「時代の無意識」について思いを馳せるとき(モレイラ、柄本、舩橋が抱く映画へのディープな思いを聴く)
取材・文:福嶋真砂代
『ポルトの恋人たち〜時の記憶』の公開に先がけて行われたマスタークラス(11月3日、アテネ・フランセ文化センター)に、アナ・モレイラ、柄本佑、舩橋淳監督が講師として登壇。モレイラが”若きアウロラ”を演じた『熱波』(ミゲル・ゴメス監督/2013)と2本のショートフィルム『ウォーターパーク』(アナ・モレイラ監督/2018)&『ムーンライト下落合』(柄本佑監督/2017)を上映後、映画プロデューサー市山尚三が司会を務め、それぞれの監督作品や『熱波』、ふたりが出演した『ポルトの恋人たち〜時の記憶』(舩橋淳監督/2018)について意見を交換。ポルトガルと日本をつなぐ、熱い映画トークを堪能した。3人が抱くそれぞれの映画へのディープな思い、終盤には『ポルトの恋人たち』の見どころやポルトガルと日本の撮影の違いについても語られた。ほぼ全文を掲載します。(敬称略)
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『熱波』は第1部が現代リスボンが舞台の「楽園の喪失」、第2部は植民地時代のアフリカが舞台の「楽園」という2部構成のモノクロ作品。『ウォーターパーク』は痛ましい事故ののち廃墟となった公園施設を舞台にしたポルトガルの社会の危機の影を感じるサスペンスタッチな作品。また『ムーンライト下落合』は明日に不安を感じる男ふたりが月光差すアパートの小さな部屋を舞台にたわいのない会話を交わすという作品。個人的にはサミュエル・ベケット戯曲『ゴドーを待ちながら』のような不条理劇の独特な空気感を感じた。『ポルトの恋人たち〜時の記憶』は舩橋淳監督の最新作。第1部「1760年ポルトガル」、第2部「2012年日本・浜松」の2部構成。日本とポルトガルを繋ぐ歴史的な縁(えにし)をたどる壮大な物語。とりわけオリヴェイラ監督作品の舞台となったギマランイス歴史地区で撮影されたポルトガル編は重厚な迫力があり、日本編と合わせて謎解き要素のあるミステリアスな作りになっている。解き明かされる時空を超えた運命とは......?
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◆『ウォーターパーク』と『ムーンライト下落合』はこうしてできた
市山:モレイラさんが『ウォーターパーク』を撮ろうと思ったのはどういうきっかけでしたか?
アナ:2つの理由があります。ひとつめは、90年代に実際にウォーターパークで2人の10代の子どもが吸水口に吸い込まれ命を落としたという不幸な事故があり、当時その子どもたちと同年代の私はとてもショックを受けました。そしてこのような「日常にある死」をフィクションとして表現したいと思い、映画が最適な手段だと思いました。
ふたつめの理由として、ポルトガルの政策への疑問があります。撮影したのは2013年ですが、ポルトガルはその少し前から経済危機を迎えていて、その年は危機のピークでした。働く場もなく、夢を追うこともできず、人生を組み立てていくこともできない、そんな若者に対して政府がとった政策は「ポルトガルを出て外国で移民となりなさい」というショッキングなものでした。そのような過去や現在の危機などが何層もの理由となって、物語を描きたいと思いました。2013年に脚本を書き終え、それからプロデューサーを見つけ、次に助成金を探し、ポルトガル映画・映像院(ICA)に申請をしました。ここはポルトガルで唯一の映画への助成を行う機関です。最初の応募では落ちてしまいましたが、翌年に同じ脚本で応募をすると、幸い審査員が入れ替わっていて、大変よい評価を得て合格しました。主観は物事を左右するのだなと感じました。
市山:柄本さんが『ムーンライト下落合』を作ったきっかけは?
柄本:『きみの鳥はうたえる(以下、きみ鳥)』(三宅唱監督/2018)の撮影に関係があります。実は『きみ鳥』の撮影が延期になり、時間がぽっかり空きました。そのタイミングに加藤一浩さんーー父の劇団の座付き作家さんなのですがーーの短編戯曲を読ませてもらい、月を介する宇野祥平さんと加瀬亮さんの画が浮かんできて、これは映画になるのでは......と思ったのがきっかけです。それを森岡龍さんに相談して、さらに『きみ鳥』プロデューサーの松井宏さんと三宅唱監督に相談してみると「おもしろいね、一緒にやりましょう」と言ってくれました。映画はいつか撮りたいと思っていましたが、タイミングが合って、何かダムが決壊するように、3ヶ月のお祭りみたいな感じでわーっと撮りました。セットではなく、アパートを借りて、事前リハーサルを1日、撮影は2日間で作り上げました。
◆スローエクスポージャーという手法による映画的な魅力
市山:舩橋監督はおふたりのショートフィルムの感想はいかがですか。
舩橋:アメリカ映画の脚本などで使われる「スローエクスポージャー(Slow Exposure)」という言葉があります。何も説明せず、小さな糸口から少しずつ事態の状況が見えてくる、それがいかにも味わい深く感じられるように見せる映画の話法です。これがふたりの監督作品に共通していると思いました。『ムーンライト下落合』を劇場公開で観たときは、登場する男ふたり(加瀬亮と宇野祥平)はゲイに違いないと思って観てました。だけど少しずつその関係性が見えてくる、そういう意味のサスペンス、謎めいたところを解き明かしながら観るおもしろさがありました。『ウォーターパーク』も、男がなぜウォーターパークにやってきたのか、女の子と彼はなぜ黙っているのか、妙に男の動作がトロくて、下を向いているのはなぜか、などと状況が少しずつ明らかになります。このような手法は映画的に魅力的で、そこが共通していると思いました。
『ウォーターパーク』の冒頭、女性がローラースケートを付ける前、腰のショット、足のアップと、ちょっとずつカメラを引いていく......というひとつひとつのカットにある切れ味。全部を最初から見せず、現実の一部を切り取っていくのですが、ひとつのショットが次のショットへの刺激となっていく。そんな映画としての佇まいがとてもおもしろい。『ムーンライト下落合』は、ひとつひとつのショットを、こうくるのか、ここで切り返すのか、と驚きながら観ていました。おふたりの映画への愛情は、(『ポルトの恋人たち』の)現場でも強く感じていました。自分の作品の現場ではどういうことを考えて撮っていたのでしょうか。
柄本:『ムーンライト下落合』の撮影は四宮秀俊さんです。リハーサル後に、ふたりでカット割りの話をしました。撮影場所は六畳間ですが、60カットありまして、全部アングルが違います。普通、六畳間に60のアングルは無いので(笑)、四宮さんに苦労をかけました。例えばラストカットのカメラポジションですが、その前のカットで「ここから行きますか?」と言われた時に、「いや、それはちょっと待って下さい」と残しておいてもらい、それをラストカットにしました。映画をたくさん観たり、経験から学んだり、勉強すればするほど、このショットはダメだなんてストッパーがかかってしまうものです。だけどこの映画は、2日間の撮影期間中、余計なことを考えずに熱量だけで撮影をしました。カット割り通りに撮りましたが、減ることはなくカットはむしろ増えました。水を眺めている目線のカットは「思い切ったことやったね」と三宅唱監督から感想をいただきました。
舩橋:加瀬亮さんがリモコンでテレビを付けようとするだけで何カットあるんだろうというくらい、微細な世界でおもしろくするというところに勝負をかけているのかなと思いました。
柄本:それは思っていました。冒頭の10分間、言葉なくただ動いているだけですが、すべてト書きに書いてある動きで、ひとつひとつの動きが具体的にに腑に落ちてこないとおもしろくない、そこは勝負どころだなと思いました。俺の中ではこれは「アクション映画」だと思っていて、一挙手一投足を全部余すことなく拾っていって、それが積み重なることで、ひと言めのセリフが出た時におもしろくなるかなと思いました。同様に、アナの作品も冒頭はアクションだけで、ひと言めのセリフが出るまで時間がかかっているので、共通するものを感じました。主演の女性の持つ快活で爽やかな色気というか、太ももがぶるんぶるんして、髪の毛が気持ちよくたなびいていくなど、アナならではの撮り方、「快活なエロ」というのでしょうか、すばらしかったです。主演の女の子はスケートの練習をしたのですか?
アナ:主役のキャスティングはオーディションをしたのですが、結局選んだのは、8歳からスケートを始め、いろんなコンクールにも出場し、人前で演技することにとても慣れている15歳のマルガリータという少女でした。
舩橋:アナは、「スローエクスポージャー」についてはどう思いますか?
アナ:私が最初に脚本を読んだ時、”ウォーターパーク”そのものが登場人物のように思えました。もともとは娯楽施設として作られ、子どもたちの遊び場でしたが、痛ましい事件の後に閉鎖され、廃墟になりました。その施設の佇まいが、当時の経済危機の中にあるポルトガルに重なって見えました。私は、場所にしても、人にしても、最初から全部を見せずに少しずつ見せていくことが重要だと思いました。なぜかというと、今の時代はあたかも爆発するように全部を見せてしまうことに観客は慣れてしまっているけれど、映画は本来そういうものではなく、見えることの外にあるもの、そこに映画の重要なものがあるのではないかと思っています。ですから小さい部分から話が始まり、少しずつ見せていき、だんだん広がり、またそれが小さいところに戻り、また大きなところへ、そういうふうに作りたいと思いました。
◆『熱波』はみんなの”記憶”の映画
舩橋:小さいところから少しずつ世界が見えるというところでは、柄本さんの作品でも、テレビのリモコンや柿ピーに拘っているところもあるし、アナの作品も、ウォータパークという小さな場所からポルトガルの現状が見えてくるというのもあります。僕はそれが映画の本質だなと思っていて、全部を見せることはできないから、どこかで視点を区切らなければならない。だから広い所から狭くなっていくよりも、狭いところから全部は見せられないけれど、外の世界を見せていく、というところに映画の魅力を感じるわけです。強引な言い方をすればミゲル・ゴメス監督の『熱波』もそうなのだと思います。逃げたワニをつかまえなければならないという、明らかにボケているおばあちゃんの話はとても狭い世界だけれど、それが少しずつ解明されていくと大きな世界につながっている、ということなのだと思います。
アナ:『熱波』は記憶の映画だと捉えています。自分の記憶をどういうふうに思い出すかについて語っているのだと思います。例えば、おばあさんも「カジノに行く」という記憶にしがみついているのですが、彼女ひとりの記憶は国の記憶にもつながります。ポルトガルの記憶は植民地をアフリカに持っていたということ。そこに入植して、彼らはそこで愛をはぐぐみ、失恋をして、人生の経験をし、そこで過ごしていた。要するにたったひとりのおばあさんの記憶がひとつの国の記憶であり、みんなの記憶であるということにつながるのだと思います。
柄本:僕は今日初めて『熱波』を観たのですが、とてもおもしろかったです。記憶のシーンで、手紙の使い方がいいなと思いました。手紙を読むところになると昔のベントゥーラと昔のアウロラ(モレイラ)の声になって、手紙のやりとりは当時のふたりの声で、ナレーションになると現代のベントゥーラの声になる、そういう声の使い方がとても新鮮で楽しく、おもしろいと思いました。『ウォーターパーク』では、冒頭では快活なローラースケートの音が、男が出てきて、彼の周りをぐるぐるまわるときの音は全然違い、痛々しく聴こえますが、その違いがおもしろくて、状況で聞こえる音が違うんだなと改めて思いました。後半の音は大きく調整しているのですか?
アナ:音にはとても気を使って編集しました。仰る通り、ローラースケートの音はとても重要で、地面を引っ掻く音などをしっかり捉えたかったのです。同時にBGMにも気を使いました。最初はローラースケートの音とBGMが入っていますが、だんだんスケートの音が抜けて音楽だけになる、そうすると音によって観客も彼女の頭の中に入ったような感じになり、彼女自身がすべてを忘れて没入する錯覚を、観客も一緒に味わうことになる。音が終わった瞬間にひとつが終わり、彼女の体も下に下がり、音もなくなる、というふうにしたかったのです。
舩橋:僕は『熱波』を2013年のベルリン国際映画祭で初めて観たのですが、読んだレビューで、前半は35mm、後半は16mmで撮った作品と知りました。前半はシャープなイメージ、後半はふわっとした感じに撮られていて、とてもおもしろかった。1931年のF.W.ムルナウ監督遺作の『タブウ(「Tabu: A Story of the South Seas」)』も2部制で、第1部が「Paradise」、第2部が「Paradise Lost」となっていますが、ゴメスの『熱波』ではそれが逆になり、「失われた楽園」から始まって「楽園」というふうに反転させているんです。ムルナウはタヒチで撮っています。エキゾチシズムというか、知らない土地で黒人を撮ることで「世界」を見せている。そこからインスピレーションを得て、ゴメスはアフリカで撮ったのかなと思うのですが、遠く離れた南方で起きる恋愛劇というのは映画史にたくさんあります。成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955)やジョン・ヒューストン監督『アフリカの女王』(1951)なども、南の植民地や戦地で起きた恋愛を、時間を経た後に見つめる、ということを甘美でメランコリックな感情とともに映画にしています。この作品を観て浮かぶメランコリーやノスタルジアの感情に、35mm、16mmの映像がとても合っていて、16mmの素敵さを感じました。柄本さんがおっしゃるように、サイレントで過去を見つめるという描き方があるのだなと思って観ていました。
アナ:付け加えるとモノトーンで撮られていることもひと役買っていますね。
柄本:『熱波』では台本にセリフはきっちりと書かれていましたか?
アナ:台本は捨てました。少し前に台本をもらっていましたが、撮影の少し前にゴミ箱に。前日か当日に、アウロラのシーン、ワニと撮る、というふうに言われて、セリフはメモで貼られていきました。そうすることで監督の中で発酵させていったのではと思います。
柄本さんの映画を観た感想をお話したいのですが、私の映画は色があり、明るい感じの映像でしたが、柄本さんの作品は明暗のコントラストがはっきりしていて、まるで絵を見ているようでした。それからファンタジーを感じる、窓の外の月を見るシーン、月光を浴びるシーンも映画的だと思いました。映画はどこかマジカルなものであり、ラストシーンの大きな月を見上げるシーンも、過去の映画の精が集まってこの映画を見ているように感じられました。
柄本:たしかに、自分で観てきた映画の記憶が、誰しもそうであるように、あるのだと思います。自分の中では、6畳間の宇宙船の中にいるように、SFチックになったかなと思いました。6畳間にいる感覚は大事にしたくて、そこを描きながら、外の世界を感じたいという気持ちがあったので、「四角い箱の中の二人」という印象を置きながら、少し外が見えてきて、ふたりだけの社会ではない外の社会が見えているというふうに描きたいと思いました。
舩橋:宇宙船といまおっしゃいましたが、柿ピーの話をしているふたりの男の話ですが、そこに現代社会が見えるということがあるのでしょうね。
柄本:そんなに僕もいろいろ考えたわけではないのですが、要するにこのふたりは「眠れないふたり」で、深夜の何もできない時間、いい1日を過ごしたわけでもないふたりが、そんな時間に起きてなんとなくしゃべっている。明日に対する不安を抱えたふたりというふうなものが見えてくるといいなと思いました。最後にズームアップして音が入ってくるのですが、あれは次の日の朝の音、出勤していく人たちの音を入れたという意図があります。
舩橋:非生産的な、何も産まない時間を過ごしているふたり、というのがとてもツボにハマったのですが、柿ピーを「食う?」って言って、受けとってからどうしようかなという、まだ迷っているという、時間の無駄がたくさんあるところがとてもおもしろかったです。
柄本:あのシーンは見るたびに僕も考えてしまうのですが、寿司屋になると決めた男に対して、一旦何をしていいかわからずにまた片付けを始めて柿ピーが目に入り、何か励ましの言葉をかけたいけど思いつかない、俺のできる唯一のことは柿ピーを渡してあげることくらいだと。渡して「がんばれよ」という気持ちがあるのですが、受けとった男はそれを食べない。食べてやれよと思ったり。そこにある行き違いがあり、最後は柿ピーを食べてくれたり、そこにふたりの思いの違いがあったりして、微妙な噛み合わなさがあるんです。加藤さんの本のおもしろさがあるのだと思います。
『熱波』の好きなシーンは、ふたりで手をつないで楽しげに走るところ、ふたりとも幸せそうなのに、最後の顔は、この楽しさはいつかは終わる、ということを予感したふたりの顔で終わる。あのカットは重要で、ワンカットのうちに、後に来る地獄のような時間を予感させること、ふたりがそれを気がついているということを知らせる重要なカットだと思いました。あれも当日言われたシーンなのですか?
アナ:そうですね。台本にはなく、監督の頭の中にあったことです。メタシネマっぽいのですが、ふたりが幸せそうに歩いていて、ぱっと止まってカメラをまっすぐ見る、そのことで「みなさん、これは嘘なんですよ、これは映画なんですよ」と言っています。同時に、これから来る不幸を予感させ、ここにいるのは実はアウロラとベントゥーラではなく、アナとカルロト(・コッタ)なんだと一瞬仮面を剥ぐという狙いもあります。
◆最新作『ポルトの恋人たち〜時の記憶』の魅力
舩橋:プロデューサーのロドリゴ・アレイアスさんが僕の『桜並木の満開の下に』(2012)を観て気に入ってくれて、「ポルトガルと日本を絡めた映画を作ろう」と声をかけていただいたのがきっかけです。ポルトガルも日本も大陸の端に位置していて、海洋国で、主食はお米で、海産物がおいしいとか、共通項が多いことがわかりました。ポルトガルを実際に訪れて感じたことは、ポルトガル社会ではモザンビークを中心に1960~70年代の植民地独立運動をやった時のことをいまだ引きずっていて、罪悪感が根強く残っていることです。僕は「時代の無意識」ということを映画を撮る人間として考えていますが、ゴメスもあのようにメランコリックに描いています。それがゴメスにはとても重要だったのです。僕もこれを重要なこととして考えたいと思っていました。そこでひっかかっていたのは「境界線」というコンセプトです。この映画の原題を「LOVERS ON BORDERS」としましたが、現代は境界線の重要性が増している社会ですが、僕は本当は境界線はなくてもいいと思っているんです。境界線を引くことで疎外され、迫害されてしまう移民たちが日本にもいますし、ポルトガルにもいる。そのような排外主義がある世の中で、難しい立場に追いやられてしまう恋人たちの話を描きたいと、このストーリーを作りました。
市山:柄本さんとモレイラさんは、シナリオを最初に読んだ時の感想はいかがでしたか?
柄本:1部と2部で似たことを少しずつ違うように描かれていますが、それぞれ時代が違います。印象としては最初は2本の映画が入った脚本(ホン)だなと思いました。ただどうするのだろう、1本の映画にになるのだろうかと思ったのですが、第1部で細かく撒かれたタネが、第2部で見事に花を咲かせ回収されていく。ふたつを並べることで1本の映画として成立するんだなと気づいて、それは監督の手腕だと思います。あと編集に時間がかかっていたのは、こういうことが行われたのだなと映画を見て思いました。台本の分量からすると、2時間20分の分量ではないですよね(笑)。
舩橋:はい、最初の編集では4時間になりました。ポルトガルではテレビバージョンがありまして、45分ずつの4つのエピソードということになっています。映画では、人間の生理的なことを考えて観られる長さに落としこんでいくのに時間がかかりました。
アナ:ポルトガルでは1755年にリスボン大津波がありましたが、2011年の東日本大震災のアナロジーになると感じました。2本の映画でもよかったのかもしれませんが、1本ずつ分かれてしまったらこの映画は成り立たなかったと思います。それぞれが補い合うことで1本の映画になるということが必要だと思いました。カオスの中で、人々がどのような動きをするのかを見せている映画だなと思います。登場人物が、将来が見えない、幸せになる可能性も少ない、そのようなカオスの中で生きています。外的要因によって、または自分の行動のせいで幸せになれなくなった人々であることが、1部と2部で共通して描いていると思いました。
舩橋:おふたりは『ポルトの恋人たち』のどこを観て欲しいですか?
柄本:第1部に映る旧いポルトガルの街ですね。18世紀のポルトガルの街並みがそのまま残っている地域があって、普段入れない場所に入って撮影を敢行したので、そこは見応えがあると思います。
アナ:そうですね。ポルトガルには過去の雰囲気や記憶を留めた街並みが多く、建築物も多く残っています。映画を観ることで観光地ではないポルトガルのよいところを見てほしいです。
市山:第1部にポルトガルの貴族の館が出てきますが、実際の貴族の館が博物館になっていて、調度品などもそのまま残っていました。そういう場所を撮影に1週間貸してくれるのですが、日本では考えられないことです。壊したらどうしようとビクビクしながら見ていましたけど、やはり本物は迫力ありますね。
舩橋:それから、ポルトガルでたまたま見つけたものを映画の中に取り込みました。ある天井画を見つけたのですが、アジア人が描かれていて、調べると実は九州の大村藩で火あぶりになった宣教師の絵だったのです。そのリアルストーリーを映画に取り込みました。種子島に鉄砲が伝来したとき、日本で鉄砲はコピーできたんですが、火薬は作れなかったので輸入していました。その引き換えとして奴隷を送ったということで、1バレルの火薬と50人の日本人奴隷を交換したという記録があります。インドのゴアを中心に世界中にばら撒かれた日本人奴隷がいたというのですが、その子孫でポルトガルにまで連れてこられた人たちを柄本さんと中野裕太さんに演じてもらいました。奴隷をひどく恨んでいるポルトガル人が「うちの先祖は日本人に火あぶりにされた、だから死ぬまでこきつかってやる」というリアルな設定を映画に取り込みました。
市山:この映画もアナの作品と同じポルトガル映画・映像院(ICA)に助成金を申請しました。映画の設定的に難しいかなと思ったのですが、かなり満額の助成金がでましたね。
舩橋:ICAの助成金の審査はすべて”ガラス張り”になっていて、脚本、映画芸術点、プロデューサーなどに点数をつけられ、ウェブに掲載されて落ちた人もわかるようになっていて、日本もそうしたらいいと思いました。ラッキーなことにこの映画は約30件の応募中トップでとれました。
市山:柄本さんはポルトガルでの撮影は初めてでしたが、どうでしたか?
柄本:撮影的には難しかったところかもしれませんが、みなさんがとてもおおらかで、集合してからセッティングが始まるまで約1時間くらいお茶の時間があったり。もともとポルトガルではそれが普通で、そこに日本のスケジュールで撮るとなると大変ですが、自分たちのスタイルを崩さず、でも焦ることなく、同じ熱量で撮ってくださいました。きっとものすごく大変だったと思うし、ストレスも溜まったとは思いますが、そんな中でおおらかにいてくださって、ただ監督と古谷さんは気が気じゃなかったと思います。僕はどちらかというとポルトガルスタッフに囲まれていることが多かったので、僕や中野さんは、ポルトガルの人たちに助けられたと思います。
アナ:日本とポルトガルとでは撮影方法は違うと感じました。私もコーヒーはゆっくり飲みたいし、ごはんはゆっくり食べたい(笑)。そういうことはいい仕事に結びつくとは思っていますが、日本に来て、日本の撮影をしたときに「ああこういうことなのか」とわかりました。スタッフも違うし、監督のやり方も違うのだと。ただ私は俳優なので、俳優はその場その場、監督の意向に合わせていかなければいけない。ショックとは言いませんが、違うんだということ、いろいろなことを学びました。
舩橋:日本人スタッフは少なかったのですが、ポルトガルでは本当に楽しみながら撮影をしました。マノエル・デ・オリヴェイラ監督の傑作『アブラハム渓谷』(1993年)にドウロ河のワイナリーが出て来ますが、僕らの映画もこのドウロ河沿いで撮りました。オリヴェイラ映画のすばらしい景色を観ていいなと思っていた同じ場所で撮影できたのは本当に幸せだなと思ったので、みなさんにもそれを感じていただけたらいいなと思います。
あらすじ:物語の舞台は、リスボン大震災後のポルトガルと東京オリンピック後の日本。乗り越えられない境遇―境界線(ルビ:ボーダー) によって引き裂かれ、その挙げ句に恋人を殺害された女が、その恨みを晴らすために選んだ手段は、想像もつかないものだっ た・・。18 世紀と 21 世紀。登場人物の立場は時代によって微妙に入れ替わりながらもほとんど同じプロットが反復され、デジャ ブのように交差し、やがて愛憎の不条理に引き裂かれた人間の業をあぶり出してゆく。
出演:柄本佑、アナ・モレイラ、アントニオ・ドゥランエス、中野裕太 製作:Bando á Parte, Cineric, Inc., Office Kitano プロデューサー:ロドリゴ・アレイアス、エリック・ニアリ、市山尚三 脚本:村越繁
撮影:古屋幸一 編集:大重裕二 音楽:ヤニック・ドゥズィンスキ 監督・脚本・編集:舩橋淳 配給:パラダイス・カフェ フィルムズ 配給協力:朝日新聞社 協力:ポルトガル大使館
PG-12/2018/日本=ポルトガル=アメリカ/139 分/シネスコ/5.1ch