REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Interview 015 吉開菜央さん(『Shari』監督・出演)

あわよくば、私の吠える声がオホーツク海に届いてほしいと思った

取材・文:福嶋真砂代

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

知床・斜里で撮影した初長編監督映画『Shari』が公開となる吉開菜央さんにインタビューした。ダンサー、振付家、映画監督と幅広い活動をする吉開さんに伺ったのは、斜里での濃厚な経験と撮影時の心境など。以前、恵比寿映像祭(20192月)のトークイベント「ポストドキュメンタリーをめぐって」(桂英史<メディア研究>×諏訪敦彦<映画監督>)を聴講したとき、吉開さんの映像作品を紹介しながら、もし知らない人がいたら米津玄師「Lemon」のMVを見てね、と桂教授は付け加えた。自然体でありながら、観る人の細胞を震わすような、縦横無尽に動き回る肉体の不思議に釘付けになった。“ポストドキュメンタリー”とはいかなるものかよくわからない。でも理論を越えてその可能性と親近感をこの映画に感じる。新しい次元へと進化する映画の未来の匂いがするのだ。(RealTokyoにレビューを書きました。そちらもぜひチェックして下さい。)

身体がギュルギュルになる感じ

ーー『Shari』のポスタービジュアルの赤いやつインパクトが強く、さらに知床と言えば石川直樹さんが撮影するという豪華さ。石川さんと言えば「まれびと」(※1)もやはり想起されます。まずは石川さんとの出会いを伺いたいのですが、斜里町であった<写真ゼロ番地 知床>というプロジェクトに招かれたのですね。

石川さんと私の共通の友人がいて、その友人を経由してよくお話も伺っていたし『ほったまるびより』や『Grand Bouquet』、『静坐社』の展示などを石川さんが観ておもしろいと思って下さったらしいです。わたしも石川さんの個展を観て「すごくよかった」とつぶやいたら、ご本人が私のツイートに気づいてくれたり。そこから石川さんのラジオ番組に招いて下さった、というのがそもそもの出会いです。ラジオでは石川さんの旅の話や、私も旅をして、その土地ならではのエピソードをとりいれて作品を作るのでそんな話とか。お互いに写真と映画にできることって違うけれど、少し似た部分もあるし、それぞれ憧れがある」と言い合うような対談をしました。

ーーなるほど。そして吉開さんは知床を訪れて、しばらく滞在したのですか?

2019年の夏、一週間ほど滞在してシナハン(シナリオハンティング)をしました。斜里の方々とおしゃべりしたり、鹿の屠殺現場を見せてもらったり、漁船に乗ったり。役場の方もがっつり関わってくれたので、普通の観光ではなかなか行けない場所に連れて行ってもらいました。

ーー何かエスみたいな感じですね。

そのときはいろいろ受け止めるのが精一杯で、頭も身体もぐちゃぐちゃで疲労困憊でした。ある日、鹿肉を食べて眠れない夜があって、ただそれはプレッシャーもあり、テーマもいろいろあり、今回は映画を撮ろうと決めていたので、アイデアが渦巻いていました。

ーー「鹿肉を食べて眠れなくなる」という体験が映画のコアにあることがおもしろいです。獣の血が身体の中に入って何かザワザワするみたいな感じだろうかと想像しました。

ある意味、心身両サイドですね。つまり、「映画を撮れるかな」ということがひとつあって、個性豊かなおもしろい方ばかりにお会いして、そのすべてに全力で返しつつ、一緒に作れるという喜びと同時に、皆さんの期待を裏切れない、超えたい、驚かせたいと思うプレッシャーも。それに加えて野生の鹿肉の血が入ってきて、「身体がギュルギュルになる」っていう感じでした。

ーーカオスですね。

カオスでしたね(笑)。なんというか、ずっと覚醒状態でした。

最初に「リズム」が浮かんだ

ーーでもそこで作品の糸口が見つかったのですね。

最初に「リズム」が思い浮かぶ感じです。赤いやつがいて、パンを食べたらキーンと鈴が鳴ってバーンと銃声が響くみたいな感じ。そのあとはまだ思い浮かばなくて。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

ーーメーメーベーカリーさんが、焼いたパンを赤い風呂敷に包み、それを雪の中に置くと、赤いやつが食べに来るという、可愛らしいストーリーがありましたね。

はい、そのあと撃たれて、雪の上に赤い血のようなものが散る、まで思いついた感じです。

ーー撃たれた。

赤いやつが撃たれたかもしれない、という感じに見せたいと思ってました。

ーー赤いやつのモコモコしたフォルムはいつごろできたのですか?

いつも企画のプレゼンテーションをするとき、紙芝居にナレーションをつけて、こういう映像を撮りたいと提示するのですが、そのときになんとなくヒトガタの、でもそのときはこんなにモコモコしてなくて、もう少しツルツルしていたけど、ヒトガタの赤いものみたいなイメージができてました。

ーー極太羊毛で編んでいってあの「モコモコ」が出来上がったのですね。資料には「鹿の血」が交ざっていると書いてありました。

ちょっと交ざってます。「鹿の生き血をなんとか手に入れて下さい」と役場の三島さんにお願いして、「エゾシカファーム」に協力していただけました。そこでは毎週月曜日に鹿を屠殺していて、その血を500mlだけいただいて。

ーーモコモコには500mlの血が入っている。

メーメーベーカリーの小和田(コワダ)さんが飼っている羊の毛の余っている分を少し染めさせてもらって、それも織り込んでいます、全部ではないのですが。

ーーかなりの大作ですが、これ1体しかないのですか?

はい、あの1体だけです。

ドッキリをやるつもりはなかったが……

ーー子どもたちに追いかけられて毟られるという過酷なシーンがありましたね。

そう、これ(チラシの写真)は、ズタボロにされる前に撮れた「奇跡の一枚」なんです。撮影2日目に子どもたちとの相撲シーンだったので、すぐにボロボロになりました(笑)。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

ーー子どもたちが真剣に飛びかかってきたときの心境はどんなでしたか?

いや、スゴかったです。じつはボコボコにされるシーンはカットしたのですが、実際には赤いやつは最終的にはボロボロになりました。みんな敵のように見える赤いやつに襲い返してきて。でも中の人は私だとバラすわけにはいかないので、なんとか赤いやつを演じながら、「ウォー」と吠えてみたりいろいろしてました。音楽の松本さんが、私の「ウォー」とか「ハアハア」という声をマイクで聴きながら、痛々しくて「泣いた」って言ってました。ちょっとまわりが心配するレベルだったみたいです。でも私はあとから思い返して、「おもしろい体験だったな」と思ってます。

ーー予期せずに背後の舞台の上から赤いやつが「ウォー」って現れて襲ってくるという恐怖感、ホラーな感じがすごく現れていました。あのシーンはなんとも言えないドキュメンタリー性を感じました。

最初はドッキリにするつもりはなかったんです。「どうやって相撲大会に赤いやつが入ればいいんだろうね」って撮影隊で話し合っているとき、リアルな反応を撮るには、事前に言わずにいきなり撮る、つまり演技ではなく「ドッキリで撮る」しかないのじゃないかとなって。ロケハンで、「ここに舞台があるから、この前で集合写真を撮って、みんなが前を向いているときに後ろから現れるのがいいんじゃない?」というイメージを見つけて、ああいうシーンになった感じです。

ーー今回の撮影チームは、石川直樹さん、松本一哉さん、渡辺直樹さんですね。渡辺さんは、子どもたちのシーンの指導もしてたんですね。

渡辺さんは助監督として全般を見てくれました。相撲シーンだけじゃなくて、毎日の香盤を組んだり、ロケ地との交渉や撮影がうまく運ぶように根回ししたり、渡辺さんがいなかったらきっと撮れなかったと思います。

ーー松本さんが「秘宝館」で突然のインタビューを始めて、そのイレギュラー感というか自由な感じもおもしろかったですが、なにより松本さんの音楽の虜になりました。

松本さんは、凍った湖の上にドラとか楽器を運んでいって、氷の下に水中マイクをさして、氷がピシピシ解ける音とまわりの環境音とセッションしながら演奏する、一発録音するようなシリーズのアルバムを出されてます。だから水とか氷の音のような自然音との共演というか、そのフィールドでは私の知る限り「日本一」だと思う、すごく好きな音楽家さんなんです。『Shari」をやるなら流氷が来るし、松本さんだろうなと思ってお願いしたら、二つ返事で「知床は憧れの土地だったんですよ!」って。撮影の合間には「ちょっと録音してきていいですか?」って個人的な録音をしに行ってました(笑)。彼は『Shari』をきっかけに、継続して斜里で音楽活動をされてます。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa
『内臓のはたらきと子どものこころ』につながる感覚とは

ーーちょっと『Shari』から離れますが、吉開さんの映像を観ていると、解剖学者の三木成夫さんの『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書房)が思い出されます。例えば『ほったまるびより』のお風呂のシーンの、体内の水と海の水の波動が繋がっていて、地球と身体がつながっていると感じるところとかです。

わあ、うれしい! 『ほったまるびより』を撮るときに三木さんの本はすごく読んでいました。ちょうどその頃、田中泯さんのインタビューに同席させてもらって、ぜんぶは理解できなかったけれど、泯さんの言葉に触れると無意識下にはあったけどまだうまく言語化できなかったことに気づかせてくれる感じがありました。「脳みそじゃなくて、内臓か」みたいな、それを「もともと私も感じていたな」とか思ったんです。私はもともとローザス(ベルギーのダンスカンパニー)のダンスが好きで、「かたち、かたち、フォルマリズム!」って思ってたんですが、何かそれだけじゃないなあと探っていたときに、泯さんのお話を聞いて、そのときに三木さんの話がでたかなと思います。皮膚とか内臓に意識が行くようになって、『ほったまるびより』ができたみたいなところはありました。

ーーなるほど! 以前、田中泯さんに(『ウミヒコ ヤマヒコ マイヒコ』のインタビューで)、いちばん伺ったのは、舞っている時に意識はどこにあるのですかということでした。泯さんは「すごく全部見てるよ」と。観客としては、踊りにすごく集中してどこか意識は浮遊しているのかなと思っていたのですが、そうではなくて「現実世界をすごく感じながら舞っています」とおっしゃっていたんです。

その感覚あります。私の場合、カメラや映像や編集機などを媒介にして、いろんなものが自分と繋がりはじめる、意識しはじめる感覚です。言葉にするとすごく飛んだように聞こえるかもしれないですが、「わたしが拡大されていくこと、それが踊りだな」ってすごく感じるようになりました。

ーーそれは「つながる」瞬間がやってくるのか、またはいつもそう感じているのか、徐々にそこに近づいて行く感じか、どういうタイミングなのでしょう。

私の場合は、例えば舞台でパフォーマンスをするときは、いろんなものが見えてるという感じなのですが、でも映像の場合は、1回きりではなくて、構想、撮影、編集、完成、ポスプロと、いろんな段階を経るごとにいろんなものとの混ざり合い、転がる雪玉みたいに「ぐちゃぐちゃぐちゃ」と繋がるものがどんどん膨れあがって来るという感じです。『Shari』の場合は、最終的に63分という短さですが、いままで経験したいろんなことがつぶつぶになって入っちゃってるな、みたいな感じです。

ーーいろんなものが入って、つまり受けとり過ぎて苦しくなることはないですか。

それらが「映像」となって体外に出せているので、そんなに苦しくはなくて、むしろそのつながりを見つけて「出していく」のがおもしろい。客観的に引いてみれば、ボコボコいろんなものをつけちゃって、お客さんは大丈夫かな、ついてこれるかなとは思うんですが……(笑)。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

「赤いやつ」はちょっと弱くて、身近な存在

ーー「赤いやつ」は、顔が見えないのに、雪景色のなか灯台に寄り掛かるところなど、すごく感情や表情が伝わる気がして、不思議ないきものだなと思いました。「まれびと」のこととか、赤いやつのことについて、石川さんとディスカッションしたのでしょうか。

じつは最初は石川さんの写真集『まれびと』のことは知らなくて、『Shari』を撮りに行く1ヶ月前に『まれびと』(小学館)を知って、すぐに買って読んだら、「これだ、これだ、これはすごくやりたいことだ。でも『まれびと』は土地の歴史やいろんなものが長い時間をかけてこれだけのおぞましい異形ができているのに、私が一朝一夕にこんなのつくりたいと思ってもできそうにないな」と思ったのだけど、石川さんはすごくおもしろがってくれました。「赤いやつ」を町民のみなさんと作っていたら、完成直前に「これ、目を出さないほうがいい」とアドバイスしてくれて、出来上がりを見て「すごくいいね」って言ってくれました。

ーー石川さんの写真集に出てくるまれびとはかなり怖いですね。

すごいですよね、一枚の写真だけでその時の霊気を感じさせるという。

ーーはい、でも「赤いやつ」はかわいい。

というかちょっと弱いんです、身近というか。でもそれも含めて「赤いやつ」かなと。

ーー赤いやつが脱皮するみたいに脱いで「吠える」シーンは圧倒的でした。あの「雄叫び」は気持ちの発露だったのでしょうか。

なんで出たんだろう? なんとなくやらないといけないシーンだなあって撮影をはじめてから思い始めて。最初のうちは渡辺さんにもそのことを、つまり脱いで背中が見えて、ということを伝えていませんでした。あの場所は、じつは石川さんのとっておきの場所なんです。「そこがいいよ」ということになって撮りに行って、「やっぱりわたし裸になりたいですけど」と言って。たぶんみんな「この人は何をやるのかな」と思って見ていて、「あ、脱いで叫んでる」みたいな。なんでそれをしたのか……。これは本当に感覚的なところで、うまく言語化できなくて申し訳ないのですが、「そうするのがしっくりくる、自分のなかでラストとして腑に落ちるな」と撮りながら、「あわよくば、私の吠える声がオホーツク海に届いて流氷が来ればいい」と思ってたんです。でもそんな奇跡は起こらなくて、人ひとりが叫んだところで、世界なんて変わらなくて、むしろその年、流氷は来るのがめちゃくちゃ遅くて、さらに南極では史上最高気温も記録したし、現実はおとぎ話のような、めでたしめでたしのラストにはなっていなくて、むしろ気候変動にまつわる人間の業みたいなものを感じざるを得ないです。

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©2020 吉開菜央 photo by Naoki Ishikawa

ーー「私のせいで、異常気象を呼んでしまったかも。新型コロナウィルスを呼んでしまったかも」と吐露していますね。自分の中に「世界」を内包しているというのか、外在化しないで内在化するような感覚機能がすごくあると想像しました。

いえいえ、そんなことないです。ごくごく普通の感覚しかないですけど、映像をやっていると、何回も同じ映像、同じ音を聴くので、そういうものをキャッチする体質に少しずつなってきたかもしれないです。そこまで私が繊細だとは全く思わないのですが……

ーーそれから「境界線」がよく語られました。空気と水の間とか、意識の境界とか、眠る眠れないの境界線とかをよく意識して生活していますか?

境界を、つまり点と点に行き過ぎてしまう、極端に。間にとどまれない、そんなところがあって。こっちにいたときこっちのことを思い出して(両手を広げて)、こっちに行かなきゃと、その逆もあり、その両極端を行き来する波でなんとか生きてこれた感じがして、それで「時間」ができているという感覚があります。

ーーああ、三木成夫さんの著書にも「すべてには波、周期があり、その波はすでに細胞の原形質のレベルで決まったもの」(『胎児の世界-人類の生命記憶』中公新書)というようなことが書いてありました。極から極へ行くうちに「時間」を作る、ということはそういうことかなと今ふと思いました。

そういう感覚に、映像をやりはじめてから気づくようになりました。映像も時間芸術なのでリズムを作るというか、繰り返しの「波」が出てくるんですね。もともと私がダンスをしていたからそういうものに気を惹かれやすいのもあるのかも。音も空気の「波」でできているし、音楽は繰り返しのフレーズが出てきてメロディができる、波のちからは同じように見えるけど違うことを繰り返しながら続いていく、だから「前に進める」みたいな力があるところは、すごく自分の作品とも結びつくように思います。

ーーなるほど、すごくおもしろいです。ありがとうございました。

1)まれびと=折口信夫が定義した、異界からまれに訪れる神的存在のこと。石川直樹の写真集「まれびと」(小学館)では、秋田の「なまはげ」をはじめ、日本全国「来訪神」にまつわる行事や儀式を丁寧に取材している。(『Shari』プレス資料より)

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@realtokyocinema

Information:

2021年/ビスタ/5.1ch/カラー/日本/63分
監督・出演:吉開菜央/撮影:石川直樹
出演:斜里町の人々、海、山、氷、赤いやつ
助監督:渡辺直樹/音楽:松本一哉/音響:北田雅也/アニメーション:幸洋子
配給・宣伝:ミラクルヴォイス

2021年1023日(土)ユーロスペースアップリンク吉祥寺他全国順次公開

Review 58『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』

忘れられた50年前のNYハーレムのフェスが今甦る

文・フジカワPAPA-Q

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© 2021 20th Century Studios. All rights reserved.

これは驚きだ!何と、50年以上も前に撮影されていた幻の音楽フェスの映像が遂に甦ったのだから。1969年の暑い夏、ウッドストック・フェスと同じ年に、NYマンハッタンのハーレムの公園で計6回開かれた無料イベントで、ブラック・パンサー党が警備を担当した「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」であった。その映像を映画化したのが、この『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』だ。副題は、ギル・スコット=ヘロンの1971年の名曲「革命はテレビ放送されない」に由来する。監督・製作総指揮を務めたのは、ヒップホップ・グループ、ザ・ルーツのドラマーでプロデューサーでDJのアミール “クエストラヴ” トンプソン。

映画に登場するのは、ソウルのスティーヴィー・ワンダー、チェンバース・ブラザーズ、フィフス・ディメンション、ステイプル・シンガーズ、デヴィッド・ラフィン、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、スライ&ザ・ファミリー・ストーン(写真)。ゴスペルのエドウィン・ホーキンス・シンガーズ、マへリア・ジャクソン、メイヴィス・ステイプルズ。ブルースのB.B.キング。ジャズのハービー・マン、ソニー・シャーロック、マックス・ローチアビー・リンカーンヒュー・マセケラニーナ・シモン。ラテンのモンゴ・サンタマリア、レイ・バレット。という豪華な顔ぶれにはスゴい!としか言い様がない。

そして、当時観客だった人々のインタビューや、シーラ・E、リン=マニュエル・ミランダ(映画『イン・ザ・ハイツ』原作と作詞作曲)のコメント等、現在からの視点で1969年夏の本質を炙り出す。暑い夏は暴動の季節でもあった訳だが、当時のNY市長ジョン・リンゼイも出演する大イベントでもあったので、実は暴動の抑止効果もあったという話も出てくる。更に、BLM運動等にも繋がる、過去・現在・未来を照射するという、監督の手腕は見事だ。今年のサンダンスで2つ受賞した。しかし、1回見ただけでは場面の細部が分からないよ!(個人的には、モンゴ・サンタマリアやレイ・バレットの場面にいる他のラテン音楽家は誰だ?とか悩ましい(笑)

Information:

原題:SUMMER OF SOUL (OR, WHEN THE REVOLUTION COULD NOT BE TELEVISED)
監督:アミール・“クエストラブ”・トンプソン
出演:スティーヴィー・ワンダーB.B.キングフィフス・ディメンション、ステイプル・シンガーズ、マヘリア・ジャクソン、ハービー・マン、デイヴィッド・ラフィン、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、モンゴ・サンタマリアソニー・シャーロック、アビー・リンカーンマックス・ローチヒュー・マセケラニーナ・シモンほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
  

2021年827日(金)全国公開

searchlightpictures.jp

Review 57『HHH:侯孝賢 デジタルリマスター版』 

オリヴィエ・アサイヤスにしか撮れない「侯孝賢」の素顔

文・福嶋真砂代

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(C) TRIGRAM FILMS, All rights reserved

フランスの映画監督オリヴィエ・アサイヤスが台湾の名匠監督ホウ・シャオシェン侯孝賢)に密着し、ホウ監督の映画制作への原動力とホウ・シャオシェンという人間の魅力を豊潤に解き明かす、なんと24年前(1997)に制作された衝撃のドキュメンタリーが公開となる(第20東京フィルメックス 特別招待作品フィルメックス・クラシック、また『台湾巨匠傑作選 2021 ホウ・シャオシェン大特集』にてプレミア上映された)。※本文中にネタバレ部分があります。できればご鑑賞後にお読みいただけるとよいかもしれません。

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(C) TRIGRAM FILMS, All rights reserved

映画作りのユニークさ(とりわけ肝の座り方が独特だと筆者は思う)のルーツ、「台湾ニューシネマ」の旗手と呼ばれ、その作品が長く世界に愛される理由がわかる意義深いドキュメンタリーである。では「台湾ニューシネマ」とは何だったのか。映画では、脚本家のウー・ニェンチェン(呉念眞)や批評家チェン・グオフー(陳国富)らへのインタビューにより、ムーブメントの誕生やホウ監督の立ち位置、時代的意味を俯瞰的に理解を深めることができる。

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(C) TRIGRAM FILMS, All rights reserved

アサイヤス監督の(フランスの映画批評誌<カイエ・デュ・シネマ>の映画ジャーナリストだった)鋭い嗅覚と、1984年から培ったふたりの長い友人関係ゆえに撮ることができた親密な映像で、あらためてホウ監督のあたたかい人間性に触れる。やんちゃな少年時代、映画監督の道を選んだ理由、ロケ地や縁の地を巡りながら、心おきなく自己について語るホウ監督の表情。兵役を経て映画館に通ううちに映画の魅力にとりつかれ、最初は俳優を目指していたこと、また歌への思い入れも深く、長渕剛の歌を熱唱する圧巻のカラオケシーンではチャーミングな人間味があふれ出る。

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(C) TRIGRAM FILMS, All rights reserved

『坊やの人形』(83)、『風櫃の少年』(83)、『冬冬の夏休み』(84)、『童年往事 時の流れ』(85)、『恋恋風塵』(87)、そして『悲情城市(89)と『戯夢人生』(93)、また『好男好女』(95)や『憂鬱な楽園』(96)についてのファン垂涎の秘話の数々。本ドキュメンタリーの撮影時はちょうど『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(98)の脚本を執筆中で、仕事場となっていた茶館に脚本家のチュウ・ティェンウェン(朱天文)も同席し、ふたりの出会いや彼女の小説を原作とした理由も知る。

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(C)Eric Gautier

興味深いのは、撮影のエリック・ゴーティエ(『イルマ・ヴェップ』撮影)の視線の先だ。台湾の田舎の風景や生活、また人々とホウ監督の微笑ましい交流にすかさずカメラを向ける。アサイヤス監督は「はじめての場所、はじめての知らない世界を発見する好奇心、ホウ・シャオシェン監督の世界観に対する視点を持っているところもよかった」と東京フィルメックスQ&Aで振り返る。音響のドゥー・ドゥージー(杜篤之)が、ホウ監督作品のおかげで録音技術を向上させることができたと語るレアなシーンもあり、それらすべてが明快で洗練された編集で紡がれていく。

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(C) TRIGRAM FILMS, All rights reserved

思えばこれまで、ホウ・シャオシェンチルドレンと呼ぶべき監督たちが、口々にホウ監督の魅力を語っていた。例えばホァン・シー監督(『台北暮色』)は「映画の具体的な何かというものより、もっと人間としてどうあるべきか、人に対してどう対応するべきかということを、監督のそばにいて知らず知らずのうちに身に着けて学ぶことが出来たと思います」と。またソン・ファン監督(『記憶が私を見る』)は『レッド・バルーン』に女優として出演したとき、「ホウ・シャオシェン組で一緒に仕事をして、彼の仕事の方法の空気を感じることができましたし、漠然とした何かを教わっていたのかもしれません」と振り返る。ああしろ、こうしろと細かいことは言わずに、そのイナセな「背中」で彼らに語っていたに違いない。

ドキュメンタリー終盤、ホウ監督は台湾の原始性について言及している。そこに「オス的なもの」を感じて、まさにそこに惹きつけられるのだと。陰湿な駆け引きのある政治世界よりも、義理人情のある男らしい世界に憧れていた。映画制作のプロセスとは自分を省みること。もう一度「原点に戻って新鮮な気持ちで映画を撮りたい」と語り、その熱情は『憂鬱な楽園』の若者たちの疾走シーンに重なっていく。

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(C) TRIGRAM FILMS, All rights reserved

1989年にヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞したホウ監督の代表作、「二・二八事件」を背景にした『悲情城市』では台湾の尊厳を撮りたかったと、九份の茶館で飲茶をしながら解説する。さらに歴史の生き証人リー・ティエンルー(李天祿)を描く『戯夢人生』(93)は中国にて初めて撮影が許可された作品だったのだと明かす。

やんちゃだった「アハ(ホウの少年時代の呼び名)」は激動の時代をつねに「台湾人」であることを意識して生きてきた。ドキュメンタリー中、台湾と香港、また香港を挟む中国との関係についてアサイヤス監督が問う。ホウ監督は、香港の中国返還後の台湾を予見し、その客観的な分析、洞察力に驚く。そしてまたドキュメンタリーが今、この時代に公開されることにゾクゾクするのだ。

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©realtokyocinema  / FILMex2019

Information:

撮影監督:エリック・ゴーティエ 編集:マリー・ルクール
出演:ホウ・シャオシェン侯孝賢)、チュウ・ティェンウェン(朱天文)、ウー・ニェンチェン(呉念真)、チェン・グオフー(陳国富)、ドゥー・ドゥージー(杜篤之)、ガオ・ジエ(高捷)、リン・チャン(林強)
原題:HHH:A portrait of Hou Hsiao Hsien  
提供・配給:オリオフィルムズ 配給協力:トラヴィス 宣伝:大福
フランス・台湾/1997年/DCP/ステレオ/ヴィスタ/92分
 
2021年9月25日(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次公開

Review 56『大地と白い雲』

もうひとつの「地平線」を探して

文・福嶋真砂代

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©️2019 Authrule(Shanghai)Digital Media Co.,Ltd,Youth Film Studio ALL Rights Reserved.

公開中の映画『大地と白い雲』の始まりがおもしろい。妻のサロールがバイクに乗り夫を探す。口々に「チョクト」が繰り返され、モンゴル人の名前の音感が耳に残る。「チョクトを見た?」「チョクト? 一緒に飲んだけどいつだったか」「チョクトからの小包だ」でもチョクトはいない。喜劇的なリズム感だ。こんなに探される(つまり愛されている)「チョクト」とはどんな男なんだろう。すると当人は呑気に寝そべってタバコを燻らせる......。雄大なモンゴルの自然を背景にユーモラスに描かれるこの冒頭シークエンスがたまらなく魅力的だ。この流れのなかに愉快な友人のバンバルとすれ違うサロールと男衆のシーン、「囲いを直しに!」というキーワードをサロールが言い放つ。それについては後半あらためて。

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©️2019 Authrule(Shanghai)Digital Media Co.,Ltd,Youth Film Studio ALL Rights Reserved.

主人公の夫婦、チョクトとサロールが暮らす内モンゴル自治区のフルンボイルは、見渡す限りの平原、視界には常に地平線があり、壮大に出入りする陽光を全身に浴びる。過酷なほどに地球を感じ、もしくは宇宙感覚をいつも持てる、そんな特別な環境なのだと、パノラマやドローン(おそらく)などのハイテク技術を駆使した映像が伝えてくれる。

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©️2019 Authrule(Shanghai)Digital Media Co.,Ltd,Youth Film Studio ALL Rights Reserved.

チョクトが考えごとをするときは、草原にクレーターのようにぽっかり空いた穴(ゴルフ場のバンカーのような)のフチに座り込む。そこには何があるのだろう(何かが到来したのか……)。馬はチョクトの隣でじっと待っている。こんなに特殊な場所で生まれ育ったチョクトは、時代の動きを感じる触覚を備えているのかもしれない。アンテナを張って、それを確かめようとする。都会への憧れとかそういう気持ちよりも強く、世界を見たい、識りたいと切望する。いっぽう妻のサロールは「私はここが好き。死んでも離れない」と頑として動かない。しかし草原で“馬追い”をやらせたら世界一、サロールが惚れ込む勇壮な夫は、異なる「地平線」を夢見る。「世界はこんなに広い、視野を広げるべきだ」と思う。生活の生命線である羊を怪しいディーラーに売ってまでも、ブリザードが吹き荒れる中、遠い道のりを歩き続けてもだ。だけど妻の妊娠には気づけない。夢と現実の距離は遠い。たとえドレスやスマートフォンのお土産で妻のご機嫌をとっても、夫婦間の「ズレ」はクレーターのごとく大きく育つ。そんなふたりはそれでも睦まじく、新しいスマホで気持ちを確かめ合う。

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©️2019 Authrule(Shanghai)Digital Media Co.,Ltd,Youth Film Studio ALL Rights Reserved.

チョクトがそんな冒険に出かけられるのは、「家」にサローラが待っているから。チョクトは痛いほどわかっている。それなのになぜチョクトは出かけていくのか? 哀しいかな、次に家に帰るときどうなるか、想像が及ばない......。

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©️2019 Authrule(Shanghai)Digital Media Co.,Ltd,Youth Film Studio ALL Rights Reserved.

とにかくキャスティングがすばらしい。モンゴル語を正しく話し、さらに生活感覚として放牧経験があることを基本として主役を探し続け、チョクト役には「馬追い」を自然にこなすジリムトゥ、そして民謡の歌い手でもある(その歌声は元ちとせを想起させる)サロール役のタナを起用した。ふたりはナチュラルかつリアリティのある演技で見事に応えている。ワン・ルイ監督はロウ・イエ等と同学年の”第6世代”にあたり、北京電影学院で教鞭をとっていたが本作で中国の監督賞として最高賞を受賞した。「羊飼いの女(放羊的女人)」(漠月)を原作とした本作は亡き妻に捧げられている。深読みすると、妻への愛情とともに、後悔や懺悔の思いも感じとれるように思う。

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さて冒頭、職人風の男衆を従え、さっそうと進むサロールが口にする「囲いを直しに」という言葉は象徴的だ。つまり、政策として伝統的な遊牧民の生活を廃止したことで「囲い」が出現した。しかしいつしかそれが綻び、遊牧民としてのアイデンティティを見失い、再び探し出す、という時代の流れを表しているかのように思える。羊にとって“境界線”などどうでもいいのと同様に、人間を「囲う」ことが可能なのかという疑問を投げかけているのではないだろうか。「この世のことは思うより簡単じゃない。どんな苦難にも逃げ出さずに向き合うことだ」という村の長老ボヤンが遺した深い言葉が心に響く。

追記:「クレーターのような穴」について本作宣伝の西晶子さんに伺いました。ワン・ルイ監督によると、「砂漠に突然現れるクレーターのような砂漠化した土地は、違法に採炭がなされ、草が生えなくなってしまった場所なのです。現地の人は“草原の傷”と呼んで、胸を痛めているそうです」とのこと。なるほど、チョクトの心に、この草原の傷の悲しみが染み込むのかもと想像を広げられました。

Information:

監督:ワン・ルイ(王瑞)
脚本:チェン・ピン(陈枰)
原作:「羊飼いの女」漠月
編集:ジョウ・シンシャ
音楽:ジン・シャン
出演:ジリムトゥ、タナ、ゲリルナスン、イリチ、チナリトゥ、ハスチチゲ

2019年/中国映画/中国語・モンゴル語/111分/原題:白云之下
字幕:樋口裕子/字幕監修:山越康裕
配給:ハーク 

2021年8月21日(土)より岩波ホールほか全国順次公開

Review 55『83歳のやさしいスパイ』(レビュー&TIFF公式 監督インタビュー)

意表をつく“スパイ映画”に心ほっこり

文・福嶋真砂代

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ドキュメンタリー映画で国際的評価の高いチリのマイテ・アルベルティが監督・脚本を手掛けた『83歳のやさしいスパイ』(第33回東京国際映画祭ワールド・フォーカス部門では『老人スパイ』、 第17回ラテンビート映画祭 IN TIFF)が公開になる。

スパイ事務所に雇われた83歳のセルヒオのミッションは、「老人ホームで、依頼主の家族である入居者の虐待の疑いについて調査すること」という内容だった。そんなわけでセルヒオ自身が老人ホームの入居者となり(潜入し)、毎日、探偵事務所のボスに内偵レポートを送るという仕事を開始した......。ユーモアあるセルヒオの小ボケを拾いつつ、老人ホーム内のディスコミュニケーション、そこから生まれる不信感、孤独な入居者たちひとりひとりの実情を知るにつれて、目的の「犯人探し」よりも大切な「何か」があることを探り出すのだった。またセルヒオの不思議なコミュ力(りょく)で、入居者たちの表情がみるみる変化する、その様をほぼドキュメンタリー的に撮っていることにも注目したい。

「スパイ業」と呼ぶにはあまりにもポンコツぶりを露呈するアマチュア然としたセルヒオのキャラクターが映画の核であり、彼を通してあぶり出す老人ホーム、ひいては老後の「わたしたち」の姿、また社会システムのあり方について問いかける、意表をつく、なんとも心ほっこりする“スパイ映画”に仕上がった。

以下、撮影の不思議なからくり、当初フィルムノワールを撮るつもりが、“スパイ映画”を撮ることになったという経緯を語るマイテ・アルベルティ監督公式インタビューの模様を抜粋。

 ●マイテ・アルベルティ公式監督インタビュー(TIFFトークサロン 聞き手:矢田部吉彦さん)

フィルムノワールを作ろうと思っていたが...

当初は、私立探偵事務所を舞台にした「フィルムノワール」を撮ろうと思っていました。そのリサーチをするなかで知ったのが元FBIのロムロの事務所です。ロムロは多彩なスパイ(mole)を様々な場所に送り込んでいました。彼がいつも使っている「スパイ」が2ヶ月前くらいに骨折をして動けなくなったので求人広告を出したところ、セルヒオが応募してきて「スパイ」になりました。セルヒオは依頼主のことよりも老人ホームの生き様、人間関係に関心があり、彼の視点でわたしも方向性を変えました。

およそ3ヶ月以上老人ホームで撮影しましたが、まずは探偵事務所でのトレーニングを撮影し、老人ホームを撮影しました。その後セルヒオが事務所に入ってきて、老人ホーム側もセルヒオをあまり特別扱いしませんでした。

セルヒオのポンコツスパイぶりに胃がキリキリしたことも

(スパイかも、などと)疑われることはまったくなかったのは私も驚きでした。老人ホームのオーナーに出来た映画を見せたところ、まったくセルヒオがスパイだなどと予想もしていなかったと言いました。というのは、セルヒオはいわゆるポンコツスパイで、ひと前で平気で電話をかけたり、ナースにいろんな質問したり、リスクのある行動ばかりとっていたので、身元がバレるのではないかと私は胃がキリキリしていました。老人ホームにばれないことがありえないと思っていました。

最初は映画を撮ることを老人ホーム側に打ち明けていませんでした。そこはちょっと嘘をついて、「老人ホームの良いところも悪いところもすべてを見たい」ということを伝えてはいました。老人スパイのことは伏せたまま、新しい入居者がきたらその人を撮りたいと言ってあったので、セルヒオが入居したとき、彼のことは知らないふりをして撮影を続け、すべての撮影が終わったときに出来上がった映画をホーム側に見せて初めて打ち明けました。

撮影チーム側のルールとしては、「老人ホームのルールを守る」ということでした。老人ホームでやらないだろうことに口出しをしないし、こちら側が演出を指示することもせず、声も出さず、基本的には姿も消して、何かが起こるまで何時間もずっと同じ場所を見守り、何か出来事があるときに録画ボタンを押しました。セルヒオと話すこともなく、彼は「入居者のひとり」というフリをしていました。ただし、彼が夜な夜なレポートを送るシーンだけは、他の人たちは寝ているので、少し管理できる場所での撮影になりましたが、ロムロがセルヒオにどんな指示を送っていたかを知っていたので、どこで動きを追えばいいかはその指示をもとにしました。でもやはりいちばん驚きだったのは、セルヒオ自身がいろんな人間関係を構築していき、その部分が広がったことでした。

私は「映画のトーン」は「人生のトーン」を反映すると思っています。本当に苦しい状況にあっても笑うこともできるのが人生だと思っています。撮影監督がのちに語ったのは、「映画を撮りながら泣いたことはなかったけれど、後になって全体の映画をみたら泣けた」ということです。撮影していたときは笑ったことしか覚えていないと言っていました。老人ホームのなかでの暮らしは苦しくても、日常生活では小さな喜びがあったり、苦痛だけではない。そのような「日常的なところ」も人生であることをドキュメンタリーとして表現しなければいけないと思っていました。白黒はっきりしていることばかりではなく、いろんな感情が入り混じっているのが現実だと思っています。スタートはたしかに笑えるようなシーンがあったと思いますが、そこからより深く、世界中で老人がこのような施設に入れられて孤立を感じている現状について考えなくてはいけないと思います。また日本で映画がどのように受け入れられるかに興味があります。実は同じようなテーマで、2年前くらいから東京でも撮影をしたいと思い、現在パートナーを探しているところです。

虐待ではなく、「孤独」だった

セルヒオのレポートの結論にある「虐待ではなくて、孤独であることだ」というのはセルヒオ自身が書いたものです。彼は老人ホームを退去する前から繰り返し同じレポートを書いていて、私たちも何度も話し合いをしましたが、彼自身の本当の気持ちです。そのおかげで私もどのように編集すべきかの方向性が決まりました。もともとは依頼主がいての探偵業なので、その依頼主のことも撮影していました。でもいざ編集で入れようとしたとき、依頼主のことよりももっと違うところをフォーカスすべきだと、このセルヒオの言葉で気が付きました。彼に助けられたと思います。

その後の監督の人生に影響を与えたか?

セルヒオのおかげで何に対しても先入観をもたずにオープンに見ることが大事なのだと学び、人生における新しい体験を受け入れようと思いました。セルヒオは、何歳になっても前向きに、先入観を持たずに受け入れ、老人ホームの人たちともそのようにつきあっていました。アルツハイマーを患っていたマルタやソイラーとも、一見おかしな人だからと取り合わないことも、セルヒオとの関係で、彼らのアイデンティティも見えてきます。時間を共に過ごしたことでいろんなことが見えてきたので、物事をオープンに受け入れよう、そして時間をかけて人を知るようにしようと思わせてくれました。 

Information:

監督:マイテ・アルベルディ
原題:The Mole Agent[El Agente Topo]

2021年7月9日(金)よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開