土壇場の”変身”が恐怖心を味方に変える
文:福嶋真砂代

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トルコのギョズデ・クラル(GözdeKural)監督はカブールを訪れたときに感じた得体のしれない「恐怖心」がまとわりついて離れず、それがこの作品を作る原動力になったと語っている。同時に、「恐怖心」は人間を前進させるパワーにもなりえると...。
暗い闇のなかに「希望」というともしびを、この母の困難な“冒険”とも言える旅を通して、どうやって見出すのだろうか。レイラと一緒に旅をしよう。
冒頭、荒廃した砂漠地帯を消え入りそうな声をしぼりだしトボトボと彷徨い続けるレイラの姿が痛々しい。声もよく聞こえない。背中から底なしの苦しみが滲み出している。ヘジャブのくすんだブルーが砂色に映えて目に焼き付く。
厳しい宗教の戒律を強要する国では女性がひとり外出することはありえなく、どんなに危険で恐ろしいことかをレイラの歩みと共に我々も思い知る。男たちに小突かれ、蹴られ、追われ、命の危険に晒される。
窮鼠猫を噛む
本当にどうにもならない極地に立たされたとき人はどんな行動をとるのか。とんでもないアイディアでもやってみる。普段ならできないことでも、窮地に陥るとなんでもできる。おそらくはそんな境地なのだ。まさに火事場の馬鹿力。窮鼠猫を噛む。
彼女は「男装」を思いつく。女として大切な髪を切り落とし、それでヒゲの生成を試みるが化けきれない。自らを危険な状況に追い込み、命がけで突進する。もう死んだつもり。闇雲だ。やがてそれを完遂させる運が巡ってくる。小さな光が灯る。そうやって母は変身を遂げ、勇気をまとって前進する。その力の源は監督が「恐怖心」にあると説く。恐怖を前に誰でも身動きがとれなくなるもの。その状態を力に変えるのは「変身」だ。これ、ヒーローものの「変身!」に通じるかもしれない。でもこんな状況下、申し訳ないが、か細い母の必死の変身にはどこか可笑しみが漂う。
一方本作は、このなすすべもない政治状況の下部レイヤーに怪しい「光」を映し出す。それは陽光からは程遠い、汚れた「光」かもしれない。だがそれは人間の下世話な癒やし。戒律の厳しさとは裏腹な自由さだ。映画も音楽も飲酒も、闇の流通システムがあるのだ。「この作品の普遍性」とクラル監督が語るもののひとつは、こんなシステムかもしれない。
シネマ・ジャジレーの正体
西洋の娯楽がすべて禁止されている社会だが、踊りや音楽を嗜む娯楽施設、「シネマ・ジャジレー」が登場する。酒もタバコもある。表の顔からは別世界。誘拐され行方不明となった少年たちは、あやしく歪んだ魔界に連れ込まれ、虚しい笑顔を浮かべている。
そんな環境で少年が大人になるとどうなるのか。青年になった男娼の踊り子ザブールの悲哀が描かれる。演じたマズルム・シュメル(Mazlum Sümer)がとびぬけて素晴らしい。

母は息子に会えるのか
シネマ・ジャジレーに幼い美少年がいる。おそらく誘拐され連れてこられたのだろう。強面の男性たちに囲まれ、感情をおし殺し、従順を装い、ときに優しいザブールに護られて暮らす。少年の表情からは自ずと無抵抗を選択した聡明さも読みとれる。彼の選択、そしてレイラの選択。どんな未来が待ち受けるのか...? 物語はクライマックスに向けてスリルを増していく。
世界に「希望」は存在するのか
行方不明の息子「オミッド」の名前は希望という意味だ。人間に付与された生きるチカラ。絶望のなかレイラが息子(希望)を探すことは、蹂躙されてしまった国を探すことでもある。ザブールの哀しく美しいコーランの叫び声は、たったいまも困難を極める世界の隅々に波のように響き渡るよう。
明日考えよう。レイラは『風と共に去りぬ』のスカーレットのごとく独り言をつぶやく。変身の末に勇気という強力な光の"武器”を得た彼女の本心だろう。この作品は、絶望的な状況で、大地を踏みしめて立ち上がろうと勇気をふりしぼるすべての女性への応援歌でもあるのだと、レイラが探していた希望の手触りを感じるのだ。
以下、クラル監督の制作への思いが伝わるDirectors Note(原文英語)の概要を掲載します。

私はアフガニスタン、カブールを訪れたときに得体のしれない、それまで感じたことのない「恐怖心(Fear)」を感じた。それは本能であり、私をひきつけて離さないような磁力があり、日が経つにつれて深まり、自分のなかに住み着いていた。
2015年、「DUST」というショートフィルムをカブールで撮った。その際に”We were here”と壁に掘り、一瞬でも「ここに居た」という証を残そうとした。
「“偉大な美、あるいは痛み”と出会うとき、世界の見方が突然変化し、何でもできると感じるのだ」という文章が頭の中につねにある。そして以下の異なるふたつのビジョンがある。
①母が3人の息子の雪の積もる墓に毛布をかける
このふたつの愛、ふたりの母からわかることは、「恐怖心」を抱くことは停止状態ではなく、前進する力なのだ。それは人を動かし、変身させることができるということ。
そんなビジョンの裂け目から生まれた主人公レイラは恐怖心をまとい、しかしそれに突き動かされている。恐怖心とは、仲間であり、道しるべ、鏡でもある。レイラを通して、どうやって恐怖心が人をむき出しにして、変身を遂げるかの冒険を体験する。
私を奮い立たせているのは、この言葉、
「言語はバラバラになり、概念は崩れ果てる。ものは名前を失い、意味は溶解する」つまり、過激な政権の下では、何一つとしてそこにあるものが続くことはない、ということだ。
(The very fabric of reality shifts and suddenly life becomes a terrain with no coordinates.)
この、意味の崩壊、存在の漂流は、私がこの作品で対峙したテーマだった。
私の映画の文脈は、感情的な流れ、モラルの曖昧さ、人間の二面性(二元性)の緊張である。
「シネマ・ジャジレー」は、特定の場所に位置するが、普遍性を持ち、私たちはみんな変わりゆく表皮を持つ。意味を問うことの挫折を否定し、喪失のあるところに宝の希望がある。
(Ruin reminds us where there is ruin, there is hope for treasure.)
「恐怖心」に取り憑かれ、そして惹きつけられたアフガニスタンは、私を人として、フィルムメイカーとして深くゆっくりと成長させた。
「DUST」を撮っていなければ「シネマ・ジャジレー」は撮れなかった。
FearとHopeは生きる直感においてパワフルなエンジンとなりうる。
私は「息子」だけではなく、ゴーストシティで「国」を探した。
恐ろしい世界の下のレイヤーには生命力、音楽、笑いさえある。しかしここでも女性は存在せず、若い男子が女の役をさせられている。偽りで不在の「女性」を感じるのだ。
ザブール(Zabur)について
グレーな領域の表現として、トライ&エラーを重ね、女、母親になろうとする。その限られた世界では意味のあること。選択肢がないから虐待されていると感じてることができない。女装して男をもてなす人格が、大人になって女性と結婚させられそうになるという矛盾を描いた。
訳:福嶋真砂代
Information:
監督/脚本/編集:ギョズデ・クラル
撮影:アディブ・ソブハニ
美術:ババック・ターミリ
プロデューサー:ブルト・レイハンオウル
プロデューサー:ミラド・ホスラヴィ
編集:ビュンヤミン・バヤンサル
プロデューサー:スヴェトラ・ツォツォルコヴァ
撮影:アディブ・ソブハニ
美術:ババック・ターミリ
プロデューサー:ブルト・レイハンオウル
プロデューサー:ミラド・ホスラヴィ
編集:ビュンヤミン・バヤンサル
プロデューサー:スヴェトラ・ツォツォルコヴァ
プロデューサー:アンデレア・ドゥミトレスク
キャスト/フェレシュテ・ホセイニ、マズルム・シュメル
キャスト/フェレシュテ・ホセイニ、マズルム・シュメル