REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Review 60『街は誰のもの?』

ブラジルのストリートで「街」について考える

文・福嶋真砂代

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(c)KOTA ABE

ブラジルのグラフィティに興味を抱いた阿部航太監督(撮影・編集)のデビュー作が公開中だ。単身ブラジルに渡って6ヶ月間(2018-19)滞在し、「街は誰のもの?」というテーマについて、文化人類学視点で撮ったドキュメンタリー……と聞けば堅苦しい作品かと思うと、いやいや、とても敷居はひくい。映画の始まりこそグラフィテイロ(グラフィティアーティスト)を追うカメラの揺れにやや動揺しつつも、しだいにその“揺れ”ごと「ストリートにいる」臨場感となり、「いつからグラフィティをはじめたの?」「あなたにとってグラフィティを描くことの意味とは?」などカメラのこちら側から質問する阿部のゆったりとしたポルトガル語、それに答えるグラフィテイロとの会話を聴くうち、いつのまにか、自分もそこにいるように楽しんでいた。

ナレーションや音楽(サンバもボサノバも流れない)を使わず、風や雨の音、車の音、街の喧騒、鳥のさえずりが聴こえる、音の存在感も忘れがたい。前半はグラフィティ、そして後半にはグラフィティを撮影し終えて意識が変わったという阿部が撮る街の様子、スケートボードパークと、被写体は映り変わるが、阿部が見つめるのは一貫して「ひと」である。人間がいるから街がある、そんな単純なことに気づかされる。

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(c)KOTA ABE

サンパウロリオデジャネイロ、ベロオリゾンチ、プラナルチナの4都市をめぐって撮られたグラフィティは、それぞれにシチュエーションが異なり、それぞれのグラフィティがみせる趣きの違いに魅入る。とりわけプラナルチナのオドルス(ODRUS、ポルトガル語でSURDO=ろう者の意味)が描くグラフィティは息を呑むほど美しい。このまま美術館に展示してもおかしくないと思うが、オドルスは「美術館では限られた人しか見れない。いっぽうグラフィティはより多くの人に見てもらえる」と語るのだ。なるほど。そして日本人グラフィテイロ中川敦夫のグラフィティの華やかな迫力、そこに宿る意味の深さを識る。グラフィテイロの人生観、さらに「グラフィティとは“手放すこと”」とリオデジャネイロで興味深い言葉も聞いた。

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(c)KOTA ABE

ところで実際に「街は誰のもの?」だろう。その答えは単純ではないし、場面場面で答えは違うかもしれない。アートからは離れるが、少なくとも「“自分が”住む、旅する、通う場所」と意識するならば、美しく、楽しく、快適に、保ちたくなるのが自然だろう。しかしいったん「公共の場所」となると何らかのルールが必要になる。どうしても他人任せの意識が邪魔をする。グラフィテイロたちが語る、街を「豊かに」する意識はどうしたら生まれるのだろう。個人的には、歩き疲れたら休む場所があり、見知らぬ人とも語りあえたり、人の温かみがある街であってほしいと、特徴のない他人行儀な街(巨大な建物群)が生まれるたびに思うのだが。

蛇足だけれど、以前筆者が航空会社勤務で東京とロンドンを激しく往復していた頃、街の滞在時間は短いが、「次にまた来る人」として、そこで知り合う人と次の約束をすることは可能だった。ある時、スプレー缶で描くグラフィティ少年たちとロンドンの下町で知り合い、「次回もまた見に来る」と約束をして、人目につかない時間、場所を見つけてゲリラ的に描くグラフィティの現場を見せてもらったことを、この映画を見て思い出した。それはとてもアートとは呼べないグラフィティ(おそらくピシャソン)だったのだが、ちょっとスリリングで魔法のような時間だった……。

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(c)KOTA ABE

いまやスマートフォンで映画が撮れる時代。それが映画なのか、映画と呼ばないのか、その境界も意味をなさなくなろうとしている。「こんなことを言うと語弊があるかもしれないけど」と恐る恐る「こんなに楽に映画が撮れるんだ」という感想を抱いたことを阿部監督に伝えると「映画を撮ることが唯一の表現方法というより、ブラジルのストリートを考えるための一つの手段としてカメラを回したので、まったく語弊はありません」という返事をいただいた。もちろん、この“リラックス”を感じる裏側には丁寧なレイヤーが重ねられているのは言うまでもない。阿部監督が作り上げた分厚い資料を読むと、映画を作る動機や過程などをより理解することができるので、ぜひ公式サイトやパンフレットのプロダクションノートも読んでいただければと思う。

そういえば、まだ記憶に新しい「東京2020オリンピック」のスケートボード競技に起こった新たな熱狂の渦、その源には互いをリスペクトする有機的な関係性がある。まさにそれを育む土壌を、映画後半に映る「パーク」のスケートボーダーたちから学ぶことができる。ある少年が放つ「スケート オア ダイ」という言葉が超クール。その言葉が多くを物語る。夢中になれることがある豊かな時間、こんなに刺激に満ちているストリート、緊張感と同時に、日本にはないゆったりと自由な空気の匂いを感じる。そろそろ旅にでかけてそんな空気を吸いたい、ムクムクと旅心が湧いてくる。

Information: 

監督・撮影・編集:阿部航太

https://www.machidare.com/

2021年12月11日(土)よりイメージフォーラムにて公開

●アフタートークゲストスケジュール

2/11土: 田中元子(グランドレベル代表取締役)終了
12/12日:荏開津広(DJ/ワーグナープロジェクト音楽監督)終了
12/18土:宮崎大祐(映画監督)終了
12/19日:三宅唱(映画監督)終了
12/25土:宮越里子(グラフィックデザイナー)終了
12/26日:高山明(演出家・アーティスト)終了

●関連サイト

https://www.instagram.com/trashtalkclub/?hl=ja

KOTA ABE | DESIGN AND CULTURAL ANTHROPOLOGY

TIFF Review:『ヴェラは海の夢を見る』(第34回東京国際映画祭 コンペティション部門)

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©Copyright 2020 PUNTORIA KREATIVE ISSTRA | ISSTRA
新たな航海に船出した東京国際映画祭

文・福嶋真砂代

第34回東京国際映画祭は、メイン会場を六本木から日比谷・有楽町・銀座エリアへと移転し、プログラミング・ディレクターを交代、部門構成も改変され、新たな船出をした。これからこの航海はどこへ向かうのか、見守りたいと思う。

コシノジュンコ監修のポスタービジュアルは、「風を切って歩いていく女性」の背中が頼もしく、“強い決意”を感じさせる。映画祭のコンセプト、記者会見や開会式で発表された「越境」という言葉。それは「コロナによるコミュニケーションの断絶、男女差別、経済格差、国際紛争などのボーダーを乗り越えていく映画祭」のイメージだと語られた。いまなお様々な制限が続くコロナ禍で、会場では消毒と検温が繰り返され、安全性を優先して粛々と開催された。そうしたなか、オンラインイベントが増え、リモートでゆっくりと映画人たちの熱量や思いにふれることができる機会が増えるのはうれしいことだ。今後(コロナが収束しても)その手法のベースを使えば、観客にとっても、映画への興味、映画祭への参加をより拡大できるきっかけとなるのではないだろうか。たとえどこで足止めされようと、映画は悠々とボーダーを越えていく力を持つと信じている。

苦悩の中で自由を求め闘う中年女性ヴェラを描いた

さて、東京グランプリを受賞した『ヴェラは海の夢を見る』はコソボ北マケドニアアルバニア共同作品(この地域からの初エントリーとなる)。コソボのカルトリナ・クラスニチが監督した。主人公は手話通訳者の中年女性で、元判事の夫と暮らし、舞台女優の娘には孫も生まれた。海と銃声という印象に残るファーストシーン。夫の自殺から、実家の売却問題、夫が隠していた闇(ギャンブル癖)が浮かび上がり、ヴェラは窮地に立たされていく。親族からも借金返済を迫られ、脅迫まがいのいやがらせも受ける。いっぽう娘は舞台女優として自信をなくし不安定になる。家族は分裂したまま、ヴェラの心を砕いていくのか…。ある家庭を襲う問題に対して立ち向かう女性をスリリングに描く本作、コソボが独立をかけて戦ったヒストリーからの影響をもちろん感じるが、クラスニチ監督はよりプライベートなスタンスで女性の自律を描いた。オンラインインタビューで「20世紀、女性の変化は大きかった。曾祖母も祖母も読み書きができなかったが、母と私と妹は大学を卒業した。本作では苦悩の中で自由を求め闘う女性のヴェラを描いた」と語る。印象深いのは、ヴェラがどんな困難に直面してもひるまない姿勢と凛とした表情だ。小津安二郎監督を敬愛していると語るクラスニチ監督だが、ヴェラの表情にふと原節子の逆境のなかで凛として生きる女性の強い面影が見えないだろうか...。社会がドラスティックに変わるいっぽうで根強く男性優位社会は残っている。現在も多くの女性がさまざまな局面で闘っている。最近では伊藤詩織さんや赤木雅子さんはじめとする、理不尽な圧力に屈せず闘う女性たちが、「ヴェラ」に重なる。彼女たちを鼓舞する意味でも、本作のグランプリ受賞はうれしい。

この『ヴェラは海の夢を見る』、また審査委員特別賞の『市民』、そして最優秀女優賞 「もうひとりのトム』(筆者未見)の3本の作品をとってみても、まさにコシノジュンコポスターの女性のごとく颯爽と「風を切って歩く女性」を描き、越境して聴こえてくる女性の活躍の頼もしさにガッツポーズをしたくなる作品だった。今回の上映作品における女性監督の比率(男女共同監督作品含む) 26.2% (126本中34本) という統計を見ると、これからますます女性が映画界において活躍できる「のびしろ」として考えることもできる。今後の「のび」をますます期待したい。

以下、TIFF公式サイトから本作関連の記述を抜粋する。

■今年のコンペ部門には、113の国と地域から1533本の応募があり、15作品が正式出品。『ヴェラは海の夢を見る』は、手話通訳を職業としている中年女性のヴェラを主人公にした作品。夫の自殺によって、自らを取り巻く状況が一変したことで、ヴェラは独力で事態を打開しようと決心する。男性中心に回っている世界に挑むヒロインを力強く描いた物語だ。

■審査委員長を務めたイザベル・ユペールは「この映画は、夫を亡くした女性を繊細に描くとともに、男性が作った根深いルールに従わない者を絡めとる“家父長制度”に迫っています」と説明。「監督は、国の歴史の重荷を抱えるヴェラの物語を巧みに舵取りしています。その歴史の重荷は、静かに、狡猾にも、社会を変えようとする者に“暴力”の脅威を与えます。演出、力強い演技、撮影が、自信に満ちた深い形によって、集合的な衝突を生み出していました。この映画は、勇気あるコソボの新世代女性監督によって、素晴らしい作品群の1本に加わりました」と称賛していた。

■また、女性が描かれる作品として『ヴェラは海の夢を見る』『市民』『もうひとりのトム』を例に出したユペール。「これら3作品の主人公たちは、途方もない苦境、腐敗、犯罪、暴力、虐待、ネグレクトに直面します。どの映画でも社会制度、社会全体――人々を抑圧し続ける過去のレガシーを見せています。それでありながら、非常に特徴的なのは、3作品の主人公は“被害者として描かれていない”ということ。ひとりひとりが敵を見極め、対峙できるようになっています。戦いの勝敗に関わらず、3作品は未来に目を向けている。

Information:

Vera Dreams of the Sea[Vera Andrron Detin]

監督:カルトリナ・クラスニチ
キャスト:テウタ・アイディニ・イェゲニ、アルケタ・スラ、アストリッド・カバシ
87分/カラー/アルバニア語/日本語・英語字幕/2021年/コソボ北マケドニアアルバニア

2021.tiff-jp.net

 

Info 『ボストン市庁舎』[ワイズマン監督 x 想田和弘監督対談]「キネマ旬報」掲載のお知らせ

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ボストン市庁舎の内部に入り込み、「市民のためにはたらく市政」とマーティン・ウォルシュ市長(当時)にカメラを向けた『ボストン市庁舎』が公開となるフレデリック・ワイズマン監督、そしてワイズマン作品から多大な影響を受けたと語る想田和弘監督のZOOM対談が行われ、「訳・構成・文」として参加しました。

ボストン生まれのワイズマン監督から個人的に感じてる”イナセな職人気質”。というのは、こうと決めたらテコでも動かない一徹さ(それは映画を撮るための「契約」の話にも伺える)、自らマイクを持って撮影現場で走り回るフットワークと、「その瞬間」を逃したくなくてじっと待っている忍耐力が示している。そんな重労働な撮影を50年以上、91歳のいまも精力的にこなしている。

方や「僕の作品はあなたの作品に多大な影響を受けている」とワイズマン監督をリスペクトする、ドキュメンタリー作家の想田和弘さんは、「あなたが映画を撮り続ける体力にはどんな秘密があるのですか」と切り込む。「観察映画」と呼ばれる想田監督のドキュメンタリーを観た方は共感していただけるかと思うのですが、語弊を恐れずに表すなら、なかなか「しつこい」映画監督のひとりです。被写体を追いかけて「ここぞ」という時にはテコでも引き下がらない(ワイズマン流に似ています)。ダメだと言われても納得するまで食い下がる映画魂のかたまり。そんな想田さんが対談では、ワイズマン監督にジリジリと、言うなら、ボクサーが相手をリングのコーナーに追い詰めていく、まさにそんな感じがしたインタビュー現場を、息を潜めながら目の当たりにしました。「これぞドキュメンタリー作家」だと、改めてその鋭い切り込み方に震えました。もちろんワイズマン監督はその独特のクールなユーモアを持って穏やかに和やかに応えながらも、なんだか凄い「嵐」が吹き抜けたような(決して喧嘩のような雰囲気ではなく)感覚がわたしの中に残りました。

残念ながら字数制限のためにその一部始終を掲載できないのですが、想田監督は存分にワイズマン監督の「映画の流儀」の秘技を引き出しきったと思ったのでした。

ぜひARASHI"Record of Memories”の美しいブルーの表紙の「キネマ旬報」11月下旬号でチェックしてください。映画『ボストン市庁舎』もお見逃しなく。

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Information: 

『ボストン市庁舎』City Hall
監督: フレデリック・ワイズマン製作: フレデリック・ワイズマン、カレン・コニーチェ
2020年/アメリカ/4時間34分
配給: ミモザフィルムズ、ムヴィオラ

2021年11月12日(金)より、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほか全国ロードショー

cityhall-movie.com

Review 59『リスペクト』

ソウルの女王、アレサ・フランクリンを描く音楽ドラマ

文・フジカワPAPA-Q

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(C)2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

米国の「ローリング・ストーン」が9月に発表した「歴代最高の500曲」というランキングで第1位に輝いた曲は、ソウルの女王、アレサ・フランクリン(1942年3月25日、メンフィス~2018年8月16日、デトロイト)が歌う「リスペクト」(1967年発表)だ。そして、アレサの映画といえば、ゴスペル記録映画『アメイジング・グレイス』に続くのが、この『リスペクト』という伝記ドラマ。主演は、アレサ本人が指名した、1981年シカゴ生まれの歌手で女優のジェニファー・ハドソン。子供の頃から教会のゴスペル隊や劇団に参加し、映画デビューの2006年の『ドリームガールズ』でアカデミー賞助演女優賞、歌手として2008年に初アルバムを出している。

映画は、バプティスト派の著名な説教師の父親のもと歌の神童と呼ばれた少女時代から始まり、1961年からコロンビア・レコード(制作者ジョン・ハモンド)でアルバムを出すもヒットに至らず…。66年にアトランティック・レコード(制作者ジェリー・ウェクスラー)に移籍、アラバマ州マスル・ショールズのフェイム・スタジオに行って、現地の腕利きミュージシャンと南部のR&Bサウンドを導入して録音(この場面は最高!)、1967年発表の『貴方だけを愛して』(「リスペクト」も収録)が大ヒットしてソウル歌姫が誕生する。そして、ソウルの貴婦人として世界的に活躍し、原点確認となる1972年のゴスペルのライヴの場面も出てくる。

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(C)2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

アレサの歌は、当時の公民権運動、女性解放運動とも共振し、マイノリティへの普遍性を持つ応援歌ともなった。一方、私生活では父親の束縛、夫のDVに苦しむが、やはり歌う事によって自分を自由にする、救うと確信して、音楽の道を進んで行く。南アフリカ出身の女性監督リーズル・トミーは「世界で最も素晴らしい声を持ちながら、その声が何であるかをまだ知らない女性の話を語りたいと思った」と発言している。比類なき声を持つ一人の歌手の歌に耳を傾けよう。なお、ジェニファーが歌うサントラ盤には劇中に流れる18の名曲が収められ、アレサの歌が現代にアップデートされており必聴だ。

Information:

監督:リーズル・トミー
キャスト:ジェニファー・ハドソンフォレスト・ウィテカーマーロン・ウェイアンズオードラ・マクドナルド、ほか

原題:Respect
配給:ギャガ
2021年製作/146分/G/アメリ

2021年11月5日(金)TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー

realtokyocinema.hatenadiary.com

Interview 015 吉開菜央さん(『Shari』監督・出演)

あわよくば、私の吠える声がオホーツク海に届いてほしいと思った

取材・文:福嶋真砂代

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

知床・斜里で撮影した初長編監督映画『Shari』が公開となる吉開菜央さんにインタビューした。ダンサー、振付家、映画監督と幅広い活動をする吉開さんに伺ったのは、斜里での濃厚な経験と撮影時の心境など。以前、恵比寿映像祭(20192月)のトークイベント「ポストドキュメンタリーをめぐって」(桂英史<メディア研究>×諏訪敦彦<映画監督>)を聴講したとき、吉開さんの映像作品を紹介しながら、もし知らない人がいたら米津玄師「Lemon」のMVを見てね、と桂教授は付け加えた。自然体でありながら、観る人の細胞を震わすような、縦横無尽に動き回る肉体の不思議に釘付けになった。“ポストドキュメンタリー”とはいかなるものかよくわからない。でも理論を越えてその可能性と親近感をこの映画に感じる。新しい次元へと進化する映画の未来の匂いがするのだ。(RealTokyoにレビューを書きました。そちらもぜひチェックして下さい。)

身体がギュルギュルになる感じ

ーー『Shari』のポスタービジュアルの赤いやつインパクトが強く、さらに知床と言えば石川直樹さんが撮影するという豪華さ。石川さんと言えば「まれびと」(※1)もやはり想起されます。まずは石川さんとの出会いを伺いたいのですが、斜里町であった<写真ゼロ番地 知床>というプロジェクトに招かれたのですね。

石川さんと私の共通の友人がいて、その友人を経由してよくお話も伺っていたし『ほったまるびより』や『Grand Bouquet』、『静坐社』の展示などを石川さんが観ておもしろいと思って下さったらしいです。わたしも石川さんの個展を観て「すごくよかった」とつぶやいたら、ご本人が私のツイートに気づいてくれたり。そこから石川さんのラジオ番組に招いて下さった、というのがそもそもの出会いです。ラジオでは石川さんの旅の話や、私も旅をして、その土地ならではのエピソードをとりいれて作品を作るのでそんな話とか。お互いに写真と映画にできることって違うけれど、少し似た部分もあるし、それぞれ憧れがある」と言い合うような対談をしました。

ーーなるほど。そして吉開さんは知床を訪れて、しばらく滞在したのですか?

2019年の夏、一週間ほど滞在してシナハン(シナリオハンティング)をしました。斜里の方々とおしゃべりしたり、鹿の屠殺現場を見せてもらったり、漁船に乗ったり。役場の方もがっつり関わってくれたので、普通の観光ではなかなか行けない場所に連れて行ってもらいました。

ーー何かエスみたいな感じですね。

そのときはいろいろ受け止めるのが精一杯で、頭も身体もぐちゃぐちゃで疲労困憊でした。ある日、鹿肉を食べて眠れない夜があって、ただそれはプレッシャーもあり、テーマもいろいろあり、今回は映画を撮ろうと決めていたので、アイデアが渦巻いていました。

ーー「鹿肉を食べて眠れなくなる」という体験が映画のコアにあることがおもしろいです。獣の血が身体の中に入って何かザワザワするみたいな感じだろうかと想像しました。

ある意味、心身両サイドですね。つまり、「映画を撮れるかな」ということがひとつあって、個性豊かなおもしろい方ばかりにお会いして、そのすべてに全力で返しつつ、一緒に作れるという喜びと同時に、皆さんの期待を裏切れない、超えたい、驚かせたいと思うプレッシャーも。それに加えて野生の鹿肉の血が入ってきて、「身体がギュルギュルになる」っていう感じでした。

ーーカオスですね。

カオスでしたね(笑)。なんというか、ずっと覚醒状態でした。

最初に「リズム」が浮かんだ

ーーでもそこで作品の糸口が見つかったのですね。

最初に「リズム」が思い浮かぶ感じです。赤いやつがいて、パンを食べたらキーンと鈴が鳴ってバーンと銃声が響くみたいな感じ。そのあとはまだ思い浮かばなくて。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

ーーメーメーベーカリーさんが、焼いたパンを赤い風呂敷に包み、それを雪の中に置くと、赤いやつが食べに来るという、可愛らしいストーリーがありましたね。

はい、そのあと撃たれて、雪の上に赤い血のようなものが散る、まで思いついた感じです。

ーー撃たれた。

赤いやつが撃たれたかもしれない、という感じに見せたいと思ってました。

ーー赤いやつのモコモコしたフォルムはいつごろできたのですか?

いつも企画のプレゼンテーションをするとき、紙芝居にナレーションをつけて、こういう映像を撮りたいと提示するのですが、そのときになんとなくヒトガタの、でもそのときはこんなにモコモコしてなくて、もう少しツルツルしていたけど、ヒトガタの赤いものみたいなイメージができてました。

ーー極太羊毛で編んでいってあの「モコモコ」が出来上がったのですね。資料には「鹿の血」が交ざっていると書いてありました。

ちょっと交ざってます。「鹿の生き血をなんとか手に入れて下さい」と役場の三島さんにお願いして、「エゾシカファーム」に協力していただけました。そこでは毎週月曜日に鹿を屠殺していて、その血を500mlだけいただいて。

ーーモコモコには500mlの血が入っている。

メーメーベーカリーの小和田(コワダ)さんが飼っている羊の毛の余っている分を少し染めさせてもらって、それも織り込んでいます、全部ではないのですが。

ーーかなりの大作ですが、これ1体しかないのですか?

はい、あの1体だけです。

ドッキリをやるつもりはなかったが……

ーー子どもたちに追いかけられて毟られるという過酷なシーンがありましたね。

そう、これ(チラシの写真)は、ズタボロにされる前に撮れた「奇跡の一枚」なんです。撮影2日目に子どもたちとの相撲シーンだったので、すぐにボロボロになりました(笑)。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

ーー子どもたちが真剣に飛びかかってきたときの心境はどんなでしたか?

いや、スゴかったです。じつはボコボコにされるシーンはカットしたのですが、実際には赤いやつは最終的にはボロボロになりました。みんな敵のように見える赤いやつに襲い返してきて。でも中の人は私だとバラすわけにはいかないので、なんとか赤いやつを演じながら、「ウォー」と吠えてみたりいろいろしてました。音楽の松本さんが、私の「ウォー」とか「ハアハア」という声をマイクで聴きながら、痛々しくて「泣いた」って言ってました。ちょっとまわりが心配するレベルだったみたいです。でも私はあとから思い返して、「おもしろい体験だったな」と思ってます。

ーー予期せずに背後の舞台の上から赤いやつが「ウォー」って現れて襲ってくるという恐怖感、ホラーな感じがすごく現れていました。あのシーンはなんとも言えないドキュメンタリー性を感じました。

最初はドッキリにするつもりはなかったんです。「どうやって相撲大会に赤いやつが入ればいいんだろうね」って撮影隊で話し合っているとき、リアルな反応を撮るには、事前に言わずにいきなり撮る、つまり演技ではなく「ドッキリで撮る」しかないのじゃないかとなって。ロケハンで、「ここに舞台があるから、この前で集合写真を撮って、みんなが前を向いているときに後ろから現れるのがいいんじゃない?」というイメージを見つけて、ああいうシーンになった感じです。

ーー今回の撮影チームは、石川直樹さん、松本一哉さん、渡辺直樹さんですね。渡辺さんは、子どもたちのシーンの指導もしてたんですね。

渡辺さんは助監督として全般を見てくれました。相撲シーンだけじゃなくて、毎日の香盤を組んだり、ロケ地との交渉や撮影がうまく運ぶように根回ししたり、渡辺さんがいなかったらきっと撮れなかったと思います。

ーー松本さんが「秘宝館」で突然のインタビューを始めて、そのイレギュラー感というか自由な感じもおもしろかったですが、なにより松本さんの音楽の虜になりました。

松本さんは、凍った湖の上にドラとか楽器を運んでいって、氷の下に水中マイクをさして、氷がピシピシ解ける音とまわりの環境音とセッションしながら演奏する、一発録音するようなシリーズのアルバムを出されてます。だから水とか氷の音のような自然音との共演というか、そのフィールドでは私の知る限り「日本一」だと思う、すごく好きな音楽家さんなんです。『Shari」をやるなら流氷が来るし、松本さんだろうなと思ってお願いしたら、二つ返事で「知床は憧れの土地だったんですよ!」って。撮影の合間には「ちょっと録音してきていいですか?」って個人的な録音をしに行ってました(笑)。彼は『Shari』をきっかけに、継続して斜里で音楽活動をされてます。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa
『内臓のはたらきと子どものこころ』につながる感覚とは

ーーちょっと『Shari』から離れますが、吉開さんの映像を観ていると、解剖学者の三木成夫さんの『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書房)が思い出されます。例えば『ほったまるびより』のお風呂のシーンの、体内の水と海の水の波動が繋がっていて、地球と身体がつながっていると感じるところとかです。

わあ、うれしい! 『ほったまるびより』を撮るときに三木さんの本はすごく読んでいました。ちょうどその頃、田中泯さんのインタビューに同席させてもらって、ぜんぶは理解できなかったけれど、泯さんの言葉に触れると無意識下にはあったけどまだうまく言語化できなかったことに気づかせてくれる感じがありました。「脳みそじゃなくて、内臓か」みたいな、それを「もともと私も感じていたな」とか思ったんです。私はもともとローザス(ベルギーのダンスカンパニー)のダンスが好きで、「かたち、かたち、フォルマリズム!」って思ってたんですが、何かそれだけじゃないなあと探っていたときに、泯さんのお話を聞いて、そのときに三木さんの話がでたかなと思います。皮膚とか内臓に意識が行くようになって、『ほったまるびより』ができたみたいなところはありました。

ーーなるほど! 以前、田中泯さんに(『ウミヒコ ヤマヒコ マイヒコ』のインタビューで)、いちばん伺ったのは、舞っている時に意識はどこにあるのですかということでした。泯さんは「すごく全部見てるよ」と。観客としては、踊りにすごく集中してどこか意識は浮遊しているのかなと思っていたのですが、そうではなくて「現実世界をすごく感じながら舞っています」とおっしゃっていたんです。

その感覚あります。私の場合、カメラや映像や編集機などを媒介にして、いろんなものが自分と繋がりはじめる、意識しはじめる感覚です。言葉にするとすごく飛んだように聞こえるかもしれないですが、「わたしが拡大されていくこと、それが踊りだな」ってすごく感じるようになりました。

ーーそれは「つながる」瞬間がやってくるのか、またはいつもそう感じているのか、徐々にそこに近づいて行く感じか、どういうタイミングなのでしょう。

私の場合は、例えば舞台でパフォーマンスをするときは、いろんなものが見えてるという感じなのですが、でも映像の場合は、1回きりではなくて、構想、撮影、編集、完成、ポスプロと、いろんな段階を経るごとにいろんなものとの混ざり合い、転がる雪玉みたいに「ぐちゃぐちゃぐちゃ」と繋がるものがどんどん膨れあがって来るという感じです。『Shari』の場合は、最終的に63分という短さですが、いままで経験したいろんなことがつぶつぶになって入っちゃってるな、みたいな感じです。

ーーいろんなものが入って、つまり受けとり過ぎて苦しくなることはないですか。

それらが「映像」となって体外に出せているので、そんなに苦しくはなくて、むしろそのつながりを見つけて「出していく」のがおもしろい。客観的に引いてみれば、ボコボコいろんなものをつけちゃって、お客さんは大丈夫かな、ついてこれるかなとは思うんですが……(笑)。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

「赤いやつ」はちょっと弱くて、身近な存在

ーー「赤いやつ」は、顔が見えないのに、雪景色のなか灯台に寄り掛かるところなど、すごく感情や表情が伝わる気がして、不思議ないきものだなと思いました。「まれびと」のこととか、赤いやつのことについて、石川さんとディスカッションしたのでしょうか。

じつは最初は石川さんの写真集『まれびと』のことは知らなくて、『Shari』を撮りに行く1ヶ月前に『まれびと』(小学館)を知って、すぐに買って読んだら、「これだ、これだ、これはすごくやりたいことだ。でも『まれびと』は土地の歴史やいろんなものが長い時間をかけてこれだけのおぞましい異形ができているのに、私が一朝一夕にこんなのつくりたいと思ってもできそうにないな」と思ったのだけど、石川さんはすごくおもしろがってくれました。「赤いやつ」を町民のみなさんと作っていたら、完成直前に「これ、目を出さないほうがいい」とアドバイスしてくれて、出来上がりを見て「すごくいいね」って言ってくれました。

ーー石川さんの写真集に出てくるまれびとはかなり怖いですね。

すごいですよね、一枚の写真だけでその時の霊気を感じさせるという。

ーーはい、でも「赤いやつ」はかわいい。

というかちょっと弱いんです、身近というか。でもそれも含めて「赤いやつ」かなと。

ーー赤いやつが脱皮するみたいに脱いで「吠える」シーンは圧倒的でした。あの「雄叫び」は気持ちの発露だったのでしょうか。

なんで出たんだろう? なんとなくやらないといけないシーンだなあって撮影をはじめてから思い始めて。最初のうちは渡辺さんにもそのことを、つまり脱いで背中が見えて、ということを伝えていませんでした。あの場所は、じつは石川さんのとっておきの場所なんです。「そこがいいよ」ということになって撮りに行って、「やっぱりわたし裸になりたいですけど」と言って。たぶんみんな「この人は何をやるのかな」と思って見ていて、「あ、脱いで叫んでる」みたいな。なんでそれをしたのか……。これは本当に感覚的なところで、うまく言語化できなくて申し訳ないのですが、「そうするのがしっくりくる、自分のなかでラストとして腑に落ちるな」と撮りながら、「あわよくば、私の吠える声がオホーツク海に届いて流氷が来ればいい」と思ってたんです。でもそんな奇跡は起こらなくて、人ひとりが叫んだところで、世界なんて変わらなくて、むしろその年、流氷は来るのがめちゃくちゃ遅くて、さらに南極では史上最高気温も記録したし、現実はおとぎ話のような、めでたしめでたしのラストにはなっていなくて、むしろ気候変動にまつわる人間の業みたいなものを感じざるを得ないです。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

ーー「私のせいで、異常気象を呼んでしまったかも。新型コロナウィルスを呼んでしまったかも」と吐露していますね。自分の中に「世界」を内包しているというのか、外在化しないで内在化するような感覚機能がすごくあると想像しました。

いえいえ、そんなことないです。ごくごく普通の感覚しかないですけど、映像をやっていると、何回も同じ映像、同じ音を聴くので、そういうものをキャッチする体質に少しずつなってきたかもしれないです。そこまで私が繊細だとは全く思わないのですが……

ーーそれから「境界線」がよく語られました。空気と水の間とか、意識の境界とか、眠る眠れないの境界線とかをよく意識して生活していますか?

境界を、つまり点と点に行き過ぎてしまう、極端に。間にとどまれない、そんなところがあって。こっちにいたときこっちのことを思い出して(両手を広げて)、こっちに行かなきゃと、その逆もあり、その両極端を行き来する波でなんとか生きてこれた感じがして、それで「時間」ができているという感覚があります。

ーーああ、三木成夫さんの著書にも「すべてには波、周期があり、その波はすでに細胞の原形質のレベルで決まったもの」(『胎児の世界-人類の生命記憶』中公新書)というようなことが書いてありました。極から極へ行くうちに「時間」を作る、ということはそういうことかなと今ふと思いました。

そういう感覚に、映像をやりはじめてから気づくようになりました。映像も時間芸術なのでリズムを作るというか、繰り返しの「波」が出てくるんですね。もともと私がダンスをしていたからそういうものに気を惹かれやすいのもあるのかも。音も空気の「波」でできているし、音楽は繰り返しのフレーズが出てきてメロディができる、波のちからは同じように見えるけど違うことを繰り返しながら続いていく、だから「前に進める」みたいな力があるところは、すごく自分の作品とも結びつくように思います。

ーーなるほど、すごくおもしろいです。ありがとうございました。

1)まれびと=折口信夫が定義した、異界からまれに訪れる神的存在のこと。石川直樹の写真集「まれびと」(小学館)では、秋田の「なまはげ」をはじめ、日本全国「来訪神」にまつわる行事や儀式を丁寧に取材している。(『Shari』プレス資料より)

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@realtokyocinema

Information:

2021年/ビスタ/5.1ch/カラー/日本/63分
監督・出演:吉開菜央/撮影:石川直樹
出演:斜里町の人々、海、山、氷、赤いやつ
助監督:渡辺直樹/音楽:松本一哉/音響:北田雅也/アニメーション:幸洋子
配給・宣伝:ミラクルヴォイス

2021年1023日(土)ユーロスペースアップリンク吉祥寺他全国順次公開