REALTOKYO CINEMA

リアルトウキョウシネマです。映画に関するインタビュー、レポート、作品レビュー等をお届けします。

Review 22『残像』

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(C)2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 – Lodz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage- Fundacja Tumult All Rights Reserved.

 

アンジェイ・ワイダ監督の「遺言」の今日的意味

2016年10月、90歳で急逝したアンジェイ・ワイダ監督の遺作が公開になった。彼の「遺言」の今日的意味の重さを噛み締めたい。今日的な意味。「自由」が完全なる「自由」でなくなる危うさ。監視、検閲、言論統制、危険な言葉がまとわりつく昨今..。遠い国、あるいは遠い昔にあった話かと思っていたことがいま身近に、日常に起き、この映画の状況と似てきていることにゾッとする。舞台は第二次世界大戦後のポーランド社会主義政権による弾圧が強まる状況下、強靭に闘った不屈の画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893-1952)の晩年の4年間を描く。第一次世界大戦時、ロシア軍工兵として参戦中に重症を負い、片手片脚を失っている。不自由な身体だが、ポーランド構成主義の前衛画家として高く評価され、ウッチ造形大学では精力的に真の芸術を教え続ける。大学の野外講義の冒頭シーンはのびのびとした空気を吸う。離婚した妻の元にいるかわいい娘のニカ。父を心配し様子を見に来るが、女子学生と部屋で鉢合わせし、ヤキモチを妬いたりもする、その描写がとても微笑ましい。そんな柔らかい空気も束の間、ポーランドは戦後ソヴィエト連邦の勢力圏に組み込まれ、部屋の窓がプロパガンダの垂れ幕の赤色に染まる現象に象徴されるように、全体主義の影が国中に覆いかぶさる。空気は一瞬にして硬直していく。恐ろしいほどの変化はあっという間だ。しかしストゥシェミンスキは闘い続けた。それは完全なる孤独な闘争。同じくワイダ監督の描いたワレサ(『ワレサ 連帯の男』)も闘争した。しかしワレサは家族とパン(生きること)を捨てなかった。画家はパンも、家族も、文字通り命さえも投げ出す。そうまでして守りたかったものとは…。大学を追放され、芸術家としての尊厳、名声も奪われ、絵を描くことさえ奪われた。身体は病魔に蝕まれ、しかし最後の最後まで精神の自由、芸術の自由を信じた。自由を死守することの厳しさ大切さを、いま、もっともっと感じなければならない。主演のボグスワフ・リンダが素晴らしい。タイトルは、ストゥシェミンスキの作品シリーズ「光の残像」(1948-49)に由来している。

福嶋真砂代★★★★★

zanzou-movie.com

残像 | 岩波ホール

監督・脚本:アンジェイ・ワイダキャスト:ボグスワフ・リンダ、ゾフィア・ビフラチュ、ブロニスワバ・ザマホフスカニ他

2016年/ポーランド映画ポーランド語/99分/カラー/シネマスコープ/5.1ch/DCP/配給:アルバトロス・フィルム/後援:ポーランド広報文化センター/提供:ニューセレクト/宣伝:テレザ、ポイント・セット

2017年6月10日(土)岩波ホールほか全国順次ロードショー

Interview 002 ローラ・イスラエルさん(『Don't Blink ロバート・フランクの写した時代』監督)インタビュー

会ってみると飾り気のない、意外と「普通のひと」だったことが逆に嬉しかった

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『Don't Blink ロバート・フランクの写した時代』を監督したローラ・イスラエルさんにインタビューした。ニューヨークの伝説的芸術家ロバート・フランク(現在92歳)の波乱万丈の人生と、いまもなお異彩を放つ写真や映像作品の数々を、豪華な楽曲とエッジの効いた編集で魅せるドキュメンタリーは、「全ロバート・フランク」としての貴重な記録とも言える。真のアメリカを撮った写真集『The Americans(アメリカンズ)』(1958年)について、写真一枚一枚の撮影当時の記憶をたどるロバートの前に静かに微笑み座るローラさんの姿が印象的。ローラさんは多くのミュージシャンのPVを手がける敏腕編集者としてフランクに出会い、以来長年にわたり多くの作品を共に作ってきたフランクの強力な右腕であり理解者。お互いにポストカードをやりとりするチャーミングな習慣も教えてくれた。ロバートの「気難しい芸術家」というレッテルとは裏腹に、そんな彼女だからこそ撮れた、ローラさん曰く「意外と普通のひと」というフランクの素顔、さらに互いに助け合うニューヨークのアーティストコミュニティの関係性の興味深い話もあり、盛り沢山語ってくれた。

取材&写真:福嶋真砂代

「過去は振り返らない(Never go back)!」とロバートが答えた

ーーニュー・オーダー の『Run』(1989年)のPVで初めてロバート・フランクと一緒に仕事されたと伺いました。

ニュー・オーダーが所属するファクトリー・レコードに知り合いがいて、ニュー・オーダーPVの編集を数多く手がけていました。編集の私といろんなアーティストを組ませてPVを作るという企画があって、次は写真家のロバート・フランクだよと言われ、すごく嬉しかったのを憶えています。なぜなら私は映像の前に写真を勉強していて当然ロバート・フランクのことは知っていたので、一緒に仕事ができるというので興奮しました。

ーーローラさんにとってはヒーローに出会ったような感じなのですか。

そうですね、ヒーローとの出会いでもあったし、でも会ってみるとロバートが飾り気のない、意外と「普通のひと」だったというのも逆に嬉しいことでした。ある時、ある程度映像を選んで編集していて、「いまこの映像を選んだけど、この先また戻って見直したりしますか」と聞くと、ロバートは「過去は振り返らない(Never go back)!」と答えて、そういうところは私とすごく感性が合うと思いました。

ーーそれからはずっと一緒に仕事を?

その後いい関係が続いて、ロバートは2年に1回くらいは映画やビデオインスタレーションなどを作っているので、その仕事を一緒にしています。まず彼は「僕のことを知ってほしい」と写真集、映像、映画など、自分の作品を私にすべて渡しました。ニュー・オーダーの時はいわゆる「仕事!」っていう感じでしたが、ロバートの仕事の仕方としては、まず人間関係を作り上げた上で仕事をしていくということを求める人だと思います。友達としてパーソナルなつきあいをして、奥さんとも仲良くなったり、そうやってロバートのグループの中の一員になっていった感じでした。もちろん私のことも知ろうとしてくれました。NYノバスコシアにあるロバートの家のどちらにも行きました。NYでは近所に住んでいるので道でばったり会うこともあるし、NYで作った映像を私が編集して、それをノバスコシアに持って行ってまた作るとか、常に進化していくような作品の作り方をしました。実は私はポストカードコレクターなので、彼の家にポストカードをドロップして「Say hello」してから仕事に行くとか、彼もポストカードが好きだと知っていろいろ集めて、すぐペンパルになりました。

ーーなるほど、ふたりは”ポストカードペンパル”なんですね

ちょうど2週間前にも、私が時間がなくて友人に頼んでポストカードドロップしてもらいました。ロバートはだいたい年の半分ずつNYノバスコシアに住んでます。以前は冬もノバスコシアは美しいので住んでいたようですが、映画でも映ってますが、冬は海も凍ってしまうし、水道も電気も止まりがちなので、最近は夏に行くようにしているようです。

ーー電話線を15人くらいで共有していて、「電話を聞かれてる」といたずらっぽく言ってるシーンがありますが、あれも大変ですね。

私もそこは好きなシーンです。おもしろいですよね、小さな村で他にすることないから他人の電話をずっとこっそり聞いていたりする、みたいな(笑)。

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Photo of Robert Frank by Lisa Rinzler, copyright Assemblage Films LLC

◆「ロバート・フランク・ルーム」にこもりきりの1年間

ーータイトル通り「瞬きできない」くらい、映画にはたくさんの情報がぎっしり詰まっていますが、編集のご苦労は?

編集のアレックス・ビンガム、それからプロデューサーのメリンダ・ショプシンにも助けてもらいました。「ロバート・フランク・ルーム」と名付けた編集室に1年間こもりきりでしたが、そこでは彼の本や作品にぎっしり囲まれながら、常に編集している感じでした。例えばロバートがアリゾナに休暇に行くとそこで撮った写真をごっそりもって帰ってきたり、写真集も新たに出たり、編集中もそうやっていつも新しい素材が増えていきました。そして何か困った時は、常に彼の作品に立ち戻るという作業を繰り返しました。彼のワークが彼のライフであると言えますからね。

ーーまさに映画は「ロバート・フランク・エンサイクロペディア」という感じで、ロバートのことも、また真のアメリカを知る上でもここに戻ると何かが見つかるという起点になるような作品だと思いました。アレン・ギンズバーグジャック・ケルアックグレゴリー・コーソら、ビートジェネレーションのスター勢ぞろいの短編映画『プル・マイ・デイジー』(1959年)のことをこの映画で知って見てみたらその新しさにゾクゾクしました。

それは嬉しいですね。作品あってのロバート・フランクなので、この映画を観て彼の作品を再発見したり、見直したり、そういうモチベーションになってくれるといいなと思って作りました。また写真集などでは見せる機会のない彼の側面や素顔を観ていただけるといいなと願っています。

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Photo of Robert Frank by Lisa Rinzler, copyright Assemblage Films LLC

 

◆写真集『アメリカンズ』 の革新性、芸術性の高さ

ーーところで、写真集『アメリカンズ』は発表した当初は評価が低かったけれど、10年後にはとてつもない高評価を受けるという流れがあって、現在に至ってさらに再評価されています。ローラさんはどう感じていらっしゃいますか。

今回ドキュメンタリーを撮るにあたってロバートの作品をいろいろ見直して感じるのは、とてもタイムレスな、つまり時間にとらわれていない作品だということです。でもそれ以上に感じるのはアーティスティックに捉えていること。例えば構図的にも芸術的レベルが高いし、その写真があえて切り取ってないもの、あえて撮っていないものが重要であったり、当時もそうでしたが、いまも「革新性」があることが意義深いです。文字を使わずに写真だけで、社会に対するメッセージを伝え、それが決して説教じみてはいない。おもしろいと思ったのは、ひとつの作品に対して実は2、3枚しか撮ってない、意外と何枚も撮らない撮り方なんです。その中でこの1枚。そんな方法の一部を映画の中で(ベタ焼きから選ぶシーンで)見せることができてよかったと思います。『アメリカンズ』は、ロバートがすごく努力して大変な思いをして世の中に出した作品で、それが評価が低かったのは当時はショックがあったとは思いますけどね。編集部注:『The Americans』は1955年から9カ月かけて、10,000マイル、30州を旅し、767本のフィルムを費やして、27,000枚の写真を撮ったー『Don't Blink ロバート・フランクの写した時代』より)

 ーー『アメリカンズ』では2万7千枚から83枚を選んだということだけでもすごいけど、その1枚1枚すべてがものすごくフォーカスされているということですね。

そうなんです。編集者、つまり私のことだけど(笑)、から見ても、そのことを知るだけで感動しますね。確かに人間を映し出したものではあるのですが、アートとしても美しい写真ですね。

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Photo of Robert Frank by Lisa Rinzler, copyright Assemblage Films LLC

彼は映画の中で「写真家はハンターだ」と言ってましたが、そういう捉え方も私も好きです。「いい獲物を獲りに行く」という気概で、朝早くから現場を探して写真を撮り(獲り)に行き、夜帰ってきて、どこか暗室を探して現像するという、一連のことにすごくエネルギーをかけて作ったわけです。その後、ロバートがフィルム(映像)に移行していったのは、もっと人とのコミュニケーションを求めたという理由もあるのかなと私は思ってます。

ーーロバートの仕事仲間の”現像マン”のシド・キャプランをインタビューしてましたね。

ええ、最も長い時間をかけたインタビューのひとつです。ひじょうにおもしろい人で、写真とのつきあいが長くてマグナム・フォト(Magnum Photos)やウィジーWeegee)と一緒に仕事してました。アレン・ギンズバーグも近所に住んでいたのでシドがギンズバーグの現像を手伝ったりしてました。NYのエルトレイン(El Train)という地下鉄が一部地上に出る区間があったんですが、当時の風景をシドが撮った写真展(*1)をやってます。ある意味、彼はニューヨークの歴史家ですよね。ひとつおもしろいエピソードがあるんですが、ジャック・ケルアックの『地下街の人びと(The Subterraneans)』という作品の舞台はサンフランシスコになっているんですが、実はNYのシドが住んでた界隈がモデルになっているんです。ロバートやアレン・ギンズバーグにとっては「すごく懐かしい」という感覚のある作品なんですよね。実はこれは今回の映画には収録しきれなかった部分なんです。

ーーそうすると、今回の未公開の素材もたくさんあるのですか。

そうですね。多くの素材から泣く泣く決断をして選んだ結果、この映画ができました。時系列に編集してもよかったのですが、ロバートはわりに「テーマ別」に物事をやっていくタイプなので、この映画も「テーマ別」にしようと思いました。時々寄り道(detour)をするんですが、脱線しすぎるとどんどんおもしろい話が出てきてしまうので、本線にどう戻ってくるかを気をつけながら編集しました。ロバートの人生もおもしろい脱線が多い人なのですが、作品としては戻すようにしてました。彼の人生はモノがフルにあるので、作品としてそこをどうコントロールするか腐心しました。

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Photo of Robert Frank by Lisa Rinzler, copyright Assemblage Films LLC

ーー編集者であったローラさんにとって、今回は監督として「ロバートを撮る」という、ある意味立場の逆転みたいなことだったと思うのですが、映画からはロバートもそれを楽しんでいるように感じられました。この映画を作るに際して何か意見をもらったのでしょうか、それともずっと黙っていて出来上がりを観て感想を言ってくれたのでしょうか。

最初にロバートは私に小さな「笛」をくれたんですよ(笑)。何かあったらこれで呼んでね、みたいなサインだと思うんですが。ヘンゼルとグレーテルみたいに、パンくず、つまりヒントを落としていってくれたので、それを拾っていくとたどり着ける、そういう感じの手助けをしてくれました。どうしてもドキュメンタリーなので撮っているときはグチャグチャというか、彼方此方に散らばってる感じで、それをどうまとめるかが難しいところではあるのですが、そんな中でちょっと行き詰った時にロバートに相談してみようかなと訪ねると、すかさず「映画はどう?」なんて声かけてくれて、私の顔には「タイヘン」の文字が浮かんでいたと思うんですけど、その時にロバートは「信頼しているから(I trust you)」という言葉をかけてくれました。それで安心したし、自由になれたのと同時に責任重大だとは思いましたけど、次に進む力になりました。ロバートは「最終的責任はとらないけど、何かあったら手助けするよ」というスタンスでいてくれました。撮影始めの頃のインタビューの後、私は2分くらいのトレイラーを作ったのですが、ロバートはそれを見て安心してくれました。実はそのトレイラーは映画のオープニングに使っています。

さらに付け加えると、「Don’t Blink」というタイトルは、ある時、ジャーナリストに「いま写真を勉強している若い人に何か言葉はありますか」と聞かれたロバートが「Keep your eyes open! Don’t blink!」と言って、ああこれぴったり、いただこうと思いました。

 ◆ロバート・フランクとアンソロジー・フィルム・アーカイヴズ

ーー最後に、これは友人からの質問ですが、ジョナス・メカスとロバートはどういう関係でしたか。ロバートは「アンソロジー・フィルム・アーカイブズ」に所属してた時期とかあるのでしょうか。

「アンソロジー・フィルム・アーカイブズ(以下、アンソロジー)」は、簡単に言うとこの映画のスポンサーのひとつとして協力してくれてます。ブリーカーストリートのロバートのアトリエの近くに「アンソロジー」のオフィスがあったので昔からつながりがあります。同じNYに住むアーティスト同士、何かあったらお互いサポートするよという関係です。最近もハリー・スミス(Harry Smith)というアーティストのビデオテープがロバートのアパートからたくさん発見されて、それをアンソロジーが使えるようにダビングしておいてあげたということもありました。またロバートの映画『Sin of Jesus』にメカスが役者として出演してますね。この映画に使ったアーカイブ映像についても「アンソロジー」のアンドリュー・ランパート(Andrew Lampert)が協力してくれましたし、実はランパートはこの映画のプロデューサーのメリンダ・ショップシンのご主人でもあるというつながりもあるんです。私たちはこういうフレンズコミュニティでお互い助け合っていると言えます。

◆おまけ◆

ーーロバート・フランクローリング・ストーンズを撮ったドキュメンタリー映画『コックサッカー・ブルース』は未公開なのですね。

ローラ:はい、未公開です。ローリング・ストーンズ側とロバート・フランク側との取り決めで、年に3、4回までという制限つきで上映はしています。『Don’t Blink』関連のフィルムフォーラムでも上映しました。私も観たことがありますけど、クールでいい映画です。撮影した当時のロックカルチャーの中でドラックとか違法的なことも撮られているので、これをアメリカで上映するとローリング・ストーンズが法的にアメリカに入国できなくなるんじゃないかという危惧もあって、公には上映されてないわけです。そういう背景があるんですが、最近は少しずつ緩やかになってきてますけどね。

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ロバート・フランクがカバーデザインを手がけたローリング・ストーンズ『メインストリートのならず者』のジャケットを見るイスラエル監督 (C)marsha2017

プロフィール:

Laura Israel/米国ニュージャージー州で生まれ、10代の頃からNYのロウアーイースト地区へ写真を撮りに行っていた。ニューヨーク大学在学中からコマーシャルやミュージックビデオの編集で数々の賞を受賞し、大学卒業と同時に自らの会社 Assemblage を設立。制作した主なミュージシャンは、ジョン・ルーリールー・リードパティ・スミスキース・リチャーズソニック・ユースニュー・オーダージギー・マーリーデヴィッド・バーン、アーティストではウィリアム・ウェグマン、ローリー・シモンズ、そしてロバート・フランク。2010年に初の長編ドキュメンタリー映画『Windfall』を監督し、トロント国際映画祭でプレミア上映、Docs NYCでトッププライズを受賞。毎年「フィルムメーカー」誌が選ぶ「インディペンデント映画の注目すべき25人」の一人に選ばれている。

インフォメーション:

監督:ローラ・イスラエル
撮影:リサ・リンズラー、エド・ラックマン
編集:アレックス・ビンガム
音楽:プロデューサーハル・ウィルナー
参加アーティスト:ヴェルヴェット・アンダーグラウンドローリング・ストーンズトム・ウェイツパティ・スミス、ヨ・ラ・テンゴ、ミィコンズ、ニュー・オーダーチャールズ・ミンガスボブ・ディラン、ザ・キルズ、ナタリー・マクマスター、ジョセフ・アーサー、ジョニー・サンダース、ザ・ホワイト・ストライプス
2015年/アメリカ・フランス/82分

配給テレビマンユニオン/配給協力・宣伝:プレイタイム

robertfrank-movie.jp

4月29日(土)より、Bunkamuraル・シネマほか、全国ロードショー

 

 

Run (2015 Remastered Version)

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アメリカンズ―ロバート・フランク写真集

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地下街の人びと (新潮文庫)

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*1:New York Transit Museumにて開催中:

New York Transit Museum写真展の紹介記事(Timeout)

Review 20『午後8時の訪問者』

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(C)LES FILMS DU FLEUVE - ARCHIPEL 35 - SAVAGE FILM – FRANCE 2 CINEMA - VOO et Be tv - RTBF (Television belge)

監督・脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、 リュック・ダルデンヌ
撮影:アラン・マルコアン
キャスト:アデル・エネルオリヴィエ・ボノージェレミー・レニエルカ・ミネラ他
2016年/106分/ベルギー=仏/配給:ビターズ・エンド 

フランス人女優のアデル・エネルを主演に起用した、ベルギーのジャン・ピエール&リュック・ダルデンヌ監督最新作。ロケ地はリエージュ郊外のセラン。ジャン・ピエールは「『イゴールの約束』以来、すべての映画をそこで撮ってきました」とインタビューで答えている。高速道路を走る車を映す寒々とした映像も印象に残るが、それについて「あの高速道路が私たちの発想を促してくれました。車は絶えず高速で通過していきますが、ジェニーの小さな診療所で起こっていることなど知りもしないのです」とリュック。ベルギーにはEU連合本部があり、移民には比較的寛容で、移民の民族、文化、習慣をそのまま受け入れる傾向があるという。しかしそれだけにテロリストの温床となり、2016年のテロ事件の記憶も生々しい。そんな移民やテロが日常にある背景がある。ジャン・フランコロージ監督の『海は燃えている』でも、島民の日常の暮らしに移民や難民問題がほとんど影響しないという現実が見られた。だけど確実に隣り合わせで生きていることも事実なのだ。

今回は、ダルデンヌ作品には珍しく若い女医というややステータスの高い人物を描いているが、彼女の心を掴んで放さないのは、これまでどおり社会の弱者、どうやら「移民」の女性のようだ。女医のジェニー(アデル・エネル)はエリートで大きな病院への就任も決まっているが、臨時で小さな診療所を手伝っている。タバコを吸う仕草、クールな雰囲気、仕事に一生懸命で真面目、なにやら孤独な影をまとっているが、具体的なバックグラウンドは描かれない。携帯電話(たぶんiPhone)を駆使し、運転しながら携帯のナビを使いこなし、イヤホンマイクで会話する現代の若い女性。これもダルデンヌ作品には珍しいハイテクの匂いがする。監督たちが「ほら、僕たちだってiPhone使いこなしてるよ」とユーモア込めて自慢するのが目に浮かんでしまった(勝手な妄想です)。今回はふたりにインタビューできなかったが、これまで2作品でインタビューをした時に、作品のシリアスさと裏腹にユーモア満点の楽しい話のなかで、作品に対する考えや撮影の仕方、リサーチ方法、キャスティグについても、余さず教えてくれた。女医という職業をピックアップした理由を他のインタビューで読むと、「移民排斥問題について、医師の視点から描きたかった」ということで、「警察ではなく、医者が医療行為によって真実を知る、という状況」に興味があったそうだ。確かに脈の速さで嘘を見抜いた「身体に聞く」シーンはおもしろかった。ハイテク機器の駆使についても伺ってみたいところだが、万が一、次回のダルデンヌの主人公がSNSに溺れていたりしたらさらに驚きが増すだろう。

今回のテーマは「償い」と「罪悪感」、そして「追跡」だと監督たちは語っている。ジェニーが時間外だからと見過ごしてしまった「訪問者」について、自分をかなり責めていく。医者という立場ゆえの責任感もあるし、人としてモラルの問題でもある。そのことがきっかけで彼女は研修医ジュリアンへの態度についても反省し、相手に謝罪し、改めると言う。医者と研修医という上下関係があって、一度発してしまった言動について撤回することは簡単ではない。しかしダルデンヌは人間の犯す間違いについて、やり直せるというチャンスを提示する。身元不明の少女が亡くなる経緯にしても、関与した人について単に責めたりはしない。それぞれが何らかの事情があり、そこに至ってしまったのだという考えの幅を示唆する。物事は見る角度によって全然違うのだ。そういうことを静かで優しいカメラワークが饒舌に語る。厳しい現実を見つめながら、いつも人間を信じ、見守る優しさを忘れない。

ところでダルデンヌ兄弟の撮影は、リハーサルにかなりの時間をかけて、そこですべてを決めてしまう方法。現場では無駄のない撮影がトントンと進んでいくということを、アデルも語っている。彼女はそんな映画作りを経て、きわめて興味深い言葉を残す。「ダルデンヌ兄弟との作業を経て『反本能的』な領域に踏み込めたように思っています。私の中の怒りを超えた何かを、ダルデンヌ兄弟は見出してくれたのです。怒りという本能的な感情は私の一部ですが、しかし私という存在はそれにとどまらないのです。」かなりの覚醒があったのだと。

さらにキャスティングには、ダルデンヌ作品の常連さんに混ざって『少年と自転車』の少年のトマ・ドレが出演していた(気づかなかった)のをクレジットで発見。最初のあたり、ジェニーが携帯で呼ばれて往診したリュカくん。衝撃的なルックスをしていたので全然わからなかったけど、こういうところがダルデンヌのニクいトリックなのだ。「ほらね、わからなかったでしょ?」きっと、いたずらっぽく笑うのでしょう。

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(C) Christine PLENUS『少年と自転車』のトマ・ドレ

それにしても、その『少年と自転車』のセシル・ドゥ・フランスの明るさといい、『サンドラの週末』のファブリツィオ・ロンジオーネの存在の安心感といい、それまでは主人公の存在だけで辛くて心をヒリヒリさせてくれたダルデンヌ作品の色合いが変化している感じがある。ただし今回は、女医のジェニーと一緒に戦う味方の存在はなく、孤軍奮闘のたくましさも”男前”だった。そういえばサンドラも負けずに凛としていたけれど。ちなみにダルデンヌ兄弟はステファニー・ディ・ジュースト監督のデビュー作『ザ・ダンサー』の共同製作を務めていますが、伝説のダンサー、ロイ・フラーの刺激的で美しいダンスシーンは見応えたっぷりです。

福嶋真砂代★★★★

www.bitters.co.jp

関連リンク

www.realtokyo.co.jp

www.realtokyo.co.jp

 

映画『ザ・ダンサー』公式サイト

Review 19 & Report 005 『タレンタイム〜優しい歌』、アディバ・ヌールさん来日スペシャルトークショーレポ

 

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(C)Primeworks Studios Sdn Bhd

監督:ヤスミン・アフマド
出演:パメラ・チョン、マヘシュ・ジュガル、モハマド・シャフィー・ナスウィ
2009年/マレーシア/120分/配給:ムヴィオラ

いまこの瞬間(とき)を待っていた、アフマド・ヤスミン監督の遺作公開

タレンタイム~優しい歌(以下、タレンタイム)』は2009年に51歳で急逝したヤスミン・アフマド監督の同年公開された遺作である。日本では映画祭などでの上映はあったものの、本格公開まで8年の歳月がかかった。しかしいまこの瞬間(とき)を待っていたかのような絶妙なタイミングに感じる人は多いのではないだろうか。いまほど世界中で多様性への寛容を真剣に問われることはなかったかもしれない。そう考えるとヤスミン監督は冷静に未来を見つめていたクリエイターだった。マレー系、中華系、インド系、先住民族が共棲し、それぞれがそれぞれの宗教を信仰し、多くの言語が話される国、そんな多様な環境にあるマレーシアに存在する様々な壁を越えることを予測していた。自身の体験を元にしたごく近距離の人間関係を描くストーリーの中で、ことさら強く押しつけることなく、観る人々にも気づきのきっかけをさりげなくもたらす。ヤスミン監督自身も祖母は日本人、またパートナーは中華系という多様さに囲まれていた。次回作の『ワスレナグサ』は日本人の祖母をモデルに構想されていたというからなんとも惜しまれる。

さて、『タレンタイム』は、高校を舞台に、”タレンタイム”(日本でいうと文化祭だろうか)という、タレントを競い合う音楽コンクールに挑む学生たちの葛藤や悩みが描かれる群像劇。それぞれの登場人物の背景を丁寧に描く中で、宗教、民族の違いによって起こる問題(たとえば異なる宗教、異なる民族間の恋愛)などが繊細に織り込まれる。女子学生ムルーの家族は特にヤスミン監督の家庭がモデルといわれ、進歩的な考えを持つ両親や、中国系のメイドが描かれている。おもしろいなと思ったのは、練習で遅くなる女子学生を家に送り届ける男子学生が選ばれ、「タレンタイムの送迎役」という役割を授かる。そこから出会いや誤解、恋が生まれたり、可愛らしいシチュエーションの発端になる。おそらく、レディファーストのような西洋的な教育の一環であり、女性を守るという習慣や精神を育てていて、やや日本では馴染みの薄いユニークな役割を知る。アフマド監督のストーリーテリングの巧みさで、観ているうちにはっとするようなたくさんの小さな気づきを大切にしている。ムルーとマヘシュの恋の行方、やや対立関係にあった中国系学生のカーホウとマレー系のハフィズのエンディングの演出もたまらない。ピート・テオの音楽も琴線に触れる。ヤスミン自身も音楽一家に育ったのだそうだ。とにかく観ながらたくさんの小さな発見をすることはヤスミン作品の醍醐味だ。

◆ヤスミン作品に欠かせない女優アディバ・ヌールさん来日

こうして思い浮かべるとヤスミン監督のどの作品にもあたたかい「真心」を感じる。その現場とはどんなだったのだろうか。ヤスミン監督6作品のうち4作品に出演し、『タレンタイム』ではアディバ先生を演じた、歌手でもあるアディバ・ヌールさんが初来日、トークショーでは貴重なヤスミン監督との思い出や作品の魅力を語ってくれた。

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京都大学山本博之教授、ムヴィオラ武井みゆきさん、アディバ・ヌールさん(イメージ・フォーラムにて)

アディバさんが女優になったきっかけは、英語教師をしていた1994年頃にカラオケにはまり、毎日のように”放課後”に通っていた。彼女の歌を友人が録音しコンクールに送ったところ、とあるマレーシアの大きな大会で優勝。それが彼女のターニングポイントになった。変わった経歴の歌手が生まれたというので注目され、CMに声の出演が決まり、その現場で、当時、広告代理店レオ・バーネットのエクゼクティブディレクターだったヤスミンに初めて出会った。そんな役職にも関わらずまったく威張ることのなかったと初対面の印象を語った。さらにサッカーW杯キャンペーンCMに今度は顔の出演を果たし、その後、いよいよ映画出演をオファーされたのだと。1本目の『細い目』では、カクヤム(ヤム姉さんの意味)というヤスミン監督の実家にいたクイーンのように君臨していた実在のメイドの役で、「私のような太った外見のような人を起用することはマレーシアではあまりなかったのですが、ヤスミン監督の意図は、愛情、敬意を持って人に接すること、使用人だからといって奴隷のように扱うことはしない、お互い人間なのだから、という思いが込められていた」と語った。ヤスミン監督はマレーシアの慣習、常識、バリアを打ち破るような映画作りをしたが、そのようなヤスミンの強さについてアディバさんは、ヤスミン監督の実のお父さん(映画ではアタンという名で呼ばれる)が下敷きになっているのだと明かした。さらにヤスミン作品の常連俳優ハリス・イスカンダルについて、スタンダップコメディアンとして活躍していて、フィンランドで行われた「世界でいちばんおもしろい男コンテスト」に優勝したというエピソードも教えてくれた。また撮影監督キョン・ロウについては、「プロデューサーのローズ・カシムになぜいつも撮影はキョンなのかと質問したところ、CM作品の時からずっと彼がカメラを回していて、その理由は、どんな汚いもの、例えばドブを映すときも美しく撮るから、ということで、私もそのとおりだと思う」と付け加えた。

◆ストレスフリー、ハピネス溢れる現場

ヤスミン組の現場については、「いつもハピネスが溢れていて、それは1本目の『細い目』の時にとくに感じ、監督がやろうとしていることを信じてついていこうと思いました。発想の転換、通常であればありえない、人種、宗教、背景の異なるふたりが結ばれるという画期的な作品を作った監督。ヤスミン自身がコメディアン的な人柄を持ち、また心理学を学んでいたので人の気持ちを引き出すのがとても上手。ひとりひとりの人生の話を聞き出してそれを反映しようとしていた。私の感じる限りストレスのない現場だった。そしていまマレーシアでまさに必要とされていると感じた。”バラナ(出産)”と私は呼んでいますが、ひとつのことから小さい出産が起きるのです。つまり監督は多くのアイディアが浮かんでしまい、それを入れ込もうとして、機材のレンタル期限とかあるのでクルーには少しストレスがかかっていたかもしれません。でもそれ以外はまったくストレスを感じる現場ではありませんでした。」現在のマレーシアについては、「自分と違う宗教、人種のお祝い事を一緒にお祝いしたいという国民性があると思います。ごく一部の偏狭な考えを持つ人や、現在の首相に問題があって分断が進んでしまったということもあるが、それとは逆に、異なる人種、異なる宗教の間の結婚も増えています。何か人種のことで問題発言をしたりするとネットですぐに叩かれるという現象からもわかるように、異人種、異宗教のことを描くのはタブーではなくなってきている」とコメントした。

◆”ヤスミン的”の先走り感

ヤスミン作品に造詣の深い京都大学山本博之教授は、マレーシア社会とヤスミン作品との関係性について、「物語風に作られたCMについて批判を受けたこともあり、その結果、セリフなしのCMにするという規制ができたりもした。また映画では、ヤスミン以降、多民族性を前面に出す作品は増え、人気がでるようになった。しかし実際は、ヤスミン監督が作ろうとした”多民族で壁を乗り越える”というようなものではなく、複数の民族の登場人物を出して”ヤスミン的”と呼ばれることが最近は流行っている」と解説した。

◆I just wanted to tell the story

アディバさんは、制作者としてのヤスミンについて、ビジュアル的に創造性に欠けるなどと批評を受けたことがあるが、そのときヤスミンは「I just wanted to tell the story」と答えた。ヤスミン作品は実際の人生が投影された、真摯で正直な作品。だからこそ心に訴えかける映画だった。いまヤスミンぽいことをやってみるという風潮はあるが、描いているだけで気持ちが置いてけぼりになっている」と結んだ。

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 (※このトークショーは2017年3月24日に行われました。)

取材・文:福嶋真砂代

www.moviola.jp

2017年3月25日(土)ロードショー

シアター・イメージフォーラム info

トークイベント》
4/8(土)15:30の回上映後。ゲスト:松江哲明監督(ドキュメンタリー監督)
4/9(日)15:30の回上映後。ゲスト:石坂健治さん(東京国際映画祭「アジアの未来」部門プログラミングディレクター/日本映画大学教授)
※いずれも予告編なし
《ミニライブ》
4/14(金)18:45の回上映後。ゲスト:井手健介さん(ミュージシャン)
※いずれも予告編なし

《割引キャンペーン》
「マレーアジアンクイジーン」でお食事したレシートのご提示でシアター・イメージフォーラムでの『タレンタイム~優しい歌』当日一般料金から200円割引 ※他の割引サービスとの併用不可

タレンタイム〜優しい歌 | シアター・イメージフォーラム

 

Interview 001 小森はるかさん(『息の跡』監督・撮影・編集)

「暮らすうちに、いろんな人の記憶を知り、毎日同じ風景の中にいることで、身体に馴染んできた」

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ドキュメンタリー『息の跡』の監督、小森はるかさんは、キャリーバッグを引っ張り「ネットカフェで寝るのは限界かも」とインタビューの場所に現れた。現在は仙台を拠点としているため、極力節約の東京滞在なのだろう。小柄な彼女がこんなに骨太な作品を生みだす機動力と強さを見たような気がした。2011年東日本大震災の後、アーティストの瀬尾夏美さんと共にボランティアのために東北を訪れ、翌年にはふたりで引っ越した。岩手県内陸部の住田町に、以前は学生寮だった一室を借りて、アルバイトをしながら陸前高田の「佐藤たね屋」に通い、撮影をした。店主の佐藤貞一さんがいい声で朗々と唱える「ケセンダマシイ」を耳にして、小森さんの中にもケセンダマシイの種が育っていたのかもしれない。「歳なんぼだっけ。27、8?」「23」「まだそんなもんか! まるで豆粒だな」「豆粒って…。」そんな佐藤さんと小森さんの飾らないやりとりがたまらない味を醸し出す。記録者として、表現者として、そしてひとりの人間として受け入れられ、過ごした”充実しすぎた日々”のことを、また柔らかく鋭敏な感性でじっくり人間をフォーカスした作品について、率直に語ってくれました。

聞き手・文:福嶋真砂代

あなたたちの本当の役割はカメラなんでしょ?

ーー撮影のきっかけは、被災者の方から「自分でその場所を見に行くのは辛いので記録してきて下さい」と頼まれたとか?

小森: 2011年3月末にボランティアとして東北に行き、その時は「記録」することは考えずにいました。ボランティアと言っても避難所の物資の仕分けくらいしかできなくて、そんな時、宮古市の避難所のおばあちゃんに「あなたたちの本当の役割はカメラなんでしょ?」と言ってもらえて。カメラは持って行ってたし、自分たちとしてもカメラを回したい気持ちがどこかにあったと思うんです。だけど人前で取り出すこともできないし、何のためになるかということも全くわからずにいたので、その言葉に自分たちがするべきことを教えてもらいました。他にも東京に住んでいて、被災地には行くことのできない人のかわりにお家を訪ねて、写真やビデオメッセージを撮ってくることもありました。「それならできる」という感じで始まったんです。

ーーそのおばあちゃんを皮切りに人脈が広がって、地域の人たちと交流が生まれたという感じなのでしょうか。

小森:最初は本当に誰も知り合いがいなくて、ボランティアをしながら、東北に住む瀬尾の恩師のご親戚や友人の遠いご親戚の安否を尋ねて、石巻陸前高田や沿岸部を行ったり来たりしてました。地域の人と交流するようになったのは住田町に住むようになってからです。

ーー住んでからは、人との関係性は変わりましたか?

小森:全然違いました。やはり同じ空気の中で、「明日会えなくてもまた会えるかもしれない」という距離感で一緒に暮らしていると、「会わなくても近くにいる」という感じになるんです。小さい町なので少しずつ関係が広がって、自然と知り合う人が増えていきました。あたかも自分たちが町の一員かのように「仮置き」させてもらってた感じです。

ーー瀬尾さんは写真館、小森さんはお蕎麦屋さんでアルバイトをしていたと。どうやって仕事を見つけたのですか?

小森:引っ越してすぐは、ふたりとも震災の記録を残すアーカイブプロジェクトの一環で、記録事業の現地スタッフとして仕事をしていました。その時に出会った写真館の店主の方が消防団の団長さんで、話を聞きに行ったりするうちに、写真館を手伝ってほしいと瀬尾が頼まれ、働くようになりました。でも私は写真の技術がないので、そこには行けないなと思って、しばらく地元のローカルテレビ局でアシスタントの仕事をしてました。ただ、瀬尾は町の中の写真館でどんどん地域の人たちとの関わりが増えて行くのに、自分は逆にちょっと外側の毎日ニュースを作るという場所にいて、こういう関わり方でいいのかと悩み始めました。そんな時に、写真館の店主の方から再開したばかりのお蕎麦屋さんを紹介してもらいました。震災前はお寿司屋さんだったけれど、津波で従業員の方やご家族を亡くされ、ご主人がひとりでもできるようにと始められたお蕎麦屋さんでした。「そこを手伝ったら?」と言われて働くようになったんです。働いている方は親戚の方がほとんどで、その中に自分ひとりがよそ者のアルバイトとしてお手伝いしてるという状況でした。

絶対にカメラを向けられない人がいることを忘れちゃいけない

 ーー小森さんが来てくれて、お店はすごく助かったでしょうね。

小森: むしろ私のほうがお世話になっていました。朝から夜まで、工事関係者のお客さんもとても多いので忙しかったです。撮影している時間よりも、このお店にいる時間のほうがよっぽど長かったと思います。私自身は撮影が本業だけど、そういう仕事をしてる人間が受け入れてもらえるのかという心配もありました。ですが、そのことも理解してくれつつ、一人の人として接してもらい、たくさんのお話を聞かせてもらいました。それがとても嬉しかったし、充実しすぎた日々でした。撮影をすることがすべてではない、絶対にカメラを向けられない人がいることを忘れちゃいけないということも、このお店にいたから持ち続けられたのだと思います。

ーーたね屋さんに「どこで仕事してんの?」って聞かれるシーンがありますね。まさにそのお蕎麦屋さんなのですね。

小森: はい、「かもんで」って答えてます。元々は漢字で「家紋」という寿司屋でしたが、今は蕎麦屋「かもん」になって、町のみなさんもよくご存知のお店です。

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(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA

たね屋さんとの出会い

ーーたね屋さんとはどういう感じで出会い、最初の印象はどうでしたか。

小森:たね屋さんに会ったのはお蕎麦屋さんで働くもっと前です。記録事業のスタッフをしていた時に手記集を集めたりもしていたのですが、陸前高田の地元の人に「英語で手記を書いてる人がいるよ」と教えてもらいました。まだ町に知り合いもいない頃で、そんな時にたね屋さんのことを教えてもらって、遊びに…、いや、訪ねて行きました(笑)。佐藤さんは最初からあの調子で、お店のものを見せてくれたり朗読してくれたりしていたんですが、その時お客さんが「それまで辛い状況だったけど、そろそろ何か育てようかな」という感じでお店にいらっしゃいました。佐藤さんがとても優しく対応しているのを見て、「こういう人たちのためにここで種を売り、苗を作っているんだな」と思いました。それが私がお店を訪れた最初の日でしたが、このお店の日常みたいなものを一瞬にして見たような気がして、その日常の細部をちゃんと知りたいなと思うようになりました。

ーー撮っていくうちに小森さんの気持ちの変化はありましたか。

小森:わかるようになったことがたくさんあって、佐藤さんがなぜ手記を外国語で書くのかも、いっぱい理由があるし、わかるというよりも情報が増えていきました。「たね屋」さんに毎回行くたびに何かが変わっているんです。お店も改善されていくし、佐藤さんの手記もどんどん書き直されて、また新しいことを発見したとか、そんなスピードに私は追いつけない、追いつけないというか、凄すぎて毎回驚いていました。追いつきたいという気持ちもありましたが、その全部を記録することが私の役目じゃないなと思いました。そういうのは佐藤さんの手記にすべて書き残されているので、いつか本を読む人のもとへ届いていくと思いました。

ーー「たね屋の解体」は、撮影し始めた時には時期とか見えていたんですか?

小森:見えてないです。ずっとそこにあるとは最初から思っていなかったのですが、解体が近づくことがわかった時に、それを映画の終わりにするのはよくないのではないかと思いました。勝手に映画の中で悲劇的な「終わり」をつくってしまう気がしたんです。山形国際ドキュメンタリー映画祭(2015年)にかけてもらった時は、まだ解体もされていなかったので、解体するシーンで終わりにしようという気持ちはありませんでした。

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(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA

たね屋は悲しみの種は売らない、希望の種を見つける

ーー山形の上映の時は「たね屋」はまだあの場所にあって、上映を観たプロデューサーの秦岳志さんが佐藤さんに会いに行かれたと。小森さんも上映後に追加撮影をされたのですね。

小森:去年6月に解体が決まったのですが、劇場公開する話も決まっていて準備を進めている時期でした。記録をする者としては撮りたいと思っていたので、映画に入れるかどうかあまり考えずに撮影に行きました。佐藤さんも解体自体は進めていたんですが、撮影に来るのを待っていてくれました。解体の順番もはっきりと決まっていました。それが映像に写ることも意識されていたと思います。終わり方をしっかり作るというか、終わらせるのも手作りというか、大事なものを最後に抜くことも決めていました。

ーー井戸ですね。 

小森:そうです。それから絵も最後まで残ってたし、ちゃんと順番が決まっていたんです。ひとつずつ、これを捨てるか捨てないか、悩みながら分解していく。最後の最後まで佐藤さんの手作りなんだなと、それを見た時にこの作品に残すべき記録だと思ったんです。私としては覚悟していたよりは辛くなくて、むしろその作業を見ているのがおもしろかったんです。佐藤さんが一人店を作り始めたときはどんなだったのだろうと、一つ一つに凝らした工夫、そこに費やした時間が想像できるようでした。後になって辛さは来るものなんですが、見ている時は「やっぱり佐藤さんだな」と思っていました。

ーーいつも興味を絶やさず、佐藤さんがひとつひとつを”楽しみながら”進むスピリットに、何があっても人間はそうやって生きていくのだということを学んだように思います。

小森:やっぱり「たね屋」という職業だからだと思うんです。ただがんばろうとか、前向きにいきましょうということではなくて、役割として「たね屋」であることが佐藤さんの中でぶれなかった。たね屋は植物を育て、受け渡していく仕事です。震災や津波があっても芽吹いてくる植物たちを佐藤さんは町中探し歩いていました。それを見つけては慰められたと話してくれました。だから前向きでいられると。たね屋は悲しみの種は売らない、希望の種を見つけること。そしてその生き方を見せることが、亡くなった方への供養だとも話してくれました。

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 ーー手記を慣れない外国語で書くこと自体驚きですが、曖昧さや感情的になることを避けるために英語で論理的に書くとおっしゃってたことや、そうすることで世界のどこかに記録を残したいという「たね屋」的発想も凄いです。

小森:書くうちに外国語で書く理由が増えていったり、変化していったものもあると思います。震災前に佐藤さんは英会話教室に通っていて、その教室の先生や生徒さんが津波で亡くなっているんです。その先生の最後の授業はニュージーランド地震を題材にした授業だったらしいんです。その先生たちのことを思って英語で書く、というのも佐藤さんにとっては大事な理由だったと思います。

ーー佐藤さんのそういう過去の話なども聞かれていたんですね。どれくらいの間隔でたね屋さんに通っていたんですか?

小森:月に1、2回という感じです。お店には仕事帰りとかにちょくちょく顔を出していましたが、撮影に行くのはそのくらいの頻度でした。

ーー撮影は開店前や閉店後だったとか、何かとり決めをされたんですか。

小森:お客さんもいらっしゃるので、できるだけお店の邪魔になるようなことはしたくなかったんです。営業時間はお店の手伝いをすることもありました。撮っている時はまだ何になるとかわからなかったけど、とにかく通うと決めて月に1回くらいは撮りたいと思っていました。他の人も撮影していたのですが、いちばん続けることができたのがたね屋さんの撮影だったんです。

 映画にするというのは手放すことなんだとも知りました

ーー『波のした、土のうえ』(2014年、瀬尾夏美との共同制作)では出演した被災者ご本人が味のあるナレーションをされていました。『息の跡』はナレーションはなくて、小森さんが時々登場して相づちを打ったりしてますね。聞いたところでは山形バージョンには小森さんはあまり登場していなくて、完成版には小森さんがかなり登場するようになったのですね。

小森:山形上映の時も「作品」ではあったのですが、まだ「記録」という意識だったのかなと思います。事象が時系列で並び、佐藤さんしか映っていないような作品でした。佐藤さんの孤高な姿が、サスペンス感があって映画としておもしろいという感想をいただいて、むしろそういう感想しかなかったんです。一方で、私は「映画」として作品が見られると思っていなかったので、そう見られることにびっくりしたのですが、佐藤さんが「独り」であることとか、特別な存在のように映ってしまうのは事実とは違うし、佐藤さんと外の人たちとの関係を、私自身がそこまで踏み込んで撮影ができていなかったわけで、そのような作品のまま一人歩きしてしまうのは違うなと思ったんです。再編集に加わってくれた秦さんにそれを話したら、秦さんは私がしゃべっているシーンを素材の中から見つけてきました。

ーーたね屋さんが小森さんと交わす「将来どうするの?」みたいなやりとりも、ふたりの柔らかい関係性がよくわかる好きなシーンでした。

小森:けっこう撮影中もしゃべってしまっていましたが、表に出すつもりで意識して話してたわけじゃなかったんですよね。私が登場人物になることは最初は嫌だったんですが、佐藤さんを独りにしないほうがいいということもあり、編集途中で見てくれた人からも、こういうやりとりがあった方が面白いという意見が多かったので、最終的に残すことにしました。

ーー改訂版は自分の思っていない方向になっていった?

小森:混ざっていますね。うまい具合に混ざっていてそれがおもしろいと思いました。いわゆる”自分の作品”みたいなものにならなくてよかったなと。そういう作業がもうすでに編集していた作品でできるんだなと発見しましたし、映画にするというのは手放すことなんだとも知りました。自分の手だけでは手放せなかったと思います。

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◆いちばん難しかったのは、何かを作る者であるとか、”よそ者”であることを見失わないようにすることだった

ーーお祭りや雪の中の獅子舞のシーンが美しく幻想的でした。山形バージョンにも入っていたシーンですか。

小森:お祭りのシーンは最初からありましたが、獅子舞は私が入れたいと言って、秦さんが編集してくれました。元々私は抽象的なものばかり作っていたんです。でもそれを陸前高田でやりたいという思いはなかったんです。だけど、カメラを回しているとどうしても撮ってしまう画がありました。でも記録としてどこか形に残しておきたい気持ちもあって、その素材が活きるように秦さんが構成から組み直してくれました。

ーー感じるのは、小森さんが陸前高田に行って、そこで見たものを記録するという「記録者」という役割と、何かを作りたい、表現したいというクリエイターとして欲求との狭間で葛藤があったり、辛かったりしたのではと。

小森:自分が持っている表現の方法と、記録したいという意志が合致するのだろうかという葛藤はしばらくありました。最初は合致しなかったと思うんですが、撮りたいものが明確になってきてからは、だんだん近づいてきて、今はそういった葛藤はなくなりました。

ーーその場所に住んで、いろんなことを感じたり、時間が経過して、自分の中で近づいたのでしょうか。

小森:そうだと思います。まず「記録」が自分にとって一番の軸なのだと自覚しました。でも記録をするのにも、ただ撮ればいいわけではなくて、記録したいと思う瞬間に立ち会えるような身の置き方を考えなくちゃいけない。どう進んでいくのかわからない現実を前にして、身体を動かせるように四苦八苦しながら、最初はガタガタのカメラワークでした。それが暮らすうちに、いろんな人の記憶を知り、毎日同じ風景の中にいることで、身体に馴染んできたものがあるんだと思います。自分が撮りたい画でもなく、ぶっきらぼうなカメラでもなく、その場の空気に撮らされてしまうような撮影ができるようになっていった実感がありました。それは私が震災前からカメラを持ちながら実感してきた撮る喜びと通じています。どうしたら伝えられるのか、その都度、その都度考えると、撮影の方法も編集の方法も、いままで「表現」でやってきたことと交差するんだなと思いました。いちばん難しかったのは、何かを作る者であるとか、”よそ者”であることを見失わないようにすることだったと思います。瀬尾とふたりでいたからこそ、見失わずにいれたんだと思います。

ーー瀬尾さんの存在は大きいのですね。

小森:彼女は頭の回転も速くて、次にどうしたらいいかという勘が鋭くて、道を開いていってくれます。自分たちがなぜここにいるのかということも常に言語化していて、それに私は助けられていると思います。私ひとりだったらたぶんわからなくなってしまうと思うんですが。瀬尾がふたりの活動の軸を考えて、私は事務担当みたいな役割分担ができて、ふたりだけど組織みたいな感じです。

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(C) 2016 KASAMA FILM+KOMORI HARUKA

ーー瀬尾さんの『息の跡』への関わりは?

小森:「息の跡」は直接制作に瀬尾が関わっているわけではないのですが、瀬尾自身は佐藤さんのことを一人称語りで書いた文章の作品を作っています。普段から、一緒に作品制作するのではなくて、同じものを見て聞いて、そこからそれぞれが作ったものを最後に合わせるというような表現なんです。そういう意味ではいつもと変わらないといいますか、全く関わりがないわけではないと思います。

ーーこれからもふたりで活動して行こうと?

小森:それはしばらく続けていきたいと思っています。ユニットという形ですけど、基本的には個人で、「小森はるか+瀬尾夏美」という名前で活動しています。それぞれの視点で見つめていくものがあると思いますが、重なったり離れたりしながら、二つの視点があることが大切だと思っています。様々な人とも協働しながら、表現の方法を柔軟にしていけたらと考えています。

 このインタビューは2017211日に行われました)

プロフィール

こもりはるか/1989静岡県生まれ。映像作家。映画美学校12期フィクション初等科修了。東京芸術大学美術学部先端芸術表現科卒業、同大学院修士課程修了。20113月にボランティアとして東北沿岸地域を訪れたことをきっかけに、画家で作家の瀬尾夏美と共にアートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」での活動を開始。翌2012年、岩手県陸前高田市に拠点を移し、風景と人びとのことばの記録をテーマに制作を続ける。2015年、仙台に拠点を移し、東北で活動する仲間とともに記録を受け渡すための表現をつくる組織「一般社団法人NOOK」を設立。主な展覧会などに「3.11とアーティスト|進行形の記録(水戸芸術館)」、「Art action UK レジデンシープログラム(HUSK Gallery/ロンドン)」、「記録と想起  イメージの家を歩く(せんだいメディアテーク)」「あたらしい地面/地底のうたを聴く(ギャラリー・ハシモト)」等。現在は自主企画の展覧会「波のした、土のうえ」、「遠い火|山の終戦」を全国各地に巡回中。共著に「論集 蓮實重彦」(工藤庸子 編、羽鳥書房 刊)。本作『息の跡』が劇場長編映画デビュー作となる。

インフォメーション:

『息の跡』

http://ikinoato.com/

監督・撮影・編集:小森はるか
出演:佐藤貞一

2016/93/HD/16:9/日本/ドキュメンタリー

配給・宣伝:東風

2017年2月18日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次ロードショー

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