさんを観て、「ちゃんと」と言っては失礼ですけど、ちゃんとスクリーン映えする方で、映画にでられる人だと思ったんです。またお母さんの写真を見せてもらうと、似てるわけじゃないんだけど、余貴美子さんが浮かんできました。余さんも私と同じハマッ子で、以前、地元のパーティでお会いする機会があったんです。映画やテレビの中の余さんではなくて、実際にお会いした余さんを見て、ミトワさんのお母さんと余さんが自分の中でつながった気がしました。なのでドラマを撮るなら、ウエンツさんと余さんだと勝手に思っていました。ちょっとしたストーカーみたいなもんです(笑)。周りの人からは「(オファーしても)無理だよ」と言われましたが、僕の中では「出演してくれる!」と、完全に思い込んでいました。だから最初にお会いしたとき、心の中で「ようやく会えたね」と思いました(笑)。

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ーーウェンツさんにとっても新境地で、ミトワさんを演じるのは挑戦だったのではと思いました。現場はどうだったんですか。

そうですよね。現場でウエンツさんは台本をほぼ見ずに、台詞を全部覚えてきてくれました。最初に「全然役作りしなくていいです。そのままで来てくれたらいから」と伝えました。ひとつひとつのシーンで「ここ(のミトワさんの感情、想い)はどうなんですか?」と、ミトワさんの自伝も読み込んで、ミトワさんに関する写真資料も見てくれた上で質問をしてくれました。ウエンツさんなりの演技プランを作ってきてくれたので、すごく話がしやすかったです。僕はもともとドラマの監督じゃないというのもあって、「噛んでもいいし、間違ってもいいし、なんでもいいです」というスタンスだったんです。その場に、現場の中にただ居てくれたらいいと。例えばセリフ以外のことを話しても「そういうふうにウエンツさんは思ったんだ」と思っていました。それこそミトワさんに対するのと同じように、どっちが上とか下ではなく、対等の関係。ミトワさんを撮っているときに、「この人はこういう表情をするんだ」とか「こういう言い方するんだ」と発見しながら、撮っていました。それがドキュメンタリーの醍醐味だと思うんです。こちらが想定していない言葉が出てくる瞬間にゾクッときたりするんですね。ウエンツさんはこういう表情するかなと思って書いた台本でも、「あ、こんな表情するんだ、おもしろいなあ、ここでこういう目線のやり取りをするんだ、なるほどね」とイメージを覆されることがありました。カット割りして撮ってはいますけど、ある程度「投げた」というか、一緒に考えながら作っていくということをやっていました。

■やっぱりドキュメンタリーはおもしろい!

ーーもしかして、次の映画はドラマということもありますか?

ヨコハマメリー』のときから「ドラマ撮らないんですか?」って聞かれることはあったんです。そもそも僕はドキュメンタリーが専門なんて一言も言ったことなくて、昔はドラマの助監督をやってましたから。でも『ヨコハマメリー』を撮ったら、いつのまにかドキュメンタリーの仕事しか来なくなったというだけなんです。肩書きも「ドキュメンタリー監督」と一度も書いたことはなくて、いまも抗って「映画監督」と書いたりします(笑)。

ーーそこには何の縛りもないのですね。

何の縛りもないのですが、今回撮っていて、やっぱりドキュメンタリーはおもしろいと強く思いました。ドキュメンタリーは映画表現において、いちばん挑戦も冒険もできるジャンルだなって。ドキュメンタリーが持つ映像の力は、一度取り憑かれるとなかなか抜け出せいない「魔力」があります。 ただやっぱり「出会い」なので、ミトワさんがいなかったら、あるいはあのご家族がいなかったら、こういう映画にはならなかったと思います。ウエンツさんが僕に「監督がミトワさんになってる」って言ってたんですが、お互い乗り移って、僕がミトワさんに乗り移り、ミトワさんが亡くなってからは、ミトワさんが僕に乗り移って撮ってような気もします。それこそ出会いだし、次も作れるかと言ったら、自信はないです。次が何かというのは、また10年で考えます、いやでも3年後に完成したら、狼少年ですよね(笑)。

(※このインタビューは2017年8月21日に行われました。)

プロフィール:
なかむら たかゆき/1997年、松竹大船撮影所よりキャリアをスタート、助監督として数々のドラマ作品に携わる。99年、中国・北京電影学院に留学し、映画演出、ドキュメンタリー理論などを学ぶ。06年に映画『ヨコハマメリー』で監督デビュー。横浜文化賞芸術奨励賞、文化庁記録映画部門優秀賞、ヨコハマ映画祭新人監督賞・審査員特別賞、藤本賞新人賞など11個の賞を受賞した。またNHKハイビジョン特集『終わりなきファイト“伝説のボクサー”カシアス内藤』(10年)などテレビドキュメンタリーも多数手掛けている。

 インフォメーション:
『禅と骨』
2016年 / 127分 / HD 16:9 / 5.1ch 配給:トランスフォーマー
9/2(土)より、 ポレポレ東中野、キネカ大森、横浜ニューテアトルほか全国順次公開

www.transformer.co.jp

Interview 004 黄インイクさん(『海の彼方』監督・プロデューサー)インタビュー

八重山諸島の台湾移民」を粘り強く探求し描く、家族のドキュメンタリー 

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『海の彼方』を監督・プロデュースした黄インイクさんにインタビューした。本作は『狂山之海(くるいやまのうみ)』(日本統治時代、沖縄へ移民した台湾の人々を描くことをテーマにした黄監督の長編ドキュメンタリー3部作)シリーズの第1弾となるとのことで、シリーズ企画の意図やこだわりについて伺った。「八重山諸島の台湾移民」というテーマに興味を持ち、東京の大学院在学中から沖縄へ通い、リサーチを重ねた。綿密な調査による妥協のないパラメータ選定、そこから人脈をたどり信頼関係を構築するコミュニケーション力も光る。黄自身も台湾出身だが、見知らぬ土地で、しかも黄らの世代では話す人の少ない純粋台湾語を話す人々への取材。言葉に苦労する黄に両親からの優しいサポートもあった。台湾と八重山諸島の「近さ」に目をつけ、そこから始まる人の流れと戦争を挟む壮絶な移民の歴史について図解や絵による解説もわかりやすい。石垣島に住む移民一世、玉木玉代さんの三男が経営する「アップル青果」にある懐かしい家族の匂いに強烈に惹きつけられて作った3部作の第1弾。石垣島の台湾移民の過去、現在、未来を描く家族ドキュメンタリーはほのぼのとして、台湾文化センターで行われた試写会では幾度となく笑いが起こっていた。続くシリーズ2作品の制作のため、クラウドファンディング支援者を募集中とのこと。ぜひ映像満載のサイトをチェックしてみて下さい。

聞き手&写真:福嶋真砂代

 

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■「八重山の台湾移民」というテーマに興味を持った

ーー本作は「狂山之海」3部作シリーズの第1弾になるということですが、このシリーズを企画しようと思った動機を教えて下さい。

まず「八重山の台湾移民」という比較的手つかずだったテーマがあって、以前から学校の授業で聞いたり、本で読んだりして気になっていました。私は2013年から調査のために八重山諸島に通いましたが、実際に行ってわかったことは、これを映画化するのはとても難しいということでした。ハードルが高いと思いました。たくさんの台湾移民がいる中で代表的な人を見つけだし、どうやって映画に進もうか、とても時間がかかりました。彼方此方、離れて住んでいる約150名の移民の方にインタビューを行いました。インタビューしながら考える時間も含めて、全部で1年半くらい調査にかかりました。どうやってこのテーマを世の中に届けるか。単純にたくさんのインタビューをまとめて見せるという映画はやりたくなかったのです。どういう表現でやろうかと悩み、2015年の初めに最終的に3部作という構成になったのです。そこにたどり着くまでに2年くらいかかりました。

ーー2013年からリサーチや数多くのインタビューをして考察を重ね、2015年に3部作にしようと決まったと。

そう、ようやくハマったんです。歴史も勉強しながらわかったことの中で、いちばん重要な点は、台湾と八重山は近いということ。距離的に近いから、違う年代で交流したルートがたくさんあるということです。まず「パイナップルと水牛農民」を描き、2番目の「西表島の炭鉱」はこの次の作品ですが、パイン農民よりも1020年前に来ていた人たちについて、そこにはとても残酷な話があります。2013年に八重山を訪れてすぐに撮り始めたのは、移民三世の伝統舞踊「龍の舞」をやっている人たちの活動で、これが3部作の最後です。このように3人の主人公で、3部作を表現する形に決まりました。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■「家族のドキュメンタリーが撮れる!」と思ったお掃除シーン

ーー第1弾の主人公として、石垣島の玉木玉代さんを撮ろうと思った決め手はなんだったのでしょう。インパクトのある女性ですね。

正直ここまで撮れるとは想像できなかったんです。もっと客観的に考えていて、3部作の1本目としてまず「八重山諸島に台湾人がいる」ということを最初に見せたいと思いました。そこから考案したのは、たくさんのインタビューで構成するのではなく、主人公をを中心にした「家族のドキュメンタリー」にしたいということです。家族を題材として、「家族史」から大きな歴史が見えるような被写体を選びたいと思いました。そんななかで、移民一世でお元気で、昔の記憶を話せる、魅力ある人を探していました。
最初は玉木家次男の茂治さん(アップル青果経営)と三男の文治さん(居酒屋経営)しか知りあっていなかったので、玉木家の全体像が見えませんでした。もっと家族のことを知りたくて茂治さんに案内してもらいました。それから「アップル青果」に通い、インタビューをしながら「この家族はどんな家族だろう」と観察しました。アップル青果は素敵で、店の前で子供が遊んでいたり、いつも活気がありました。玉代さんは、そんな元気なお店のヌシのようなおばあさんで、「この家族いいな」と思いました。それから玉代さんの米寿のお祝いや台湾に行く話も聞いたので、ぜひ密着したいと思ったんです。最初に「いける!」と思ったのは、米寿のお祝いの準備の家の掃除シーンを撮った時です。お祝いの会のために遠方から帰ってきた人もいたり、久しぶりに会う家族の団欒が撮れていたんです。カメラは邪魔しないし、影響もそれほどしていない、ここまで撮れるのかと、そのシーンのラッシュを見て、「あ、家族ドキュメンタリーが撮れる!」と思い、「できそう」という自信になりました。玉木家を撮るきっかけになった重要なシーンで、そこから始まりました。

ーー撮影隊と家族との距離感が絶妙で、近すぎず、遠すぎず。どうやってあのような距離感を作れたのでしょう。撮影前に玉木家と打ち合わせのようなものをしたのですか?

実は玉木家は『狂山之海』3部作のいちばん最後に選んだ家族です。それ以前に、他のふたつのドキュメンタリーを撮りながら、1年以上に渡って玉木家の様子を見る時間がありました。それと、お祭りなどのイベントで、中心メンバーとして活躍している彼らの方から、周りでウロウロしている撮影隊は逆に見られていたんです。ある日、茂治さんが「うちのおばあちゃんがいろいろ知ってますよ、話を聞かないか」みたいに声をかけて下さいました。その前にも玉代さんに会ってはいたのですが、ちょっと、怖い雰囲気があって話しかけられなかったんです(笑)。

ーー玉代さんが、昔、迷惑な客を追いかけて草履で叩いて懲らしめた、みたいな武勇伝を紹介するシーンもありました。強い方なのですね。

強いですよ。会ったばかりの頃はご自分で自転車に乗っていて、地元一強いおばあさんという感じでした。茂治さんが家族の全体像が見えるように導いて下さって、たくさんインタビューができました。そのようにどんどん親しくなり、インタビュー時間も長かったので、生活などの撮影に入る頃にはすでにお互いをよくわかる関係性ができていました。準備にたっぷり時間をかけて関係の基礎が出来上がっていたので、いきなり撮影に入るということではなかったのです。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

八重山は人類学的にも、とても貴重な地域

ーーその後は台湾旅行に密着されましたが、どれくらいの期間でしたか?

4、5日間です。玉代さんの体調もあるのでそんなに長くは旅行できなくて。

ーーしかも大雨の中、大変でしたよね。玉代さんが台湾で、台湾語を話し出すと、急に少女に返ったように可愛らしく、石垣にいる時とは違う感じになっていました。ところで、黄監督は台湾語を話しますか?

私の世代は中国語です。台湾語は、ある程度の理解はできますが、話すのは下手です。沖縄の台湾人に興味があるのは、まさにそこで、戦前に沖縄に渡った人たちなので、戦後の教育を受けずに台湾語しか話せない台湾人であることです。台湾にはもうそういう人はあまりいないので、とても特殊で、そこに興味を覚えました。とても昔風で、昔の言い方、難しすぎて聞き取れない言葉がたくさんあります。1年半の間に、私もけっこう台湾語がうまくなりました(笑)。沖縄弁の日本語も、台湾語もたくさん勉強しました。このように中国語の影響がない難しい言葉を話す人たちが住む八重山は、人類学的にもとても貴重な地域なのです。

ーー他の文化や民族の影響を受けずに、そこに純粋に生き残った言葉なのですね。

そう、「純粋」です。タイムスリップしたみたいです。本当に難しすぎて聞き取れないので、録音した音を私の両親に聴いてもらって解読してもらいました。両親も「難しい、でも懐かしい言い方ね」と言っていました。

ーーではご両親に言葉をちょっと助けてもらったのですか。

ちょっとではなく、かなり(笑)。字幕を作る時にもチェックしてもらいました。とは言え両親は映像の仕事はしていないのですが。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■「家族の視点」のドキュメンタリーにこだわった

ーーところで玉木慎吾さん(SHINGO☆:メタルバンドのベーシストとして活躍する、茂治さんの息子)をナレーターとして起用しましたが、若者世代として、現代と過去をつなぐ「ブリッジ」のように、敷居を低くしてくれている気がします。ナレーション作りは一緒に? それとも黄監督が作ったのですか?

ここは自慢したいところです。なぜなら、これは彼ら家族のドキュメンタリーで、監督視点ではなくて、家族の視点で作りたいと思っていたのです。そこで彼らの協力に加えて、彼らの参加も同じように重要だと考えました。被写体として「撮られる」ということだけではなく、台湾旅行中でも何を考えていたか、声を聴きたいと思いました。そこで、語り手は家族の誰かがやってほしいと思っていたのですが、バランスを考えると、東京に住む慎吾さんが移民三世として家族を見るのがふさわしいと思いました。未来(=現在)の代表としても、三世の人たちに入ってほしくて、歴史の部分は私たちが歴史資料を参考にして書きましたが、それ以外のところは慎吾さんにインタビューしたものを基にしたり、台湾旅のパートは、慎吾さんのブログの言葉を使ったりしてナレーションを作りました。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■彼らの日常はここ、石垣にある

ーー英語のタイトルは「After Spring, The Tamaki Family・・・」となっていますね。台湾旅行が「2015年の春」で、「After Spring」はその後ということなのですね。その構成もおもしろく、「米寿のお祝い」が第1パート、「台湾旅行」が第2パート、そして第3パートには石垣に戻った彼らのその後が映されます。クールダウンした穏やかさを感じましたが、そこに込めた監督の思いは?

実は台湾で上映した際に、「第3パートが長い」という感想がありました(笑)。クライマックス、例えば台湾に行って感動があり、泣くシーンで終わりというのが商業映画の常道ではないかと私も思います。なのに「なぜまた石垣に戻るんですか?」と訊かれました。なぜこのような編集にしたかというと、彼らの生活、人生、将来は、あくまでも石垣にあるのだと思います。その意味では、台湾人であっても「石垣の人」だと思います。何十年ぶりに台湾に帰ったというのも、特別のタイミングで、あれは通常の彼らではないのです。だから制作者としては、台湾のシーンで終わるのはおかしいと思いました。台湾旅行を経て彼らの生活には変化がありましたが、第3パートは彼らの日常であり、家族の魅力的なところなのです。米寿は88歳の特別なお祝いですし、台湾訪問も特別でした。でも彼らの日常はここ、石垣にある、ということを見せたかったのです。2015年の春には私たちも彼らと一緒に素晴らしい場面を見ました。家族と一緒に成長したと思います。そうした後に彼らにどんな変化があるのか、「After Spirng」の第3パートを作りました。派手な場面ではないですが、お祭りのお供えをしたり、ちまきを作ったり、買い物したり、笑ったり、そんな日常生活が魅力的だと思いました。

ーー「ちまきシーン」は「お掃除シーン」と並んで素晴らしいシーンです。「時期が来たら死ぬ運命よ」という玉代さんの言葉も響きます。最後にボーナスカットのカラオケシーンが入っていますね。

最後のカラオケは茂治さんのホームビデオの映像です。最初ホームビデオがあるという話は全然知らなかったのですが、制作途中、信頼関係ができた頃に、見せてもらったんです。もちろんプライベート映像なので、すべて確認の上で、許可をもらって使わせてもらいました。編集段階でも茂治さんに意見をいただいたり、コミニュケーションを十分とりました。だからこそ素晴らしいホームビデオをこれほど使わせてもらえたのだと思います。これは宝物です。

ーーなるほど、すごく近い距離で家族を見ているという感覚は、ホームビデオの映像も新たに撮影された映像も、うまく融合されて頭のなかにどんどん入ってくるからなのですね。ところで黄さんは、台湾の大学では放送学科、日本でも大学院で映画を勉強されたのですね。

台湾では映画を勉強していました。東京造形大学大学院在学中はすでにかなり沖縄に通っていました。いま撮影組にもうひとりカメラマンがいますが彼は東京造形大学の後輩で、いま一緒に沖縄に住んで映画制作をしています。

(※このインタビューは2017年7月7日に行われました。)

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

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2017年8月12日(土)よりポレポレ東中野ほかにて全国順次ロードショー