REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Interview 006 ティエリー・フレモーさん(『リュミエール!』監督・脚本・編集・プロデューサー・ナレーション、カンヌ国際映画祭総代表)インタビュー

映画作家リュミエールの凄さを知ってほしい

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第30回東京国際映画祭の『リュミエール!』特別上映に際して来日したリュミエール研究所所長のティエリー・フレモーさんにインタビューした。同映画では監督の他、脚本、編集、プロデューサー、ナレーションと1人5役を担う。「発明家」という観点から切り離し、リュミエールを「映画作家」として捉えたい、その思いが貫かれる本作。優れた編集と軽妙洒脱な味のあるナレーションでリュミエール映画の魅力と奥深さを存分に伝え、驚きと発見に満ちた90分間は瞬きするのも惜しくなる。カンヌ国際映画祭の総代表でもあるフレモーさんは現在多忙を極めるが、「リヨンのシネフィルの若者だった」彼がリュミエール映画と出会い、いま映画の保存と普及に尽力する真摯な思いを語ってくれた。今回の映画祭での上映への感想を聞かれ、「まるでリュミエール映画のキャメラマンが日本にやってきた時のような気持ち」と楽しそう。「謙虚な気持ちで作った映画だが、今後はスターウォーズシリーズのように続けていけたら……」の言葉に期待が膨らむ。

取材・文:福嶋真砂代

■リヨンのシネフィルの若者はまさにいい時、いい場所にいた

ーーフレモーさんのリュミエール映画との出会いは?

私はリヨンに住むシネフィルの若者でした。まさにいい時、いい場所にいたと言えるかもしれません。というのも、リュミエール研究所が設立されたという、ちょうどその記者会見場に居合わせたのです。会見の最後に『工場の出口』が上映され、それがリュミエールとの最初の出逢いです。もちろん強い感動を覚えました。以来、私はリュミエールの映画を常に”シネフィルの視点”で観ています。リュミエールの映画を語ることは「映画について語る」ということなのです。

ーーナレーションのおもしろさにも誘導されて、リュミエール映画の魅力の奥深さに触れることができる映画です。リュミエール研究所には膨大な映像作品とともにテキスト記録も残されていますか? それに基づいてナレーション原稿を作ったのでしょうか。

いえ。実はリュミエール研究所にも、リュミエール家にも、テキスト記録はほとんど存在しません。それでも歴史家やリュミエール研究者たちは多くのよい仕事をしてきました。彼らの研究や文献のおかげで、この映画では多くの仮説、質問が投げかけられました。記録や資料が残っていないために、「こうではないか、ああではないか」と仮説を立てて、シネフィルの立場で、映画を観る者の視点で作りました。リュミエールを現代の映画作家となんら変わらない、映画作家として考えてほしかった。発明家というリュミエールとは切り離したかったのです。私が書いたナレーションにはリュミエールへの敬愛、アーティストとしての尊敬が込められています。こういった試みは映画史上でも初めてのことだと思います。振り返ると、ジャン・リュック・ゴダールジャン・ルノワールリュミエールのを評価したのも50年も前のことですからね。

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© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

 ーーいまの映画と昔の映画の違いについてどうお考えですか。

ふたつの時代を比較することは難しいです。リュミエールの時代は1本の映画がおよそ30分で、映画と映画の間には間隔をあけて、10本の作品を上映していました。上映会場にはシネマトグラフという機械と大きな画面があり、観客はだいたい50人くらいでした。いまの時代にそういう状況を再現するのは無理でしょう。ですからリュミエール映画をいまの上映環境に持ってきたかった。だからといってリュミエールの時代のリュミエールがやっていたことを真似をしたかったわけではありません。ひとつの提案として、リュミエールの映画を使って1本の映画を作り、それをいまの時代の人たちに映画館で観ていただく。ひとつの「映画」というオブジェに変え、つまり何本かのリュミエール映画ではなく、1本の長編のリュミエール映画としました。当時はこの映画のようなナレーションはつかなかったと思いますが、観客の間から、おそらくコメントが出ていたと思います。「あ!」とか「お!」とかいう声も上がっていたでしょうね。 

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© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

■「映画というのはコメディ、コミカルなもの」という次元が大切だった

ーーリュミエール映画のコメディについてのお考えをお聞かせ下さい。

リュミエールの作る映画のコメディには2種類あると思います。ひとつは普段の生活の中からあえて演出をして物事をおもしろくするもの。もうひとつはどちらかというとコミック、それは予期せぬときに起こるおもしろさです。後者はより映画的なおもしろさだと思います。リュミエールが望んだのは常に「映画は楽しいもの」だったと思います。ですからリュミエールの頭の中の「映画というのはコメディで、コミカルなもの」という次元が大切だったと思います。

ーー兄弟の父の写真家アントワーヌ・リュミエールも、やはりシネマトグラフの発明に大きな役割を果たしたと言えるでしょうか。

大変重要な人だと思います。まず第一にルイとオーギュストの父親であること。また彼自身が軽業師的なアーティストで、そういうエスプリを持った人でした。アントワーヌが、エジソンの発明したキネトスコープをまず体験し、次いで息子たちにキネトスコープを見てみるように勧めました。シネマトグラフが完成すると、パリで第1回目の有料上映会を開催したのはアントワーヌでした。

ーー美しく修復されたデジタル映像に驚きました。この映画へのフランス政府からの出資はどれくらいだったのしょうか。

フランス政府が現在行っているのは、映画をデジタル修復するための補助金を出すことです。今後、35ミリフィルムの映画がかけられなくなってしまうので、古い映画のデジタル修復が必要です。ただ修復作業に対してのみで、映画に対しては補助を受けていません。リュミエール研究所の仕事は、他のシネマテークと同様に、保存する古い映像を新たに修復して保存していくということです。修復には3分の1が国から、3分の1がスポンサーから、あとの3分の1リュミエール研究所から出ています。映画はほとんどお金がかかっておらず、最低限のスタジオ代、編集、人件費がありますが、私はお金はもらっていません。ですから映画史上、もっとも低予算の映画を撮った監督ということになります(笑)。実はこれは私の映画とは書いていなくて、私が構成とナレーション担った映画としています。つまり今しているのは私の話ではなく、リュミエールの話をしているということです。私としては、映画とはいい距離感をとりながら、監督としての役割と共に、リュミエールへの敬意を示したいと思っています。

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■”スター・ウォーズシリーズ”みたいに続けられたら

ーー黒澤明小津安二郎の映画だけではなく、現代の映画がリュミエールの影響を少なからず受けているという思いがこの映画を観ることでまた強くしました。

正確に言えば、小津監督や黒澤監督がリュミエールの映画を観ることはなかっと思います。この映画の中でジェームズ・キャメロンラオール・ウォルシュ黒澤明小津安二郎らの名前を出したのは、リュミエールもまた、映画史の中で映画監督がやってきたことと同じことをやっていたということを言いたかったのです。リュミエール兄弟自身がそれらの監督と同じように、”ひとりの映画作家”であったことの証明になると思います。今後は、この映画を観た若いアーティストや映画作家に何かしらの影響を与えるのではないかと思います。時間が経過しても残っていくために重要なことは、シンプルさ、リアリティであり、そこに詩があることなのです。

ーーこれからのリュミエール映画の予定は?

現存する1422本のうちの108本をまず1本の映画として発表しましたが、おそらく今後、第5弾くらいまで作れるのではないかと思っています。リュミエールの映画を世界中に広めていくことは神聖なる作業です。スター・ウォーズシリーズみたいに続けられたらいいですよね。

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■映画祭成功の素は「グッドフィルム、グッドフード、グッドフレンズ!」

ーーカンヌ映画祭総代表とリュミエール研究所の所長と、多忙な1年を過ごされていると思いますが、仕事はだいたいどのような配分なのでしょうか。

実は去年、Selection officielle:Journalという、私のカンヌ映画祭1年間について日記形式で本を書きましたので、そちらを読んでいただけるとよいかと。ページ数は600ページありますけど(笑)。私の1年は、大きく分けてふたつの仕事があると思っていただけるといいかと思います。リュミエール研究所では、映像の保存やこのように映画を作る仕事、さらに映画祭があります。リヨンにはリュミエール映画祭の他に「スポーツ、文学、映画」というフェスティバルもあります。カンヌでは現代映画を、リヨンでは古典映画を扱っていますが、私にとっては同じ仕事です。現代映画を評価するには古典を知っていなくてはいけないし、リュミエールの映画を理解するには現代映画を知っていることが役に立ちます。それが私を歳をとらせない秘訣なんです。

ーーリュミエール映画祭」が10回目を迎えますね。

リュミエール映画祭が重要なのは、大衆に向けられた映画祭だということです。一般大衆の文化的な経験として考えています。もちろん映画史的な教育の場としても役割もあります。現代の観衆とは、教育的にもレベルの高いものを理解しうる観客だと思っています。映画祭を通して、社会的、知的、人間的な分かち合いができればと考えています。映画祭として大切にしていることは「グッドフィルム、グッドフード、グッドフレンズ」で、これは映画祭成功の素なのです。カンヌとリュミエールとは両極にある映画祭と言ってもいいかもしれません。カンヌはモダン、リュミエールはクラシック。カンヌは競争、リュミエールは分かち合い。カンヌはプロ向け、リュミエールは大衆向け。カンヌはレッドカーペットですが、リュミエールはもっとリラックスしています。何よりリュミエール映画祭にはウォン・カーワイやティルダ・スウィントンというスターたちが「友達」として来てくれることも嬉しいです。

■来日はまるでガブリエル・ヴェール やコンスタン・ジレルと同じような気持ち

ーー東京国際映画祭のご感想はいかがですか。

実は今回はホテルの部屋に閉じこもって仕事をしている時間が長いのですが、東京国際映画祭で『リュミエール!』を上映できたことをとても喜んでいます。とても重要な映画祭で、そこで選ばれる映画は素晴らしく、選者のみなさんも素晴らしい。この映画は謙虚な気持ちで作ったので、パリやリヨンで上映されたら嬉しいなと最初思っていました。思いがけずフランスでは大成功で、ワイルドバンチというフランスの配給会社が35カ国に売りました。ですのでこの映画は世界的な冒険をしています。私がこの映画を持って日本に来ているのは、まるでリュミエール映画のキャメラマンのガブリエル・ヴェールやコンスタン・ジレルが1898年に来日したのと同じような気持ちです。今回はリュミエール映画の京都ロケ地などにも訪れる予定です。

f:id:realtokyocinema:20171105002546j:plain© 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

 (※このインタビューは10月27日、ラウンド形式で行われました)

プロフィール:

Thierry Frémaux / 1960年5月29日、フランス南西部イゼール県チュラン出身。リヨン郊外の都市ヴェニシュー で、エンジニアである父のもと育てられる。リヨンのラジオ局”Radio Canut”(リヨン FM102.2)の共同創設者である父の映画館で、自身が黒帯の有段者である柔道を教える。社 会歴を学び、映画史の修士号を取得。 リュミエール研究所でボランティアを務め、1989年フランスのフィルムメイカーである Bernard Chardèreの推薦を受け正式研究員となった。1997年、映画監督であり研究所の代表 を務めていたベルトラン・タヴェルニエとともに芸術監督に任命され、1995年リュミエー ル兄弟の映画をタヴェルニエ監督と共に修復し映画100周年記念行事を主導した。現在、リ ヨンにあるリュミエール研究所にてリュミエール・フェスティバルも開催している。

<カンヌ国際映画祭とフレモー氏> 1999年、フランス・シネマテークのディレクターのオファーを断ったのち、カンヌ国際映画祭のトップであるジル・ジャコブにカンヌ国際映画祭の芸術代表団メンバーのひとりに任命される。その際、リュミエール研究所の所長についても離職することなく、継続する ことを交渉しカンヌ国際映画祭での役職とともに務めることとなった。2003年、第57回カンヌ国際映画祭より、正式なプログラミング担当として2つの部門(フレンチ・ファウンデーション部門とある視点部門)を担当することとなる。2007年にカンヌ国際映画祭総代表に昇進、芸術的な作品の選定のみならず、映画祭の管理・運営を担当している。 カンヌ国際映画祭の作品選定のトップとして、彼はハリウッド・スタジオ製作の作品をカ ンヌ国際映画祭のレッドカーペットへ呼び戻し、映画祭の正式会場であるパレのオープニ ング作品にこれまでにないジャンル映画、アニメーションを上映し、ドキュメンタリー映 画、海外からの映画にもチャンスを与え続けるなど斬新な運営に挑戦、映画のために多く のリスクに立ち向かっている。 2002年、クラシック映画『望郷』(1937年製作 ジャン・ギャバン主演)をデジタル上映 し、この作品の上映がきっかけで、2004年カンヌ国際映画祭カンヌ・クラシック部門が設立されることとなった。 彼は、リヨンにあるリュミエール研究所のディレクター(所長)ならびにカンヌ国際映画祭総代表を務める傍ら、映画『リュミエール!』を製作した。

インフォメーション:

リュミエール!』
監督・脚本・編集・プロデューサー・ナレーション:ティエリー・フレモー (カンヌ国際映画祭総代表)
製作:リュミエール研究所 
共同プロデューサー:ヴェルトラン・タヴェルニエ 
音楽:カミーユ・サン=サーンス
映像:1895年~1905年リュミエール研究所(シネマトグラフ短編映画集1,422本の108本より)
LUMIERE!/2016年/フランス/フランス語/90分/モノクロ/ビスタ/5.1chデジタル/字幕翻訳:寺尾次郎/字幕監修:古賀太/後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本 協力:ユニフランス

2017年10月28日(土)東京都写真美術館ホール他全国順次公開

gaga.ne.jp

2017.tiff-jp.net

Interview 005 中村高寛さん(『禅と骨』監督・構成・プロデューサー)ロングインタビュー

「人の生を撮ること、死を撮ることはなんなのか」を考え続けて、濃密な撮影ができたと思う

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『骨と禅』を監督(構成・共同プロデュース)した中村貴寛さんにインタビューした。『ヨコハマメリー』以来、11年ぶりとなる新作は、横浜生まれの青い目の禅僧(京都、天龍寺)、ヘンリ・ミトワの型破りな生涯を、ドラマやアニメーションも取り入れ、これまた型破りなスタイルで描いたドキュメンタリー。中村トオルのハードボイルドな語り、ジャジーな音楽、野宮真貴がカバーする昭和歌謡が流れ、数々のインタビューも興味深く、まるで謎解きミステリーのように、戦前から現代まで、日米にまたがる壮大な ”ミトワ家サーガ ” が紐解かれる。林海象(『私立探偵・濱マイク』監督)プロデュースとくれば横浜ノワール感もたっぷり、ドラマパートに永瀬正敏濱マイクではない)も粋に登場し、他に緒川たまき利重剛佐野史郎ら豪華俳優陣が彩る。ヘンリ・ミトワ役にウエンツ瑛士、ヘンリの母には余貴美子。そのキャスティングへの熱い思い、ミトワさんを撮ることになった驚きのきっかけや、8年の撮影期間の間に経験した「死にたくなるような」エピソードなど、たっぷりネタバラシをしてくれました。「これは僕のセルフドキュメンタリーでもある」と語り、この映画でヘンリ・ミトワが「依り代」になったと言う。その真意とは……? ディープでマニアックな世界の終わりに、コモエスタ八重樫x横山剣CRAZY KEN BAND)「骨まで愛して」が流れる頃、味わう不思議な達成感。中村監督の気持ちにどっぷりシンクロしていたのかもしれない。

聞き手・文:福嶋真砂代

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 ドキュメンタリー映画の中でも稀な映画かもしれません

ーーなんと表現していいかわからないくらいユニークな人物を撮られましたが、とても苦労されたのではないかと思いました。まさか死にたくなったりしませんでしたか?

もう何回も死にたくなりました(笑)。例えば「毎回、これが遺作だ、死ぬ気で撮ってる」とか言うけど、今回は本当に死ぬ気でやろうと思って撮っていました。

ーーそもそもヘンリ・ミトワさんを撮ることになったきっかけは何だったのでしょうか。

ドキュメンタリー映画を撮るとき、よく問われる「内的必然性」。つまり、なぜそれを撮らなければならないかいうことが重要になります。仮に必然性があり、自分のテーマに合致していたとしても、それを繰り返し反芻するわけです。「本当にこの人物を撮らなければいけないのか?」と、自分の内的必然性と向き合って、映画を撮っていくのです。でもこの映画の場合はちょっと違っていて、被写体の方から「撮って」と言われて撮り始めることになったんです。ドキュメンタリー映画の中でも稀な映画かもしれません。この「なぜ撮ることになったのか」という理由も含めて、映画の中にすべて入れこもうと思って、レイヤーをいくつも重ねて作ってあるんです。

ーーとても気になるシーンがあって、「撮りましょう」と監督が言うと、「撮りましょうじゃなくて、撮らせて下さいでしょう」とミトワさんが返すという押し問答、そんな驚きのやりとりがオープンにされていて、そこから「あれあれ?」って展開が俄然おもしろくなって、両者の本音を聞いてしまったという、見てはいけないものを見てしまった感覚でした。

普通はああいうところは明かさないものですし、対象者とあそこまでぶつかることはなないでしょう。多くのドキュメンタリーの作り手というのは、「撮らしてもらってる」みたいな意識ってあるんですね。ある尊敬する対象者にキャメラを向けるとき、「撮らせて下さい」とお願いして撮るということが多いと思うんです。僕もテレビドキュメンタリーを多く撮ってきて、そういうスタンスで撮ったこともあります。ドキュメンタリーというのは対象者のいい部分だけを撮るのではなくて、弱い部分も撮らなければいけないときもあります。そうすると対象者は往々にして気分を害するので、なんでそんなところを撮るんだ!と揉めたりすることもあるんです。ゆえに僕の映画を撮るときのスタンスとしては、つねに対等のスタンスでまず撮りたい、「撮る側」と「撮られる側」の間に上下関係はない、ということをまず相手側に伝えて、納得してもらったうえでキャメラを回します。

ーー毎回、そういうことは話し合われるのですか、それとも今回は特に……?

今回はより自覚的にやりました。前作の『ヨコハマメリー』のときも、そこまで明確ではないながらも、対象者の人たちと共犯関係を作っていきました。撮らしてもらうというよりは、一緒に悩み考えながら作っていったのですが、それは撮る以前に長い時間のつきあいがあった上でできたことです。仮にテレビドキュメンタリーの場合、リサーチをして、企画書を作って、それがテレビ局に通って完成するまで、ある程度スケジュールが決められてしまい、完成したら「はい、さようなら」という世界なんです。その後、対象者と関係を続けていくディレクターもいるのかもしれませんが、私は年賀状のやり取りがせいぜいです。テレビは早いサイクルで次からへ次へと追われていくので、対象者に対して思いがあったとしても、放送が終わると頭が切り替わってしまうし、切り替えないと次に進めないわけです。実をいうと、最近テレビドキュメンタリーを撮っていないのは、そういうのが嫌になったのもあります。僕が撮るからには、映画が完成した後も、対象者の人生の最期までちゃんとつきあえるのかどうか? それを自分の中の基準にしてきました。逆にそこまでの覚悟を持って撮り始めるので、「僕とあなたは対等でやりましょう」と言えるのだと思います。「いまは映画を撮っているけれど、互いの人生が続く限りは関係が続くのです」ということを前提で話をしています。まあ向こうに嫌だと言われたらおしまいですが(笑)

ーーミトワさんともそういう話をした上で撮っていて、それでもあのような状態になったのですか?

映画の企画者の松永賢治さんも出演し、この映画の成り立ちについて話しています。というのも、さっき話したように、そもそも内的必然性から始まっていない映画なので、「なぜ僕がこの映画を撮ることになったのか?」ということも映画の中に入れようと思ったのです。本作がなぜ成り立ったかということさえ、中のレイヤーに入れ込んで、監督の私も登場人物の1人だという映画内映画の構造にしています。そもそも、松永さんが2011年1月に京都から深夜バスで横浜までやってきて、朝8時頃に桜木町駅前のカフェで会い、「ミトワさんが撮ってほしいと言っている。ドキュメンタリーを撮ることを了承してくれたので、つきましては、中村さんに撮ってもらいたいと言ってるからお願いできますか」と直談判されたときに、その熱意におされて始まった映画なので、結果的にこういう構造になったのは必然だったのかもしません。

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■映画を撮るにあたって出したふたつの条件

ーーミトワさんから中村監督にご指名があったんですね。

ミトワさんとは2008年に出会ってから3年間くらい、彼が撮りたかった映画に関して、私が相談相手として定期的に会って話を聞いていました。

ーー『赤い靴』に関する映画のことで、ですね。

ミトワさんがスポンサー探しに上京した際に、京都へ帰る前に東京駅に僕が呼び出されていました。喫茶店でお茶を飲みながら、「今日は誰々さんに会ってきた、お金出してくれるかな」、「いや、その人は出さないでしょう」、「俺のドキュメンタリーを撮るっていう監督がいるんだけど、この監督知ってる?」、「有名人ですよ、その人。その人の方が絶対僕よりいいですよ」という話や、同じハマっ子なので横浜の地元話で盛り上がったりという関係を続けていました。その積み重ねがあった上で、松永さんが横浜まで依頼に来られたので、僕は条件をふたつ出しました。ひとつは、林海象さんにプロデュースしてもらうこと。もともと海象さんからミトワさんを紹介されたのがきっかけでしたし、僕は京都に土地勘がないので、京都でバックアップしてくれる人が必要不可欠でした。もうひとつは、最初の関係性を明確にしておきたかったので、ミトワさんが直接、僕に「お願いします」と言うこと。このふたつがOKだったら僕は撮ってもいいですよ、と言いました。ただそこに「内的必然性」はほぼゼロで、わざわざ松永さんがミトワさんのために横浜までやって来たりするのを見て、「男同士のうるわしい友情だなあ」なんてほだされちゃって……。

ーーやさしい。

僕のところに海象さんから電話があり、「中村くん、やろう。俺がプロデュースは引き受けるから。いますぐ撮ろう。ミトワさんの年齢も年齢だから、すぐにキャメラを回そう」となったのが、2011年の2月後半くらいです。あともうひとつの条件に関しては、3月に京都に行く予定だったのですが、東北の大震災があって行けず、その2週間後くらいに京都に行ってミトワさんと会い、僕に「お願いします」と言いました。その時点ではちゃんとした映画として完成するのか? 本当に勝算はありませんでした。でも、もし仮にドキュメンタリーがうまくいったら、これでミトワさんが有名になって『赤い靴』の映画化に興味を持ってくれる人、スポンサ―もあらわれるかもしれない、という思惑もあったんです。実は私の前作『ヨコハマメリー』のときにも、実現しなかったのですが、映画公開時に劇映画化のオファーがいくつかあったんです。そういう前例もあるから、『赤い靴』の映画化に出資しようという奇特な人もいるかもしれない。ホップ、ステップ、ジャンプの、僕は踏み台の「ステップ」でいいですから、ミトワさんの最後の夢にかけましょう!というのではじまった映画なんです。

ーーちょっとびっくりです。

ほぼ同情からはじまったと言ってもいいくらい。だから映画の中で、あれくらい言えたんでしょうね。「撮ってくださいと言ったのはあなたです。あなたがそんなこと言う権利ないでしょ」くらいに(笑)。とはいえ、いまだに恥ずかしいのは、僕は本当に怒ってるので、スクリーンで改めて冷静に観ると「俺って怒るとこういう声色なんだ」なんて思って、すごい嫌です(笑)。

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ドキュメンタリー映画制作の現実、「依り代」となったミトワさん

ーーそうは言いながらも、中村監督が映画にかけるものと、ミトワさんの映画への執念と言えるくらいの情熱と、なにか絡み合うように、映画に強く写されていました。

(映画製作における)経験の違いはあるのかもしれないですが、僕がミトワさんと年間つきあう中で、とてもシンパシーを感じる瞬間がありました。というのは、『ヨコハマメリー』以降、「次の作品はぜひうちから」とか「この金額だったらすぐに出せますよ」などと、オファーをいっぱいもらいました。「企画があったらぜひうちに!」とラブコールを送ってくれた会社に企画を持っていくと、「いや~ドキュメンタリーっていうのは難しいからねえ。まだ撮影してないんでしょ? 撮影してないとどうなるかわかんないしね」と言われる。劇映画だったら、人気俳優がキャスティングされて、漫画原作などで企画が組まれたりしますよね。ところがドキュメンタリーはそうはいかない。前作の後、ドキュメンタリーでもちゃんと商業(映画の)ベースに乗せられるのではないかと考えていたのですが、練りに練った企画を出しても、動いても動いても、全然周りが乗ってくれない。途中から「なんで俺はこんなにみんなにすがっているんだろう?」と自己嫌悪に陥るようになりました。『ヨコハマメリー』では僕とキャメラマン、デジタルビデオカメラ1台から始めたのに、スポンサー営業をしてかすりもせずに、なんだか窮屈なことになっちゃったなと思ったんです。そんな時、ミトワさんが「スポンサー周りしても全然お金が出ない」と言いながらも、それでも「撮りたいんだ」と動きまわる姿をみているうちに、映画ってそういうものだなと思ったんです。いくら技術があって、経験を重ねていたとしても、本当に大切なものとはこういうところにあるのかなと。最初は僕だって見よう見まねで映画を撮り始めたわけだし、それが原点だったのに、仕事としてルーティンでやっていると、いつの間にか忘れていくんです。忘れないと仕事として割り切ってやれないんですけどね。そういうことも含めて、僕がちょうど撮れなかった時期とも重なって、ミトワさんに共感し、感情移入したところが、この映画にはとても出ていると思います。「自分にとっての映画とは何か、ドキュメンタリーとは何か、そもそも人を撮ること、人にカメラを向けることとは何なのか」ということを、常に自問自答しながら撮っていました。そういう意味では、ミトワさんは僕の想いを伝えるための「依り代」になってくれたのかもしれません。

 ■「最後まで撮ってくれ」の意味とは……?

ーー撮影期間は2011年から、長い時間をかけて撮られていたのですね。

撮影が始まってちょうど1年後くらいにミトワさんが亡くなって、そこからどういう映画にするか悩みました。病床のミトワさんに「映画を仕上げてくれ」と託されたことが大きかったです。一度、危篤になったとき、夜の10時頃、次女の静さんから電話がかかってきて、横浜から京都にキャメラマン(中澤健介)と駆けつけてあのシーンを撮ったんです。この映画を託された時点で、自分がやらないと完成しないですし、生死を彷徨っているミトワさんから頼まれたらね……。

ーー中村監督は看取ってはいないんですね。

「映画仕上げてや」、その他にも「俺の最後まで撮ってくれ」と言われたんです。それでそのままキャメラマンと2、3ヶ月病院に通いました。2、3日かと思っていたら、復活しはじめて……。僕は急にキャンセルできない仕事もあったので、新幹線で横浜と往復していて、キャメラマンがひとりで病室で撮るみたいな状況もありました。ミトワさんが唸っている姿だけを撮って帰ってきて、夜それをふたりでラッシュ(映像チェック)するとブルーな気分になるんです。翌日も翌々日もずっとそのことの繰り返しで、「俺たちは人としてこんなことしてていいんだろうか」と逡巡しながらやっていました。3ヶ月くらい同じことを続けていたら、精神的にまいってしまい、キャメラマンとも些細なことでよく喧嘩になりました……。

ーー「死にたくなった」ポイントのひとつですね。

いま冷静になればそういうことは考えもしないですが、そのときはナチュラルハイになっていたので、「救急車のシーンがあって、それから入院っていう流れのほうがシーンのつながりがいいよね」ということを考えはじめて、1日くらいずっと救急車の出待ちをしたことがあるんです。夕方になって「そもそも救急車が出てくるということは、誰かが倒れたということだよね。それを待っている僕たちって人としてどうなのか」と自己嫌悪に陥って、その場を後にしたり……。本当に馬鹿ですよね。3ヶ月間、「人の生を撮ること、死を撮ることはなんなのか」を考え続けて、どうしようもない失敗も多かったですが濃密な撮影ができたと思います。

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■「骨まで」撮るということ

ーー病気とかではなく、老衰だったのですね。

最後は呼吸不全でした。僕らは「最期まで撮ってくれ」と言われたけど、でも具体的にどこまでかは言われてないんです。だけど、「最期まで」っていうからには「最期まで撮らなければ」というふうに、僕の想いがどんどんエスカレートしていったんです。とても有り難かったのは、「(父が)最期まで撮ってくれって言ってるんだから」ってご家族が応援してくれて、それもあってキャメラを回す覚悟ができました。

ーーご家族も映画を撮ることに協力的だったわけですね。

ミトワさんが亡くなる前後ぐらいから、「父の映画を残すということは(家族の)使命」、のような感じになっていたんです。

ーー途中からは、思いっきり”家族映画”になっていました。

そうですね。これはネタバレになってしまうのですが、ミトワさんが亡くなって、どうやってこの映画を終わらせたらいいか悩みました。お通夜と告別式の後、「ミトワさんは、結局何を残した人なんだろう。器用な人でいろんなことをやってきたけれど、この人は何を残した人なんだろうか?」って、スタッフ全員で話し合ったことがあるんです。そのときに答えはでなかったのですが……。でも告別式で家族のパンショットを撮ったとき、奥さんのサチコさん、長女の京子さん、次女の静さんがいて、そして京子さん、静さんの子供たち、孫たちも並んでいました。そのときに、ミトワさんは生の営みというか、一人の人間として次世代に繋いだ人だなと思いました。それは誰もがやってる当たり前のことかもしれないけど、日系人強制収容所も経験して、自分の生存を脅かされそうになりながら激動の20世紀をサバイブしてきたけど、そこだけは確実にやってきた人なんだと。そう思ったときに、「家族を撮りたい、家族を通して、ミトワさんとは何だったのかを、もう一回見つめていきたい」と考えました。そこから映画のスタイルがガラッと変わりました。あえて変えたというか、そうしないとこの映画のゴールは見つけ出せないのではないか、まだ確信はなかったけれど、それしか道はないなと思ったんです。それともうひとつ、実を言うと、ミトワさんが亡くなったときにすごい虚脱感に襲われて、「本当に俺はこの映画を作っていいんだろうか? 最期まで撮ったけど、そういうことをやっていいのか」と悩みました。自分の肉親を失ったとき以上の空白というか、虚無感がすごかったんです。おこがましい話ですけど、ミトワさんの家族と一緒に、その空白を埋めていけないかなと思いました。いわゆるグリーフワーク(喪の仕事)と言われるもので、僕も疑似家族のようになっていて、後半パートはあの家族と一緒に「喪の仕事」ができないかなという意識で作っていました。

■「モンティ・パイソン」みたいなことがやりたい

ーー正直に言うと、ヘンリ・ミトワを追うドキュメンタリーのはずなのに、冒頭に「赤い靴」が出てきてちょっとびっくりしたのですが、ミトワさんの存在自体に驚嘆しながら謎が解明されていく過程が、ミステリーのようでした。

またネタバラシをすると、冒頭の序章パートは「モンティ・パイソン」をやろうとしたんです。「横浜で赤い靴の話があります」、その後に「ところ変わって、京都では……」みたいなことで、編集マンとは「どう語るのか?」という話法に関して、時間をかけてディスカッションして、作り込んでいきました。ドキュメンタリー映画って基本的には時系列を崩さずに、オーソドックスな話法でやるのがいちばん見やすいのだけど、「素材主義」と言われるような「素材をただ見せていく」ような方法論から脱却したかったんです。ドキュメンタリー映画も”映画”なので、映画の話法としてできるものを作りたいなと。構成に関しては、通常のドキュメンタリー映画だとクランクアップ後に構成を考えることが多いのですが、今回はミトワさんが亡くなった時くらいからすでに作り始めました。「こうなったらおもしろくなるんじゃないか、こういうシーンがあったらこのシーンは成立するだろう」ということを撮影しながら考えて練っていきました。振り返って構成表を見るとおもしろいのは、2013年の時点で「ドラマ・母を捨てた息子」というのを決めてたんです。また『ヨコハマメリー』と同じ編集マン(白石一博)だったので、今回はその進化系をやろうと、私が作った構成をもとに、編集も精密細工のように作り込んでいきました。

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■念じて叶った、余貴美子ウエンツ瑛士のキャスティング

ーーでは、ドラマパートのキャスティングはそのあたりで決めたんですか?

もしドラマパートを撮るとしたら、ウエンツ瑛士さんと余貴美子さんでやろうと、まだミトワさんが生きていた時から決めてました。

ーーすでにお二人は監督の頭の中にあったのですね。

もうミトワさんの若い頃のパスポートの写真みたら「あ、ウエンツさんだ!」と思ったのがキッカケです。その後、ウエンツさんの経歴を調べてみると、ドイツ系アメリカ人のお父さんと日本人のお母さんとの間の子供であることなど時代も世代も違いますが、その境遇が似てるなと。その時に、ウエンツさんともに「役を一緒に考えていく。当時のミトワさんの感情を探していくこと」ならば、通常のドラマ手法ではなくて、ドキュメンタリー畑の私でも勝算があると思ったのです。勿論、ウエンツさんのインタビューを読んだり、これまでの出演映画を見たり、映画『タイガーマスク』のウエンツさんを観て、「ちゃんと」と言っては失礼ですけど、ちゃんとスクリーン映えする方で、映画にでられる人だと思ったんです。またお母さんの写真を見せてもらうと、似てるわけじゃないんだけど、余貴美子さんが浮かんできました。余さんも私と同じハマッ子で、以前、地元のパーティでお会いする機会があったんです。映画やテレビの中の余さんではなくて、実際にお会いした余さんを見て、ミトワさんのお母さんと余さんが自分の中でつながった気がしました。なのでドラマを撮るなら、ウエンツさんと余さんだと勝手に思っていました。ちょっとしたストーカーみたいなもんです(笑)。周りの人からは「(オファーしても)無理だよ」と言われましたが、僕の中では「出演してくれる!」と、完全に思い込んでいました。だから最初にお会いしたとき、心の中で「ようやく会えたね」と思いました(笑)。

f:id:realtokyocinema:20170905111327j:plain©大丈夫・人人FILMS

ーーウェンツさんにとっても新境地で、ミトワさんを演じるのは挑戦だったのではと思いました。現場はどうだったんですか。

そうですよね。現場でウエンツさんは台本をほぼ見ずに、台詞を全部覚えてきてくれました。最初に「全然役作りしなくていいです。そのままで来てくれたらいから」と伝えました。ひとつひとつのシーンで「ここ(のミトワさんの感情、想い)はどうなんですか?」と、ミトワさんの自伝も読み込んで、ミトワさんに関する写真資料も見てくれた上で質問をしてくれました。ウエンツさんなりの演技プランを作ってきてくれたので、すごく話がしやすかったです。僕はもともとドラマの監督じゃないというのもあって、「噛んでもいいし、間違ってもいいし、なんでもいいです」というスタンスだったんです。その場に、現場の中にただ居てくれたらいいと。例えばセリフ以外のことを話しても「そういうふうにウエンツさんは思ったんだ」と思っていました。それこそミトワさんに対するのと同じように、どっちが上とか下ではなく、対等の関係。ミトワさんを撮っているときに、「この人はこういう表情をするんだ」とか「こういう言い方するんだ」と発見しながら、撮っていました。それがドキュメンタリーの醍醐味だと思うんです。こちらが想定していない言葉が出てくる瞬間にゾクッときたりするんですね。ウエンツさんはこういう表情するかなと思って書いた台本でも、「あ、こんな表情するんだ、おもしろいなあ、ここでこういう目線のやり取りをするんだ、なるほどね」とイメージを覆されることがありました。カット割りして撮ってはいますけど、ある程度「投げた」というか、一緒に考えながら作っていくということをやっていました。

■やっぱりドキュメンタリーはおもしろい!

ーーもしかして、次の映画はドラマということもありますか?

ヨコハマメリー』のときから「ドラマ撮らないんですか?」って聞かれることはあったんです。そもそも僕はドキュメンタリーが専門なんて一言も言ったことなくて、昔はドラマの助監督をやってましたから。でも『ヨコハマメリー』を撮ったら、いつのまにかドキュメンタリーの仕事しか来なくなったというだけなんです。肩書きも「ドキュメンタリー監督」と一度も書いたことはなくて、いまも抗って「映画監督」と書いたりします(笑)。

ーーそこには何の縛りもないのですね。

何の縛りもないのですが、今回撮っていて、やっぱりドキュメンタリーはおもしろいと強く思いました。ドキュメンタリーは映画表現において、いちばん挑戦も冒険もできるジャンルだなって。ドキュメンタリーが持つ映像の力は、一度取り憑かれるとなかなか抜け出せいない「魔力」があります。 ただやっぱり「出会い」なので、ミトワさんがいなかったら、あるいはあのご家族がいなかったら、こういう映画にはならなかったと思います。ウエンツさんが僕に「監督がミトワさんになってる」って言ってたんですが、お互い乗り移って、僕がミトワさんに乗り移り、ミトワさんが亡くなってからは、ミトワさんが僕に乗り移って撮ってような気もします。それこそ出会いだし、次も作れるかと言ったら、自信はないです。次が何かというのは、また10年で考えます、いやでも3年後に完成したら、狼少年ですよね(笑)。

(※このインタビューは2017年8月21日に行われました。)

プロフィール:
なかむら たかゆき/1997年、松竹大船撮影所よりキャリアをスタート、助監督として数々のドラマ作品に携わる。99年、中国・北京電影学院に留学し、映画演出、ドキュメンタリー理論などを学ぶ。06年に映画『ヨコハマメリー』で監督デビュー。横浜文化賞芸術奨励賞、文化庁記録映画部門優秀賞、ヨコハマ映画祭新人監督賞・審査員特別賞、藤本賞新人賞など11個の賞を受賞した。またNHKハイビジョン特集『終わりなきファイト“伝説のボクサー”カシアス内藤』(10年)などテレビドキュメンタリーも多数手掛けている。

 インフォメーション:
『禅と骨』
2016年 / 127分 / HD 16:9 / 5.1ch 配給:トランスフォーマー
9/2(土)より、 ポレポレ東中野、キネカ大森、横浜ニューテアトルほか全国順次公開

www.transformer.co.jp

Interview 004 黄インイクさん(『海の彼方』監督・プロデューサー)インタビュー

八重山諸島の台湾移民」を粘り強く探求し描く、家族のドキュメンタリー 

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『海の彼方』を監督・プロデュースした黄インイクさんにインタビューした。本作は『狂山之海(くるいやまのうみ)』(日本統治時代、沖縄へ移民した台湾の人々を描くことをテーマにした黄監督の長編ドキュメンタリー3部作)シリーズの第1弾となるとのことで、シリーズ企画の意図やこだわりについて伺った。「八重山諸島の台湾移民」というテーマに興味を持ち、東京の大学院在学中から沖縄へ通い、リサーチを重ねた。綿密な調査による妥協のないパラメータ選定、そこから人脈をたどり信頼関係を構築するコミュニケーション力も光る。黄自身も台湾出身だが、見知らぬ土地で、しかも黄らの世代では話す人の少ない純粋台湾語を話す人々への取材。言葉に苦労する黄に両親からの優しいサポートもあった。台湾と八重山諸島の「近さ」に目をつけ、そこから始まる人の流れと戦争を挟む壮絶な移民の歴史について図解や絵による解説もわかりやすい。石垣島に住む移民一世、玉木玉代さんの三男が経営する「アップル青果」にある懐かしい家族の匂いに強烈に惹きつけられて作った3部作の第1弾。石垣島の台湾移民の過去、現在、未来を描く家族ドキュメンタリーはほのぼのとして、台湾文化センターで行われた試写会では幾度となく笑いが起こっていた。続くシリーズ2作品の制作のため、クラウドファンディング支援者を募集中とのこと。ぜひ映像満載のサイトをチェックしてみて下さい。

聞き手&写真:福嶋真砂代

 

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■「八重山の台湾移民」というテーマに興味を持った

ーー本作は「狂山之海」3部作シリーズの第1弾になるということですが、このシリーズを企画しようと思った動機を教えて下さい。

まず「八重山の台湾移民」という比較的手つかずだったテーマがあって、以前から学校の授業で聞いたり、本で読んだりして気になっていました。私は2013年から調査のために八重山諸島に通いましたが、実際に行ってわかったことは、これを映画化するのはとても難しいということでした。ハードルが高いと思いました。たくさんの台湾移民がいる中で代表的な人を見つけだし、どうやって映画に進もうか、とても時間がかかりました。彼方此方、離れて住んでいる約150名の移民の方にインタビューを行いました。インタビューしながら考える時間も含めて、全部で1年半くらい調査にかかりました。どうやってこのテーマを世の中に届けるか。単純にたくさんのインタビューをまとめて見せるという映画はやりたくなかったのです。どういう表現でやろうかと悩み、2015年の初めに最終的に3部作という構成になったのです。そこにたどり着くまでに2年くらいかかりました。

ーー2013年からリサーチや数多くのインタビューをして考察を重ね、2015年に3部作にしようと決まったと。

そう、ようやくハマったんです。歴史も勉強しながらわかったことの中で、いちばん重要な点は、台湾と八重山は近いということ。距離的に近いから、違う年代で交流したルートがたくさんあるということです。まず「パイナップルと水牛農民」を描き、2番目の「西表島の炭鉱」はこの次の作品ですが、パイン農民よりも1020年前に来ていた人たちについて、そこにはとても残酷な話があります。2013年に八重山を訪れてすぐに撮り始めたのは、移民三世の伝統舞踊「龍の舞」をやっている人たちの活動で、これが3部作の最後です。このように3人の主人公で、3部作を表現する形に決まりました。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■「家族のドキュメンタリーが撮れる!」と思ったお掃除シーン

ーー第1弾の主人公として、石垣島の玉木玉代さんを撮ろうと思った決め手はなんだったのでしょう。インパクトのある女性ですね。

正直ここまで撮れるとは想像できなかったんです。もっと客観的に考えていて、3部作の1本目としてまず「八重山諸島に台湾人がいる」ということを最初に見せたいと思いました。そこから考案したのは、たくさんのインタビューで構成するのではなく、主人公をを中心にした「家族のドキュメンタリー」にしたいということです。家族を題材として、「家族史」から大きな歴史が見えるような被写体を選びたいと思いました。そんななかで、移民一世でお元気で、昔の記憶を話せる、魅力ある人を探していました。
最初は玉木家次男の茂治さん(アップル青果経営)と三男の文治さん(居酒屋経営)しか知りあっていなかったので、玉木家の全体像が見えませんでした。もっと家族のことを知りたくて茂治さんに案内してもらいました。それから「アップル青果」に通い、インタビューをしながら「この家族はどんな家族だろう」と観察しました。アップル青果は素敵で、店の前で子供が遊んでいたり、いつも活気がありました。玉代さんは、そんな元気なお店のヌシのようなおばあさんで、「この家族いいな」と思いました。それから玉代さんの米寿のお祝いや台湾に行く話も聞いたので、ぜひ密着したいと思ったんです。最初に「いける!」と思ったのは、米寿のお祝いの準備の家の掃除シーンを撮った時です。お祝いの会のために遠方から帰ってきた人もいたり、久しぶりに会う家族の団欒が撮れていたんです。カメラは邪魔しないし、影響もそれほどしていない、ここまで撮れるのかと、そのシーンのラッシュを見て、「あ、家族ドキュメンタリーが撮れる!」と思い、「できそう」という自信になりました。玉木家を撮るきっかけになった重要なシーンで、そこから始まりました。

ーー撮影隊と家族との距離感が絶妙で、近すぎず、遠すぎず。どうやってあのような距離感を作れたのでしょう。撮影前に玉木家と打ち合わせのようなものをしたのですか?

実は玉木家は『狂山之海』3部作のいちばん最後に選んだ家族です。それ以前に、他のふたつのドキュメンタリーを撮りながら、1年以上に渡って玉木家の様子を見る時間がありました。それと、お祭りなどのイベントで、中心メンバーとして活躍している彼らの方から、周りでウロウロしている撮影隊は逆に見られていたんです。ある日、茂治さんが「うちのおばあちゃんがいろいろ知ってますよ、話を聞かないか」みたいに声をかけて下さいました。その前にも玉代さんに会ってはいたのですが、ちょっと、怖い雰囲気があって話しかけられなかったんです(笑)。

ーー玉代さんが、昔、迷惑な客を追いかけて草履で叩いて懲らしめた、みたいな武勇伝を紹介するシーンもありました。強い方なのですね。

強いですよ。会ったばかりの頃はご自分で自転車に乗っていて、地元一強いおばあさんという感じでした。茂治さんが家族の全体像が見えるように導いて下さって、たくさんインタビューができました。そのようにどんどん親しくなり、インタビュー時間も長かったので、生活などの撮影に入る頃にはすでにお互いをよくわかる関係性ができていました。準備にたっぷり時間をかけて関係の基礎が出来上がっていたので、いきなり撮影に入るということではなかったのです。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

八重山は人類学的にも、とても貴重な地域

ーーその後は台湾旅行に密着されましたが、どれくらいの期間でしたか?

4、5日間です。玉代さんの体調もあるのでそんなに長くは旅行できなくて。

ーーしかも大雨の中、大変でしたよね。玉代さんが台湾で、台湾語を話し出すと、急に少女に返ったように可愛らしく、石垣にいる時とは違う感じになっていました。ところで、黄監督は台湾語を話しますか?

私の世代は中国語です。台湾語は、ある程度の理解はできますが、話すのは下手です。沖縄の台湾人に興味があるのは、まさにそこで、戦前に沖縄に渡った人たちなので、戦後の教育を受けずに台湾語しか話せない台湾人であることです。台湾にはもうそういう人はあまりいないので、とても特殊で、そこに興味を覚えました。とても昔風で、昔の言い方、難しすぎて聞き取れない言葉がたくさんあります。1年半の間に、私もけっこう台湾語がうまくなりました(笑)。沖縄弁の日本語も、台湾語もたくさん勉強しました。このように中国語の影響がない難しい言葉を話す人たちが住む八重山は、人類学的にもとても貴重な地域なのです。

ーー他の文化や民族の影響を受けずに、そこに純粋に生き残った言葉なのですね。

そう、「純粋」です。タイムスリップしたみたいです。本当に難しすぎて聞き取れないので、録音した音を私の両親に聴いてもらって解読してもらいました。両親も「難しい、でも懐かしい言い方ね」と言っていました。

ーーではご両親に言葉をちょっと助けてもらったのですか。

ちょっとではなく、かなり(笑)。字幕を作る時にもチェックしてもらいました。とは言え両親は映像の仕事はしていないのですが。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■「家族の視点」のドキュメンタリーにこだわった

ーーところで玉木慎吾さん(SHINGO☆:メタルバンドのベーシストとして活躍する、茂治さんの息子)をナレーターとして起用しましたが、若者世代として、現代と過去をつなぐ「ブリッジ」のように、敷居を低くしてくれている気がします。ナレーション作りは一緒に? それとも黄監督が作ったのですか?

ここは自慢したいところです。なぜなら、これは彼ら家族のドキュメンタリーで、監督視点ではなくて、家族の視点で作りたいと思っていたのです。そこで彼らの協力に加えて、彼らの参加も同じように重要だと考えました。被写体として「撮られる」ということだけではなく、台湾旅行中でも何を考えていたか、声を聴きたいと思いました。そこで、語り手は家族の誰かがやってほしいと思っていたのですが、バランスを考えると、東京に住む慎吾さんが移民三世として家族を見るのがふさわしいと思いました。未来(=現在)の代表としても、三世の人たちに入ってほしくて、歴史の部分は私たちが歴史資料を参考にして書きましたが、それ以外のところは慎吾さんにインタビューしたものを基にしたり、台湾旅のパートは、慎吾さんのブログの言葉を使ったりしてナレーションを作りました。

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

■彼らの日常はここ、石垣にある

ーー英語のタイトルは「After Spring, The Tamaki Family・・・」となっていますね。台湾旅行が「2015年の春」で、「After Spring」はその後ということなのですね。その構成もおもしろく、「米寿のお祝い」が第1パート、「台湾旅行」が第2パート、そして第3パートには石垣に戻った彼らのその後が映されます。クールダウンした穏やかさを感じましたが、そこに込めた監督の思いは?

実は台湾で上映した際に、「第3パートが長い」という感想がありました(笑)。クライマックス、例えば台湾に行って感動があり、泣くシーンで終わりというのが商業映画の常道ではないかと私も思います。なのに「なぜまた石垣に戻るんですか?」と訊かれました。なぜこのような編集にしたかというと、彼らの生活、人生、将来は、あくまでも石垣にあるのだと思います。その意味では、台湾人であっても「石垣の人」だと思います。何十年ぶりに台湾に帰ったというのも、特別のタイミングで、あれは通常の彼らではないのです。だから制作者としては、台湾のシーンで終わるのはおかしいと思いました。台湾旅行を経て彼らの生活には変化がありましたが、第3パートは彼らの日常であり、家族の魅力的なところなのです。米寿は88歳の特別なお祝いですし、台湾訪問も特別でした。でも彼らの日常はここ、石垣にある、ということを見せたかったのです。2015年の春には私たちも彼らと一緒に素晴らしい場面を見ました。家族と一緒に成長したと思います。そうした後に彼らにどんな変化があるのか、「After Spirng」の第3パートを作りました。派手な場面ではないですが、お祭りのお供えをしたり、ちまきを作ったり、買い物したり、笑ったり、そんな日常生活が魅力的だと思いました。

ーー「ちまきシーン」は「お掃除シーン」と並んで素晴らしいシーンです。「時期が来たら死ぬ運命よ」という玉代さんの言葉も響きます。最後にボーナスカットのカラオケシーンが入っていますね。

最後のカラオケは茂治さんのホームビデオの映像です。最初ホームビデオがあるという話は全然知らなかったのですが、制作途中、信頼関係ができた頃に、見せてもらったんです。もちろんプライベート映像なので、すべて確認の上で、許可をもらって使わせてもらいました。編集段階でも茂治さんに意見をいただいたり、コミニュケーションを十分とりました。だからこそ素晴らしいホームビデオをこれほど使わせてもらえたのだと思います。これは宝物です。

ーーなるほど、すごく近い距離で家族を見ているという感覚は、ホームビデオの映像も新たに撮影された映像も、うまく融合されて頭のなかにどんどん入ってくるからなのですね。ところで黄さんは、台湾の大学では放送学科、日本でも大学院で映画を勉強されたのですね。

台湾では映画を勉強していました。東京造形大学大学院在学中はすでにかなり沖縄に通っていました。いま撮影組にもうひとりカメラマンがいますが彼は東京造形大学の後輩で、いま一緒に沖縄に住んで映画制作をしています。

(※このインタビューは2017年7月7日に行われました。)

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(c) 2016 Moolin Films, Ltd.

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インフォメーション:

■監督次回作のクラウドファンディング支援者求む!!
黄インイク監督が次回作、西表島の炭鉱を舞台とした映画『緑の牢獄』を制作中!
詳しい情報は、下記HPにて
「狂山之海」三部作サイト:

http://www.yaeyamatrilogy.com/

uminokanata.com
配給・宣伝:太秦
2017年8月12日(土)よりポレポレ東中野ほかにて全国順次ロードショー

 

Interview 003 長谷井宏紀さん(『ブランカとギター弾き』監督・脚本)インタビュー

「この人たちと出会って、自分が見たかった”場所”、自分が感じたかった”場所”を脚本にした」

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初の長編監督作品『ブランカとギター弾き』(脚本も)が公開になる長谷井宏紀さんにインタビューした。「お母さんをお金で買います」と書かれたビラを街に貼り歩くフィリピンの孤児のブランカが、路上のギター弾きの老人ピーターと出会い、一緒に旅をし、やがて本当の愛を見つける物語。スモーキーマウンテン(四ノ宮浩監督のドキュメンタリーでも描かれたマニラのゴミ山)に通い、スラムの子どもたちと交流を重ねた長谷井さんのかけがえのない体験が原点になっている。日本人として初めてヴェネツィアビエンナーレヴェネツィア国際映画祭の全額出資を受け、イタリアチームの日本人監督として、オールフィリピンロケを敢行、「この人たちと出会って、自分が見たかった”場所”、自分が感じたかった”場所”」を撮り上げた(フィリピン在住の大西健之撮影監督による柔らかな映像美も必見)。ヴェネツィア映画祭シネマカレッジのことや作品に込める思い、さらに愛すべき「セバスチャン」との撮影秘話も語ってくれた。セバスチャンの涙、そして呼び戻されていたとは…… 。

聞き手&写真:福嶋真砂代

 ヴェネツィア国際映画祭シネマカレッジのこと

ーー冒頭、空からスラムの街並みの屋根を映し、グーっとブランカにフォーカスされるシーンで一瞬にして惹き込まれました。全体にスモーキーな色合いも渋いギターの音色と融けあって素敵でした。本作を作るきかっけとなったヴェネツィア国際映画祭シネマカレッジでのワークショップについて、どのように進んだのか教えて下さい。

ありがとうございます。シネマカレッジのプロジェクトはトータルで10ヶ月間ですが、ワークショップは全部で3週間、1週間ずつ3回やりました。最初に選ばれた16ヶ国の映画人たちが作品の企画を持って集い、他にプロデューサー、脚本家、エディターなどプロフェッショナルたちも参加して、彼らと話をしながら企画を高めていきます。ある程度ストーリーを決めて、一度それぞれ持ち帰ります。脚本を書いてまた戻し、最終的に3作品に選ばれました。あとの2作はポーランドとアメリカ、そして僕たちのイタリアチームでした。その後は出来上がった脚本に磨きをかけていくというワークショップがありました。並行して、資金的な部分、どういうバジェット配分でプロジェクトを形にしていくかを話し合います。それについては、僕のパートナーのプロデューサー、フラミニオ・ザドラが他のプロデューサーたちと話を進めていきました。このような流れで企画を、現実に「撮影」に持って行くまでを詰めます。ただ、僕らの映画はフィリピンを舞台にした映画なので、バジェットについてはフィリピンサイドと話をしなければ進められないという限界もありました。

ーーフィリピンのスタッフはどのように?

ヴェネツィアにいるときに、すでにフィリピンのラインプロデューサーを決めていたので連絡をとっていました。

ーーつまり、イタリアのチーム、日本人の監督、フィリピンでの撮影、ポストプロダクションの韓国と4ヶ国にまたがる作品なのですね。イタリアチームの日本人監督という異色なポジションだと思いますが、居心地はどうだったのでしょう?

まったくと言って特別という感じではなかったです。国の違いよりも、ひとつの企画に対して、これを形にしたいという人たちと組むというだけで、それがたまたまイタリア人チームだったということなんです。

ーーイタリアのスタッフは、エミール・クストリッツア監督との交流からつながっているのですか?

いや、これはまた別のつながりなんです。僕がセルビアに住んでいた頃ですが、ヴェネツィアの映画祭に遊びに行き、偶然レストランで出会ったんです。当時の僕のガールフレンドとファティ・アキン監督が顔見知りで挨拶をしていたところ、アキン監督に出資していたのがいまのザドラプロデューサーの会社で、僕の短編を見せたら「絶対一緒にやりたい」と言ってくれて、そこからスタートしました。

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ⓒ2015-ALL Rights Reserved Dorje Film

ピーターやブランカを尊敬し、かっこいいなと思うからこそできた映画

ーーシネマカレッジの映像をネットで観ましたが、ザドラプロデューサーは「フェアリーテール」という言葉で紹介していました。この映画には、フィリピンのスモーキーマウンテンに通って子どもたちと交流し、多くの時間を積み重ねてきた監督が、肌で感じてきたことが染み込んでいると感じます。人身売買や病気の蔓延などゴミ山やスラムの過酷な現実は知られていますが、映画はそこに何か「魔法」をかけたように美しいです。どのような化学変化を起こそうとしたのでしょうか。

自分自身も楽しみたいという気持ちもありますが、簡単に言えば、あまりネガティブなものを不特定多数の人とシェアしたくないということなんです。人身売買はもちろんネガティブなことですが、ではゴミ山で働く子どもたちはネガティブかというと、ネガティブではないのです。それを「かわいそう」と思うのは、物を持っている立場の視点でしかないのです。いったん彼らの中に入ってしまうと、そこには日常があるわけです。もちろん厳しい部分もたくさんありますが、描き方として「もうひとつの視点」がないとフェアじゃないというか、そこは大事にしたかったことです。僕はピーターやブランカを尊敬するし、かっこいいなと思うんです。セバスチャンにしてもそうです。まず彼らに対しての敬意があって、それを踏まえた上で表現したかったんです。

僕自身も彼らとずっと一緒に過ごしていたわけではないのですが、そこもあまり問題ではなくて、ゴミ山で生活したからと言って表現が「本物」になるということではないんです。例えると、ヘビが届かないシッポを追いかけているようなもので、特に答えは出ない、そこがいちばん大きな問題ではないのです。この人たちと出会って、自分が見たかった場所、自分が感じたかった場所を脚本にしているんです。架空のお話ですが、映画の制作にあたって本当の自分たちの「未来」になったりもするわけです。僕らだって明日も、1時間後も、このインタビューが終わった後のことも本当はわからない、どこを歩くかもわからないわけです。それもクリエイションですから。でもそんなクリエイションを毎日できるわけがないから、せめて映画では「こういう人生を味わってみたい」というクリエイションをしたと言えます。そこは温かいものであってほしいし、それをお客さんとシェアしたかったんです。

 

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ⓒ2015-ALL Rights Reserved Dorje Film

 ◆歩いて歩いてやっと見つけたセバスチャン

ーーピーターとブランカがすばらしく、またセバスチャン(ジョマル・ビスヨ)にもとても惹きつけられました。

セバスチャン最高ですね! 彼を見つけた時はほっとしました。2ヶ月探しても見つからなくて、歩き続けてやっと見つけたんです。

ーー見つけた時のセバスチャンの反応はどうでしたか? びっくりしてましたか?

それほどびっくりしなくて、ダイアログを渡してアシスタントに通訳してもらうと、その場で言ってくれて「めちゃおもしろい!」となり、そのままワークショップに来てもらいました。そこからはもう本領発揮。セバスチャンとしてのキャラクター、ラウルやブランカとの関係性もしっかり理解した上で演じてくれました。ブランカとの別れのシーンがありますが、ブランカを解放するのを助けるくだりで、セバスチャンが少しウルッときているんです。あれは実はセバスチャンのラストカットで、脚本ではラストシーンにはセバスチャンはいなかったんです。別れのシーンを撮った時に彼の出番は終わりで、クルー全員がセバスチャンに対して感謝とお別れの言葉を告げているのに反応して泣いてくれたんです。でもその後セバスチャンに会いたいと、役は無くてもセバスチャンが来てくれないかと思い、「だったらそれをシーンにしちゃえばいい」という話になってきて、「そうだ! 最後はセバスチャンもあそこにいるべきだ」と脚本が変わりました。

ーーセバスチャンも一緒に映画を観ましたか?

回観てます。1回目はセバスチャンの住む街に行って、子どもたちと一緒に観ました。でもあいつらは黙って観ない(笑)。ずっと自分の出てるところは「イエーイ!」という感じ、でも最後は集中してたかな。2回目に、フィリピンの映画祭で子どもたちと一緒に大きな劇場で観たときは幸せでした。シーンごとに爆笑があってね。

ーー他にもストリートの子どもやトランスジェンダーの人など多彩な方々が出演してました。その中で悪い女性の役と、クラブの支配人はプロの役者でしたか?

そう、あの悪い女の人はルビー・ルイスという、フィリピンでは女優賞を受賞したことのある女優さんです。

ーー電気屋の前でブランカとテレビを一緒に観ていたインパクトのある男性は?

そうそう、彼も役者なんです!

 

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ⓒ2015-ALL Rights Reserved Dorje Film

笑わせてくれるピーターのギターの魅力

ーーピーター(ピーター・ミラリ)について、残念ながら映画を観ずに亡くなられて、でも葬儀の場で上映会をしたという感動的なエピソードもあるとのことですが、もっとも印象に残っていることは?

僕はやっぱり彼のギターが好きなんです。なんというか、笑えるんです。ギターの音色で「ぷっ」と笑えるってなかなかないですよね。なんだかニコっとなるんです。「わ~感動した!」というのではなく。そういう「ギター」ってスゴイなと思うんです。心を柔らかくしてくれるギターなんですね。本当は彼の弾く楽曲を使いたかったのですが、権利関係に引っかかって使えなかったんです。彼は楽譜を見て学ぶのではなく、その当時、街に流れていた70-80年代のヒット曲を耳でキャッチして弾いているので、いろんな年代のヒット曲が1曲のなかに混ざっているんです。フィリピン音楽を研究している芸術大学の教授に確認してもらってそれが分かり、そんなわけで映画では新しく作曲家フランシス・デヴェラに作ってもらった曲をピーターに弾いてもらいました。

 

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ⓒ2015-ALL Rights Reserved Dorje Film

 ーーブランカが劇中で歌う歌「カリノサ」は、フィリピンの民族音楽に監督が詞をつけたのですね。ずっと耳に残る曲でした。

そうです。サイデル・カブテロのマネージャーに聞いたら「俺は知らない、よくこんなの見つけたな」なんて言われましたが(笑)。でもサイデルのお母さんに聞くと、やっぱり昔からあって、曲に合わせて子どもたちが踊る曲と教えてくれました。

ーーYoutubeで、サイデルさんが歌うのを見てキャスティングしたということですね。またプレス資料によると「3人のブランカ」が存在したのだと。2人目のアンジェラについてのエピソードもなんともドラマチックです。そして最終的にはサイデルを起用することができたと。(編集部注:当初、遠くに住むサイデルの出演は困難と判断し、2人目のアンジェラという女の子を路上で見つけたが、演技的に難しいという理由で断念した。3人目は実在する11歳の少女で、実際にピーターと一緒に歌を歌い、ステージに立っていたという。)

そう、僕は最後までアンジェラにしがみついていたんですが、どうしようもないということになったときにサイデルが現れてくれて……

 

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ⓒ2015-ALL Rights Reserved Dorje Film

魔法のような映像の温もり(撮影監督について)

ーー柔らかく、温かい映像が印象的でしたが、撮影監督の大西健之さんはフィリピン在住のタガログ語も話すというカメラマンだそうですね。

彼の経歴はユニークで、LAで映像を学び、日本に帰らずにフィリピンで映像の仕事を始め、すぐに撮影監督になった方です。アシスタント時代がほとんどなく、すぐにコマーシャルなどで活躍しはじめ、フィリピン在住12年くらいだそうです。僕の前作の短編ではイタリア人撮影監督を起用したのですが、いろんな方を知る中で、フィリピンに日本人の撮影監督がいることを知って今回お願いしました。

 ーー2015年に作品が完成し、世界でまず発表されて、満を持しての日本公開となりますね。

これは僕の最初の長編作品になりますが、こんな企画があって、こんな話をみんなで作ろうよと、みんなが情熱を傾けられるような「遊び場」を脚本として提供して、そこにみんなが集まってくれた、そんな感じなんです。正直言うと、こういう作品を日本で公開することはとても勇気がいることだと思うし、配給や宣伝のみなさんにも感謝しています。フィリピンのスラムに住む、純粋に幸せを求め、前向きに生きるブランカという少女の物語です。最初はお金でモノが手に入り、お母さんもお金で買えると思っていた。そういう場所にいた彼女がピーターと旅をしていくなかで辿り着いたのは、ピーターとブランカの間にできた「家=居場所」です。同じように、映画も、いろんな人と出会いながら、いい形で人と人の間に芽生える何かに繋がっていっているという感覚が日々あります。インタビューで話したり、試写会で観客の方々と話をしたり、サイデルが今回来日したことも含めて、いろんなことが前へ向かい、映画自体いろんな人に助けられていることが、ブランカもピーターに助けられ、ピーターとの間に温かいものを感じたことに重なります。そういう温かいものを感じながら映画が進んでいるなというふうに感じています。

 ーーセルビアから戻られて、現在は東京を拠点にされているそうですが、これからも世界を舞台に映画を撮る予定ですか?

そうですね。大事なのは、どこにでも置き換えられる物語にしたいということです。いま脚本を書いているところですが、頭の中にもまだ企画がいろいろあります。

ーー楽しみにしています。

(※このインタビューは2017年7月14日に行われました。)

プロフィール:

はせい こうき/岡山県出身。映画監督・写真家。セルゲイ・ボドロフ監督『モンゴル』(ドイツ・カザフスタン・ロシア・モンゴル合作・米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品)では映画スチール写真を担当し、2009年、フィリピンのストリートチルドレンとの出会いから生まれた短編映画『GODOG』では、エミール・クストリッツァ監督が主催するセルビアKustendorf International Film and Music Festival にてグランプリ(金の卵賞)を受賞。その後活動の拠点を旧ユーゴスラビアセルビアに移し、ヨーロッパとフィリピンを中心に活動。フランス映画『Alice su pays s‘e’merveille』ではエミール・クストリッツア監督と共演。2012年、短編映画『LUHA SA DISYERTO(砂漠の涙)(伊・独合作)をオールフィリピンロケにて完成させた。2015年、『ブランカとギター弾き』で長編監督デビューを果たす。現在は東京を拠点に活動中。

インフォメーション:

ブランカとギター弾き』

配給:トランスフォーマー

2017年7月29日(土)より、シネスイッチ銀座ほかにて全国順次公開

www.transformer.co.jp

Report 006『ユリゴコロ』キックオフ記者会見

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7月9日、東京国際フォーラムで行われた『ユリゴコロ』キックオフ記者会見。撮影終了したばかりのメインキャストと熊澤尚人監督が勢ぞろいしました。木村多江さんのドレスがひときわゴージャス。なんだかバックのロゴの「ユリ」の「リ」からドレスの白いラインに続いて伸びているかのように見えなくもない(狙ってないと思いますが)。みなさんの黒を基調にした装いが真紅のバックによく映えてゾクゾク。過去パートと現代パートに分かれて撮影したために、それぞれのパート出演のキャストが現場で会うことがなかったようで、この会見で「どうも」という感じで、言っちゃいけないこともあるから探り探りそれぞれ話をしているところがおもしろかったです。

9.23公開ということですが、秋には、これまた沼田作品『彼女がその名を知らない鳥たち』も公開されます。(試写を観ましたがすばらしかった)となると、『ユリゴコロ熊澤尚人監督 vs『彼女が・・』白石和彌監督というめくるめく秋の戦いが繰り広げられるのですね。気づいたのは、両作品に松坂桃李が出演していること。同じ作家の作品に同時期に出るっていうのもまた何か運命的な力も感じます。ちなみに『彼女が・・』の松坂くんの演技は振り切れてました。軽く3塁打とか打っちゃうバッターのよう。めきめき最近実力つけてますね。『彼女が・・』の主演、蒼井優阿部サダヲもまた凄い。どうやらこの2作品は”怪演 vs 怪演”の恐ろしい火花が立つのが遠くの方から見えてきました。そんな意味でも『ユリゴコロ』、とても楽しみです。

公開:2017年9月23日(土)
脚本・監督:熊澤尚人
配給:東映、日活
出演:吉高由里子松坂桃李松山ケンイチ佐津川愛美清野菜名、清原果耶、木村多江 

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